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ケモライフ  作者: 折部 三糸
1/1

願いの始まり

現小児がん患者として、自らの経験に脚色して書きます。

あと、一分⋯⋯十秒前――三、二、一、

キーンコーンカーンコーン。

待ちに待った、心地良い音色の響き。私は目を細めて聴き入った。聞き飽きたチャイムじゃないかと、馬鹿にされたって構わない。私にとっては、違うのだ。

とくにその日は、祝福のメロディーに聞こえた。あまりの嬉しさに、余韻を肺いっぱいに取り込もうと大きく息を吸ったら埃が紛れていたようで、うぐっと間抜けにむせてしまう。

「百恵」

右上から小声で名前を呼ばれて、私は空咳を繰り返しながら苦笑いを向ける。友人の柊花が私を横目に見下ろしていた。

「だい、じょっぶだ、けほっ、よ。いやぁお恥ずかっ、しい、うっ」

寒さにやられたのかねぇ、老体が悲鳴をあげているよと、顎に手をあててみる。

「なにやってるのよ」

「なにって、げっほっ、老紳士のまね⋯⋯」

言いかけて、どきっとした。それは柊花の、二つに束ねたまっすぐな黒髪をわずかに揺らす姿だとか、私と、同じく友人の美希子にしか向けないであろう射るような眼差しだとかに対してじゃない。

一点に、クラスメイトの視線が集中していた。視線の先が私であり、みんなが起立したまま挨拶できずにいるのは、老紳士にふんする私のせいであることをすぐに理解した。教室のあちこちから、小さい笑い声、ため息、あくび。

ふるえる。寒い。空気が冷たい。原因は暖房がきいていないことだけではないだろう。

無いあごひげをつまんだ手を静かに下げ、私は椅子を引く。

柊花がささやくようにため息をついた。吹雪が吐き出されたようにも感じた。

私は自分の耳で暖をとりたかった。

「最近、どうした。ぼうっとしてることが多いじゃないか」

リュックを背負い、一刻も早く教室を出ようとしたとき。あ、マフラー忘れた。数秒立ち止まったのが凶と出たのか、担任の荒谷先生に呼び止められてしまった。筋肉質な長身に似合わないつぶらな瞳に睨まれる。教卓の前であさっての方向を見ながら、そうですかね、と呟く。

「私立高校の受験は、もう来月だってのに。たるんでねえか」

「⋯⋯そんなこと、ないです」

「いや、あるだろ。授業中、よく居眠りしてるそうじゃないか。畠野先生にも言われたぞ。国語の時いちばん前の席で姿勢を正して、寝てたんだって?」

はぁ、とため息と認識されかねない応答を返す。視界の端に黒い学生服がうごめく。受験間近ともあって、教室に残っている生徒は、各々参考書や教科書を机に広げ、まだ帰る気配はない。

「しっかりしろよ、職員室で話題にあがったくらいでおい、目を見ろ、目を。とにかく、もっとしゃきっとしろ!お前には、気合いが足りないんだ。やればできるってわかってるんだぞ」

少し、声が荒らぐ。熱がこもっている。私の何がわかるってんだ。

これだから、体育会系は苦手だ。口を開けばやる気だの気合いだの、明瞭な根拠も確証もない方法を押し付けてくる。押し付けられた私はというと、気圧され、息がしずらくなる。

「おい、聞いてるのか?⋯⋯ほんとに、大丈夫か?」

荒谷先生が訝しげに首を傾ける。なんか、やじろべえ、みたいだな。

「全然、大丈夫じゃないです、ので、もう帰ります」

そう言い終わる前に身をひるがえし、教室を飛び出す。「おい待て!戸宮!」と荒谷先生の怒声が聞こえた気がするけど、どうでもいい。知らない。

廊下を歩いていた生徒が振り返ってきたり、じろじろ見てきたりした。私は下唇を噛み締め、俯いて進む。階段を駆け下りて、二、三段残しておどりばに飛びたかった。だけど、ひゅっと息を吸い込んだらむせて、二、三段踏み外しておどりばに膝を打った。

あっいったーーーげほっーーーーい!

尻をついて、ゆっくり片膝をたてる。スカートがめくれた膝小僧に、夕日をぺたっと貼り付けたみたいに、赤い。喉のつかえと格闘しながら、なんだか情けなくなって、胸の苦しさが増す。

「だーれに会いたいってー?」

ふいに、後ろから能天気な声が降ってくるやいなや、背中にずしっと衝撃が走った。

「っおえ、ちょっ、びっくりしたじゃんか!美希子!」

「うっはははっ、お望み通り、来てあげたよ!」

「うるさっ、耳元で喋るな。ただでさえ声高いんだから。てか、さっきから何言ってんの、なんであたしがあんたを所望しなきゃいけないんだ」

「うわっ、さりげなく人をもの扱いしたな!照れ隠しのつもり?『会いたーーーい!』って熱烈に叫んでた、じゃんっ」

「ひえぇぇっ!つめたっ、ほんとやめて、首はやめてくれえええ、え、あ。マフラー!」

「忘れてたわよ」

私の首に巻かれていたはずの防寒具を、柊花がかがんで手渡してくれた。

「⋯⋯ありがとう」

素直に受け取ると、柊花は眉の端を下げてため息で答える。少しだけ吹雪を顔面に受けたけど、雪女から雪娘くらいにレベルが低くなったかもしれない。

首に絡みついた美紀子の腕を力任せにほどきながら立ち上がる。

「で、なんでまだいるの?」

私が発した素朴な疑問に柊花と美紀子は顔を見合わせた。二人は同じくらいの身長だから、どちらも顎を上げずに互いの目を見ることができる。対して私は、彼女たちといるとき、いつだって見上げてなくちゃならない。背伸びしたって、届きやしない。

「待ってたに決まってるでしょ!」

ほとんど二人同時に発した。

日常に潜むなにげない隔たりに気を取られていた私は呆然とした。

「誰を」

「モエティーを!」

「百恵を!」

これまた同着。ちなみに、『モエティー』というのは、小学三年生の時に美希子が私につけてきたあだ名だ。つまり、柊花も美希子も私を待っていたというわけで。

「うわっ、わざわざ荒谷先生の説教が終わるまで待機してたっての?そんな暇があったら勉強しろや!」

「ひどすぎるよ、モエティー!言われなくてもさっきまで教室に残って勉強してたしそれに」

美希子が唇を尖らす。

「あと二ヶ月くらいしかないじゃん。一緒に帰れるの」

「⋯⋯二ヶ月も、だよ」

「そんな寂しいこと言わないでよお」

少し、冷たすぎただろうか。一抹の罪悪感が湧き、再び首に絡みついてきた腕はそのままにしておいた。

「ねえ、百恵。どこか調子悪い?」

カバンを肩にかけ直しながら、柊花の大きな瞳が私の顔をのぞき込む。まるで静電気に指先が触れたみたいに、踏み出しかけた足が怯む。

そうだよ、そうだったよ。下校のチャイムを耳にしてから、いろんな事象が生じたおかげですっかり忘れてた。

私は本日、すこぶる体調が悪い。

「あは、バレたか」

「あ、やっぱり?」とこちらもお見通しだったらしい美希子を寄りかからせたままの私に向かって、柊花も鼻を鳴らす。

「当たり前でしょ。何年の付き合いだと思ってんの。今日なんて、百恵の体調不良を裏付ける決定的瞬間を見てたしね」

「決定的瞬間?」

数歩先に進んで振り返る柊花。プリーツスカートがふわりと踊り、寒々しい空間に一瞬、花が舞う。

「給食、残してた」

「ええ!」

美希子が私の耳元で驚愕した。非常にうるさい。

「あ、あの、全ての献立の中で一番大好きなやつを?一体なにがあったんだ、モエティー!」

「うるさいってば!別にただの風邪か勉強疲れだから。あと、あんたたちけっこう失礼なんだけど」

「百恵、体調悪いの、今日に限ったことじゃないでしょ。いい加減、病院に」

「あ、柊花と美希子だ。おーい!」

柊花の注意に前方からの呼び声が被さる。下駄箱への曲がり角で他クラスの女生徒たちがたむろしていた。ほんと、なんで皆、そんなに余裕そうなわけ?

あっけにとられかけたが、この機を逃すまい。私はひょいとしゃがんで美希子のホールドを解き駆け出した。「ちょっと、百恵!」「モエティー!」と静止を求められる。立ち止まらず、女生徒の集団を横切り、下駄箱で靴に履き替え、昇降口の扉に飛びついたけど。一難去ってまた一難。

ランニング終わりの合唱部員に出くわしてしまった。

「先輩!こんにちは」

次々と挨拶してくれる部員たちの間を、苦笑いで会釈しながら掻き分けて進む。外に出た途端、校内とは比べものにならない寒さが全身にまとわりつく。薄っぺらなタイツのみに覆われたふくらはぎはすでに凍ったようだ。

「部長。明後日の三年生を送る会、楽しみにしててくださいね」

一人、立ち止まった部員がほほ笑みかけてきた。

「今はあなたが部員でしょ。しっかりしなよ」

私が言わずもがな、彼女は元からしっかりしている。私より、ずっと部長に向いてそうな、頼もしい人間だ。だから託した。

「えへへ。そうでしたね」

「部活、頑張ってね」

「はい!」

元気よくお辞儀して、ポニーテールを揺らしながら校内へ吸い込まれていく。その後ろ姿を見届けて、私は再び走り出した。校舎が豆粒に見える距離まで一気に行ければよかったけど、またしても空咳に邪魔され、足を止めざるおえなかった。五十メートル走をしたとは思えないほど、ひゅうひゅうと息切れしてしまう。膝に手をあて、必死に呼吸を整える。真っ白い空気が絶えず吐き出された。

運動不足、だな。

あまりに忙しなく肺を働かせたせいか、ひどく胸が痛んだ。

なんだか、疲れたな。だから、一刻も早く帰りたいのに。家までの道のりがいつも以上に長い気がする。一生辿り着けないんじゃないかってくらいに。

ああ、早く眠りたいな。勉強なんてほっぽいて、ベッドに倒れ込みたい。そんなことをしても、怒られなければいいのに。好きなだけ休むことを許されればいいのに……そうだ、いっそのこと、

「病気になりたい」

積もりに積もった思いは、私の唇から非情を零した。

中学の同級生たちが少しずつ校舎から散りばめられていく時間。

私の野望とも言える呟きは、からっ風によって、どこかに飛ばされてしまったようだった。

その夜、私の咳き込む様子を見兼ねた祖母に、かかりつけの病院に連れていかれた。それが思いもよらぬ道のりへの起点になるなんて、愚かな私には知る由もなかった。


私は今、病院の診察室にいる。かかりつけの小さな病院ではなく、それまで一度も受診したことのない、大学病院の診察室だ。

パソコンの画面上に開かれたレントゲン写真から視線をはずし、医師が縁なし眼鏡を押し上げる。

「今日から入院してください」

座ったまま、私は目を瞬かせた。

え、入院?今日から?待て待て、待て。いくらなんでも展開が早すぎる。しかも、よりによって高校受験を目前に控えた十二月。踏ん張るかへたり込むかで先の未来を大きく揺るがすことになる時期と言っても過言ではないだろう。当然のことながら私は、学校や塾に成る丈休まず通わなくてはいけないわけで。それなのに、入院しろなんて言われたら⋯⋯。

嬉しすぎるではないか!

「え、あの、どういうことで、すか」

傍らから父の弱々しい声がした。はっとして、頬の内側を噛み締める。落ち着け、百恵。湧き立つ愉悦のせいで口角が上がってしまっていたかもしれない。そろりと父の顔を覗く。唇が、震えていた。

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