プロローグ
「ここが……異世界」
そう呟いた俺は顔をあげ、夜空を見上げる。
日本とは違い、人工的な光りが存在しないからか、頭上には満天の星が広がっていた。
「凄い。月が……三つもある」
誰の目にも明らかな、地球との決定的な違い。
俺は自分の口元が緩むのを感じながらネクタイを外し、ジャケットを脱ぐ。
その瞬間、言葉では言い表せないほどの解放感が全身を包み込んだ。
――俺は、本当に異世界に来たんだな。
事の起こりは、ほんの数分前のことだ。
仕事を終え、終電間際の電車に揺られていた俺は、ふと気がつくと真っ白な空間にいた。
そして目の前には、人の形をした光り輝く『神さま』がいたのだ。
なぜ神とわかったかというと、本人がそう名乗ったからだ。
『我は神。近江正樹よ、いまからお主を異世界に送る』
なんの状況説明もないまま、俺はそう一方的に言われてしまった。
なんでも、普通のおっさんである俺を異世界に転移させ、『暇つぶし』として眺めるつもりだったらしい。
もちろん大反対した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんですか急に!? か、勝手に決めないでくださいよ!」
『お主の意見は聞いていない。神である我がそう決めたのだ。もはや覆らぬ』
「そんなぁ……。くっ、せめて……せめてチート能力を貰えたりはするんですよね?」
『そんなものはない。甘えるな人の子よ。お主はその身ひとつで異世界へと旅立つのだ』
さすがは神さま。三十路を超えた俺をこうも簡単にあしらうとは。
でも――ここで退きさがってなるものか!
「なんの能力もなしですって? へへ……神さま、これを見ても、まだそう言ってられますかね?」
『ほう? 神である我に、いったいなにを見せようというのだ、人の子よ』
神さまの視線が注がれるのを感じる。
俺は地面(ないけど)にゆっくりと両手両膝をつき、額をこすりつけた。
「お願いします! なにか『力』を下さい神さま!!!」
土下座。
自分で言うのもなんだけど、人生屈指ともいえる完璧な土下座だった。
取引先のお偉いさんにやらかしちゃったあの時だって、ここまできれいな土下座はできなかったはずだ。
たぶん、神に弄ばれようとしている危機感から、全身全霊を持って土下座できたからだと思う。
『ほう……』
神さまから反応が返ってくるのに、けっこーな時間がかかった。
『近頃は神でありながら人間に土下座する惰弱な神も多いと聞くが……お主は己の分を弁えておるようだな。素晴らしいぞ人の子よ。お主のように神を敬う心こそ、正しき人の姿』
「ありがとうございます!」
『もうよい。面をあげよ』
「いいえ! 神さまから贈り物――チート能力を頂くまでは、顔をあげることはできません!」
『だから、もうよいと言っておるのだ』
「……え? じゃ、じゃあ……」
『うむ。完璧なる土下座に免じ、お主の望む力を与えてやろう』
大仰に頷いた神さまは、両手を広げ言う。
『さあ、望む力を言え』
一筋の希望を、俺は勝ち取ることができたのだ。
土下座で。
「えと……俺――僕がこれから送られる世界は、どんなとこなんですか?」
『剣と魔法のある世界である』
「じゃあ……やっぱりモンスターとかもいるんですよね?」
『然り』
「そっか……そうですね。じゃー、モンスターと戦えるだけの力や魔法があると助かります」
『良いだろう』
神さまの手から光の玉が生まれ、俺の体に吸い込まれていく。
「ありがとうございます! あ、向こうの世界って、言葉も違ったりします……よね? まずいなぁ……」
『心配するな。他言語を話せるようにしておこう。読み書きもな』
「ありがとうございます! ああ、向こうにしかないウィルスとか病気ってあるんですか? かかったら簡単に死んじゃうんだろうな……イチコロなんだろうな……」
『……各種耐性に治癒能力も高めておこう』
「ありがとうございます! あとそのっ、実は最近うす毛に悩んでまして……」
『フサフサにしてやる』
「ありがとうございます! ああっ、そーいえばボク、超寂しがり屋さんなんで、ホームシックになっちゃったらどーしよう……」
『ええーい! いつでも戻って来れるように転移魔法も使えるようにしておいてやる。……それでよいな?』
「はい! えと、あとですね――――……」
とまあ、こんな感じに神さまから様々な贈り物をいただいたのだった。
『はぁ、はぁ……も、もうよいか?』
「そ、そうですね……もう十分だと思います」
『では……そろそろ送るぞ?』
「はい!」
『よいか、お主には多くの力を授けたが、その力は己で伸ばさねば成長せぬからな。肝に命じておくがよい。では……ゆけい!』
こうして、俺は異世界へと送られたのだった。
「さてっと」
いま俺は、なだらかな丘にひとり立っている。
ジャケットを肩にかけ、時折吹き抜ける心地よい風に身を委ねていた俺は、
「今日は疲れたからもう寝るか」
転移魔法を起動し、とりあえず錦糸町にある自宅に帰ることにしたのだった。