「われ泣きぬれて大海に」
「われ泣きぬれて大海に」
この人は、いつまで作戦を練ってるのだろうとサエは思う。
当の本人は、隣りで鳴らせない草笛をむりやり吹こうとして、空気の音をブーブー唇から漏らしている。
「ネクタイ、曲がってるよ」
2人が座る、土手の斜面の下のサイクリングロードを、ロードバイクが2台走っていく。その向こうに、輪郭をなくした夕日が小さな建物や木々の上に染み出している。
「今日はサンマでも焼くか」
つまらなそうに草を投げて、カイが言う。
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パシッと、乾いた音が鳴る。
バインダーに留めたサエのプロフィールを、ボールペンの頭で叩いて、店長は言った。
「だっておばさん、デブじゃん」
長机を挟んで向かい合った、自分より10は若そうな男を見る。てらてらに固めたオールバックが、部屋の照明に光っている。
ほんの数秒、無言で見つめ合う。
「そうですか」
疑問形にしたつもりはなかったが、男は容赦なく決めつけた。
「そうだね。アンタの歳で、この仕事やろうってなら、なんか凄いワザ持ってるとか、スタイルが抜群にいいとか、前職がスチュワーデスとか、とにかくね、そういう武器がないと。専業主婦でのうのうとしてたアンタが、いきなり来て出来る仕事じゃないの」
久しぶりに着けてきた、安いプラチナのネックレスが、首筋に滲んだ汗で、チクチクする。
それが不快で男の言葉が入ってこない。
ふいに、目の前の男が、それを引きちぎってくれればいいのにと思う。
サエの目つきに不穏なものを感じたのか、男は取りなすように言った。
「とにかく、うちは30以上は厳しいから。旦那は何やってるのよ」
ヤニで汚れた壁の時計をチラッと見ると、入室してから、まだ10分しか経っていなかった。
旦那は、代々伝わる味噌問屋の長男で、わたしと結婚した当初は、跡取りとして働いておりましたが、1年ほど前、突如、人生の作戦を練り直すと宣言して実家を出て、今は、戯れに短歌などを作ってはぼんやりと暮らしております。そういうわけで、わたしが遮二無二働かなければならないのです、たとえ、デブであろうと。
そう打ち明けて、10分前に会ったばかりか、初対面の相手にデブと言い放った、この若い男においおいと、泣きつきたい衝動が一瞬脳裏を掠める。
「分かりました。お忙しいところ、お時間を取らせました」
サエは、パイプ椅子から立ち上がる。
人がすれ違うのも難しそうな雑居ビルの階段を身を縮めて降りる。通りに出たら、緊張が解けたか、目眩がした。
***
夕日が死んだように、あたりが少しずつ薄墨に変わっていく
「カイは悔しくないの?情けなくないの?わたしにあんな店に行かせて」
少しだけ前に座る、スーツの背中には、小さな草の葉が無数についている。
それをバシッと叩いてやろうと振りかぶったのに、腕はなぜか、途中で失速して、背中に届く頃には、そっと触れただけになってしまった。
この人を、わたしは本気で叩いてやることも出来ないのか。もうそれほどの愛も執着もないのか。思ったら、昼間、デブと知らない男に決めつけられたより、数倍、胸にきた。
「啄木の歌にさ、われ泣きぬれて大海に向かいってあるんだ」
「そんな話、今してないよ!」
少し待ったけれど、カイは膝を腕に抱えて黙ったままだ。丸めた背中でスーツがピンと張っている。その意固地な姿を見ていたら、徹底的に罵ってやりたい衝動が突き上がってきた。
「ちゃんと働いてよ」
「探してる。今日だって面接に行ってきたんだ。だけど難しいんだよ、僕は味噌作るのしか知らないだろ? それだと、門前払いさ。酷いもんだよ。だからこういっそ、最近は、何か、芸術の道に進むのも悪くないと思っているんだ。勿論、それには時間もかかるし、それまではサエちゃんにも苦労させるかもしれないけれど、ちゃんと働き口は見つけるさ」
まるで光り輝く希望を朗々と語るようなその口ぶりに、イラッときた。
「作戦とか、芸術とか、どうでもいいよ」
手をついたら、湿った土が爪にめり込む。
「何でへらへら笑ってるの。何がサンマ焼こう、よ。バカみたい」
サエは立ち上がる。瞬間、斜面に膝がグラッとくるが、何とか堪えて、歩き出す。
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赤い福神漬けをガバリと小さなトングで取ると、カレーのご飯に載せる。
2人で声を揃えて、小さくいただきますと言う。ガレッジセールで買った折りたたみのテーブルは、一本脚がぐらついている。
カイは、カコカコと、木のスプーンでご飯を崩してルーに混ぜている。こういうカレーの食べ方をする人がいること、カイと暮らし始めて初めて知った。
「良かったね」
サエの言葉に、カイは何故か怒ったようにカレーを口に放り込みながら答える。
「バイトやけ」
「でもいいじゃん。わたしも働くから。2人で頑張って働こう」
カイは答えず、何かの修行のようにカレーを口に詰め込んで、グラスの水をあおるように飲んで、飲み込んでいる。
「ね、どうしたの?落ち着いて食べなよ」
「俺」
飲み込んで、グラスをダンッと置くとカイは突然怒鳴った。
「俺だって、悔しかったさ。だけど、俺には何もなかった。何かあるって、したいって信じて願ってやってみたけど、何もなかった。何もなかった!」
カイはしばらくスプーンを握りしめて、食べかけのカレーを睨んでいたが、ふと脱力したようにサエに笑いかけた。
「そうだな。2人で頑張って、今日のちくわカレーをチキンカレーにして、そしたら次は豚にして、最終的には毎週牛肉でカレーを作れるようにしような」
「何で泣いてるの」
「泣いてない。サエちゃん」
*****
カイに揺すられて、起こされた。
まだ5時で、でもカーテンを開けたら外はほのかに明るかった。
「土手まで歩こう」
誘ったくせに、カイはずんずん歩いて行ってしまう。サエは小走りにあとをついて行ったが、バカらしくなって、カイの手をぎゅっと握った。
振り返ったカイを、思い切り睨んでやる。
早朝の土手には人がいなくて、2人で並んで歩く。ジャリジャリと足音が鳴って、首筋をひんやりした風がなでていく。
「大海に向かいてひとり ななようか」
口ずさむように、思い出したように、カイが話し出す。サエはあとを引き取る。
「泣きなむとすと 家を出でにき、でしょ」
「知ってたんだ?」
「うん。いつかさ、この土手で話した時も、言ってたでしょ」
小さくカイは笑う。
「悔しかった?あの時」
聞くと、ぐっと口を引き締め、カイは前を見つめたまま言った。
「サエちゃんが、好きだ」
「急に、なにそれ」
サエは手を繋いだまま、空を見上げる。
曇天に、雲がゆるゆる流れている。
届かない空と、不自由にも暖かく繋がれた手。自由で、うっとうしくて、この感情と、手のひらの中のぬくもりと、砂利の音と、少し冷たい風。それがわたしの宇宙だと思った。
「前に何もないって言ってたけど、それはさ、やってみないと分からないよ」
サエは、自分に言い聞かすように小さく言う。
「生活と芸術は、ここにあるよ」
カイの手を振りほどき、サエは子どものように一心に走り出す。(終)