第一話 救われない可能性
海は、嫌いではなかった。波の音は耳に心地よく、荒ぶる日には力を感じる。
海は、今も嫌いではない。不意に海を見たいと思うこともある。恐らく回帰の願望に似ている。
海が、好きだった。海だけが、自分を殺してくれる気がしていた。
海が、嫌いになった。殺すものを間違えたから、海のことが嫌いになった。
どうして間違えたのだろう。どこで、間違えたのだろう。これほどまでに違うものを、どうして海は取り違えたのだろう。
海が、好きだった。今は嫌う。
頭痛のする瞬間は生きていれば星の数ほど経験する。気絶したくなるほどのものをどれだけ経験するかは、議論の余地があるだろうが。
その日、産声を上げたばかりのはずの赤子は、生誕一時間で気絶した。
(訳が、わからない)
ついでに言えば言葉も分からない、と内心毒付く。赤子が生後一時間で気絶してしまったため、家内は上へ下への大騒ぎで、真っ青な顔をして現れた医者らしき人物の診察を呆然と受ける当事者は、目覚めて三時間経つというのに現状を受け入れきれずにいた。
(いや、いけないな。現実逃避は最悪手だ。頭を止めては)
生き残れない。
そう思考しているのは誰なのか、当人は良く知っている。
佐竹麗姫。享年三十二歳、独身。死因は飛行機事故で、天国的な場所も地獄的な場所も何も通過せずに、現在極めて不可解な状況に直面している元外交官。帰りたい、と彼女は思った。だが、何処へ。
(――死んだ。私は、一度)
死んだのだ、と理解したのは生まれて半日経った頃だった。麗姫は覚えている。彼女は飛行機事故に巻き込まれ、エンジン爆発の影響で飛び散った機体の破片を腹に受けて、大西洋に沈んでいった。その、痛みも、彼女ははっきりと覚えている。傍らでは男が三人何やら難しい顔をして話し込んでいる。慌てていた影響で自分の名前どころか性別すら把握できていない。これは致命的な失態である。そもそも全くまともな赤子らしくないこの半日の自分は、望ましくない事態をもたらすだろう。そう、帰りたい。何処へ。
(私は)
帰りたい。それがどれほどの無茶でも、彼女はそう願い続ける。
無駄に豪勢な揺り籠の中で、麗姫は丸くなって布団に埋もれた。彼女は先ほど、自らの名前を知った。正確に言うと、情報を収集し続け、断片をつなぎ合わせて、ようやくパズルが完成したのだ。彼女はその衝撃から抜け出せずにいた。もう暫く現実から離れた海の中で、水母のように漂っていたかった。
リノリア・リノンベール・クォーツェ・シュベール・ロザンマリア・フィリグラフ。
それが間違っていないのなら、彼女は一文字も違えず“彼”の名前を知っている。
信じられない、と言葉にもならない呻きを漏らしてから、彼女は寝返りを打つ。人間というものは壊れた生き物だが、いるとも知れない神とかいう存在もまた、人間から見れば理解しがたいものらしい。転生というだけですでに満腹であるものを、何故ここで余計な要素を追加してくるのか。
(思い出せ……柚季は何と言っていた?『青き歌は戦場に響く』、主人公の……名前、か?デフォルトがどうこう言っていたが……セフィユナ、だったか。リノリア・フィリグラフは悪役令嬢……)
乙女ゲーム『青き歌は戦場に響く』、通称『青歌』。麗姫自身はプレイしたことがない。だが、それは彼女のほとんど唯一に近い親友、花塚柚季のお気に入りのゲームだった。会う度に語られた記憶を辿り、麗姫は情報を整理する。しかし死に際の記憶が鮮烈すぎるせいか虫食いになる。苛立ち紛れに揺り籠を蹴りつつ、麗姫は必死に思い出を掘り起さんとした。
(まずい、誰か来た)
麗姫は足をばたつかせるのを止めて、入ってきた男達を注視する。この部屋に出入りするのは二人の若い男と仮面を被った男性らしき人物、乳母の女だけだった。母親らしき女性は未だ現れない。リノリアは貴族の娘であり、母ロザンマリアは元王族であるのだから、普通の日本の家庭のような考えは打ち捨てるべきなのだろう。
ロザンマリアのことは一度頭から追いやって、麗姫は入ってきた男二人の会話に耳をそばだてた。常に装いの美しい男と、質素ながらも身なりの整った男が、部屋に入って赤子の顔を見ることもなく話し込んでいる。ここ数日情報収集に徹した甲斐もあり彼女は大人たちの会話の五割方を理解できるようになっていた。赤子が言葉を理解していることを露も知らない大人は静かな声ながら好きに話して去っていく。その内容は専らリノリア自身に関係することだった。
(馬鹿な。隠し事は嘘よりも性質が悪いが、嘘は隠し事よりもトラブルを招くぞ)
フィリグラフは今、王家にとある「嘘」を吐くか否かで揉めている。その必要性は麗姫もある程度は認めるところだが、未来を僅かなりとも知る彼女にとってはその「嘘」は忌避すべきところのものであった。
「――。だが、リノンベールは――なのだから、――」
「いけません、シュベール様。リノンベール様が――を受けているとはいえ、それを王家に知られてしまえば取り返しのつかないことになります」
「紅き――などただの――だろう。兎に角、お前の意見は聞き入れよう。だがそれは十五までだ。それ以上は隠し切れぬ。――も――も、もう限界なのだ。ゲッカの言うように、――が――するまではそう長くはあるまい」
彼らの会話をつまみ食いしながら、麗姫の視線が扉のある正面の壁をさらう。彼女は柚季との会話の中で『青歌』の固有名詞を一通り聞いている。人の名前のようだが、その中に「ゲッカ」という名称は覚えがない。忘れているだけか物語上名前も出ないような些事だと自分に言い聞かせ、聞き知らぬ名前を棄却する。
(まあ、いいか。誰でも――)
だが、彼女はあの仮面の人が誰であるかを知らない。
高く結わえた髪を揺らし、少し疲れた顔の乳母を連れた幼子が少年の背後に立つ。足音に気付いていながら無視し続けた少年は、背中に突き刺さる視線の痛みに耐えかねてそろりと振り返った。
「兄上」
舌もろくに回らないような歳のくせをして、明快な言葉を話すフィリグラフの麒麟児リノンベールの鋭い呼び声に肩をすくめて、少年はやれやれと頭を振る。
「分かっている。分かっているさ、リノン」
「リノ、です。兄上」
「リノ」はリノリアの愛称であって、彼はその呼び名が好きではない。彼の腹違いの子供はもうじき三つを数えようという今の時点で「リノンベール」を押し隠す。
「もうすぐ政治歴史学の先生がいらっしゃいます。遊んでないでさっさと用意をしてください」
「リノン、兄への優しさは」
「リノ、です。兄上。優しさが欲しいんですか。なら真面目にやってください。兄上のサボり癖のとばっちりを食うのは私です。分かってますか」
「お前もさぼればいいじゃないか。わたしもおまえも今更授業など必要ない。だって――」
「兄上が歴史の授業を受ける必要があるのは、基本的に学力のためではありません。社会性の問題です。分かってませんね?」
「分かっているさ」
フィリグラフの麒麟児は二人いる。一人は無表情で兄を責め立てるリノンベール。子供用のドレスを身に纏いながら心の欠落した顔で家庭教師を泣かせる異端の子供。
「社会性の無い領主なんて論外だ。そういった意味ではリノンの方が相応しい」
「ですからリノだと……まあいいでしょう、それはもう。ですが私の方が領主に相応しいというのは嘘ですね。兄上は私よりもよほど優しいので」
「その優しさは本当に必要か?リノン」
少年の柔らかな指が頬に触れて、リノンベールは目を細めた。もう一人の天才はリノンベールの腹違いの兄にして次期フィリグラフ公爵家当主、ウィネグス・モルティ・クォーツェ・シュベール・アインシア・フィリグラフ。屈託のない笑顔で人を惑わす悪魔の子供。リノンベールの母である王妹ロザンマリアが嫁ぐ前に亡くなった先妻アインシアの子で、腹違いだろうと同じ異端のリノンベールをこよなく愛する「本物の天才」である。
「必要ですよ。領主は王ではないので」
「いいのかリノン。そんなことを言って」
ウィネグスがけらけらと笑うと、リノンベールは僅かに頬を緩めた。さぼり癖はいただけないが、この美しい兄の綺麗でないところをリノンベールは気に入っている。
「いいんですよ。未来は確定しています」
子供らしい我儘な論理を、ウィネグスは笑って受け入れた。
とはいえ、リノンベールは兄のさぼりを許さなかった。ウィネグスの首根っこをひっつかんで時間ギリギリに入室したリノンベールに苦笑しながら、教師は席に着くように促す。渋々着席したウィネグスが腰をさすり、リノンベールはひっそりと眉を歪めた。気づいたウィネグスがふいと目を逸らす。
「では前回の続きから参りましょう。ウィネグス様、第三代国王イーラルベール様の治世の概略をお願いいたします」
「第三代の御代には――」
教科書も何も用意せず、歴代で最も出来事の多い三代目の時代を説明するウィネグスにリノンベールは静かな眼差しを向けた。緩く波打つ銀糸のような髪に、アクアマリンを丁寧にカットして磨き上げたような瞳の、人形のように美しい天才にあとは社会性さえあれば完璧だったものを、とリノンベールは嘆息する。彼は破滅的なまでに人付き合いを好まない。決して人嫌いだとかコミュニケーション障害だとかそういうことではなく、表面的には巧く流しているが、彼は普通の人間が理解できないらしい。例外として父シュベールと同じフィリグラフの異端リノンベールとは分かり合えているのだが、それがいつまで続くのかリノンベールは知らない。日々能力を伸ばし続けるこの兄は、いつか全てのものを置いていくだろう。
「それではリノリア様、イーラルベール様がこのように法を制定した理由をお願いいたします」
「この時点で通常の手続きにより立法しようとした場合二つの障害が想定され、――」
それでも兄は優しかった。たとえ他者を理解できなくとも、人に優しくしようという気概がある。だからこそリノンベールは、あの日、あの時、世界の全てを救ってみせると覚悟を決めた。
(誰も、殺させたりはしない)
窓の外で、庭木の上に作られた巣からカッコウの雛が落ちていく。
初めて弟に会ったとき、彼に最初に湧き上がってきたのは「ようやく救われた」という思いだった。癖のない金髪を背に流し深い紅の上着を着こなす幼子を隣に置いて、彼を呼び出した父は「お前の弟だ」と紹介した。生まれたのは四つ年下の妹だと聞いていた少年は酷く驚いた。
「お初にお目にかかります、兄上。ロザンマリアが第一子、リノリアと申します」
曰く二歳を過ぎたばかりの腹違いの弟は、大人がそうするようにはっきりと礼をした。表情の完全に欠落した緑の瞳に薄ら寒いものを覚えてウィネグスは一歩引く。
「わたしは、ウィネグスだ。ウィネグス・モルティ・クォーツェ・シュベール・アインシア・フィリグラフ。おまえの腹違いの兄にあたる。――おまえ、ふたつめの名前はなんだ?リノリアは女の名だろう」
「リノンベールです。兄上」
リノンベールの口元がわずかに綻んだ。アンペルゲアの貴族は名前を二つ持つ。普段使われない二つ目は親しいもののための名前で、セカンドネームを尋ねることは「あなたと親しくなりたい」という意味に他ならない。
「リノンベール。リノンか」
「リノとお呼びください。その名はまだ使えませんから」
ウィネグスの言葉をはっきりと否定して、リノンベールが父を見上げる。若き公爵として辣腕を振るう父シュベールは厳しい顔をして頷き、続き部屋の扉を開いて新たな人物を迎え入れた。
「初めまして。森の子に、海の子」
美しい金の仮面で貌の上半分を覆った奇妙な形の人間が密やかに笑っている。帯剣していることから騎士位の人間かとも思ったが、着流す濃紺の服はどこの所属のものでもない。顔を顰めたウィネグスがちらりとリノンベールの方を窺うと、同じように訝し気な目をして警戒する姿があった。
「そう気を張らずとも良い。この男は私の幼馴染――二十年来の友人だ。貴族ではないがな。そしてリノリアの秘密を知る一人でもある」
「警戒するなとか……それは無理だろうね、シュベール。まあ、心中お察しするよ、海の子。だからお前の疑問に片端から答えてあげよう」
因果関係の見えない口約束をして、仮面の男はじっと視線をそらさない少年の柔らかな銀髪をほぐす。シュベールが一同に席を許し、ウィネグスの真正面に腰を下ろした男はにこりと笑った。
「先に言っておくとね、ロザンマリアは娘など産んではいないよ」
彼は真っ先に双子という可能性を棄却した。となれば、今ウィネグスの隣に座る幼子は正真正銘、女として偽られた現在唯一の男子の王位継承権保有者になる。
「お前はこう思っている。一つは簡単だね。何故危険を冒してまで森の子を『女』だと偽るのか。二つ目も分かりやすい。秘密は誰が知るのか。最後は少し面倒な質問だね。目の前に座る私が誰か」
確信した口振りにウィネグスが眉を顰めると、仮面の人はゆるゆると黄金の頭を振った。予め用意されていた木苺を摘み、三つほど口に放り込んでから一息に呑み込んで、赤い舌で唇を舐める。男の仕草は下品と言うほどでもないが、粗野であまり情緒が無い。
「森の子は既に女として王家に届け出てある。秘密を知るのは本人を除いてシュベールと私、あとは乳母とそしてお前も加わったね、海の子。ロザンマリアは何も知らない。森の子は外で完璧に女の子として振る舞ってるし――まあ、ちょっと変な子扱いだけど」
お茶、と端的に要求して、用意してはもらえないことを悟ると木苺をもう一つ取る。今度はゆっくりと咀嚼してから喉を通したため、零れ出る吐息は甘い香りがした。
「お前、紅い蝶を見たことがあるだろう」
唇の端から溢れかけた悲鳴を無理矢理飲み下したウィネグスの瞳孔が不自然に閉じたり開いたりを繰り返す。それに気が付かないふりをして真っ赤な実を幾つも食べる彼の目の前のこの男は、気が狂っているに違いない。
紅い蝶は邪神の欠片。そう伝えられている故に人は紅い蝶を忌み嫌う。だが自然界にそのような蝶は存在せず、殆どの人間は御伽噺のようなものだと思っている。曰く女神ユナと男神クルベールが定めたというアンペルゲア絶対の掟『神法』の第三条には「紅き蝶を見たらば殺せ」とあるが、存在しないのでは殺しようもない。
ウィネグスは、紅い蝶を見たことがある。
二年前、自身の誕生会をこっそりと抜け出して広い庭園に降りたウィネグスは、樫の木の根元付近を飛んでいる「それ」を見た。王族の受ける加護の証がそうであるように、光で象られた大きな蝶が暗がりの中をひらりひらりと踊っていた。
ウィネグスは蝶を殺せなかった。
翌朝、侍女に起こされる前に樫の木へ探しに行ったが、蝶はどこにもいなかった。彼の見た蝶は加護の証に似ていたが、その数週間前に特別に見せてもらったロザンマリアの青いアネモネよりも遥かに美しかった。ウィネグスは蝶を忘れた。その日以来二度と見ることはなかった。
「『あかいちょうちょをみてはならない』……」
「『あかいちょうちょにあってはならない。あかいちょうちょをみたならころせ。あかいちょうちょをあいするまえに』」
「『あかいちょうちょはひとをころす。あかいちょうちょをあいしたものは、あかいちょうちょにころされる』。――森の子も知ってたんだね、この絵本」
二人の子供は揃って首を縦に振った。今のは有名な古い絵本の一節で、紅い蝶への警戒を促している。
「兄上は紅い蝶を見たんですか」
宝石のような瞳がひたと彼を捉えて離れない。ウィネグスはやっとの思いでそうだ、と返した。
「紅い蝶は綺麗でしたか」
「……ああ」
「紅い蝶を殺しましたか」
「…………いいや」
「では紅い蝶を愛しましたか」
「…………」
「兄上は――」
「覚えていない」
弟の問い掛けをウィネグスははっきりと断った。リノンベールは一瞬だけ呆けた顔をすると、初めて満面の笑みを浮かべた。
「覚えていない。あの蝶のことは忘れたんだ。あの蝶は――」
「愛したんですね。兄上」
リノンベールは兄を肯定した。緑の瞳が喜色に輝いていた。
「良かった。……良かった、兄上、本当に――」
ウィネグスがそれを否定することはなかった。
あの日、確かに彼は紅い蝶を愛してしまったのだと。
皿の上の山盛りの木苺を一人で食べ尽くし、少しは満足したらしい仮面の男は今度こそ紅茶を手に入れて、ゆったりと香りを楽しんでいる。食べている間も話している最中も礼儀作法は壊滅していたが、紅茶を飲む姿は酷く整っていた。
軽く息を吐いて、リノンベールはシルクのタイを手に掛ける。花が咲むようにしゅるりしゅるりと解かれた真白のタイを机に置いて、幼子は上着の襟を掴んだ。壁掛け時計の音が止まっている。赤のジャケットと金刺繍のベストをウィネグスが手ずから受け取って、リノンベールの口元が微かに笑む。仮面の人は見向きもしない。シュベールはリノンベールと共に立ち上がって何をするでもなく執務机に寄りかかり、息子の挙動を眺めている。
「兄上」
花の顔を綻ばせて、鈴のような声で彼を呼ぶ。彼に背を向けたリノンベールは、シャツから腕を抜いて床に落とした。
「私を愛してくれますか」
あの日愛した紅い蝶が、曝された弟の背中で舞っていた。
期せずして危うい話になってて作者は絶叫しそうだよ。