水の器
放課後の窓の外を見ると、朝の天気予報を嘲笑うかのような強い雨が降っていた。
奥隅の席に座っている私が少しだけ窓を開くと、その隙間から心地良い冷気が流れ込んでくる。周囲の喧騒を遮断して雨音に耳を澄ませ、この天水が薄汚い街の隅々まで洗い流してくれればいいのにと思う。
「傘、持ってきた?」
無遠慮に私だけの世界に侵入してきた頭上からの問いかけ。こんな風に話しかけてくる人間はこのクラスにいない。声の方向に顔を上げれば、いつの間にか隣の教室から来ていた美優の笑顔があった。
「もちろん」
天気予報が何と言おうと梅雨時は鞄の中に折り畳み傘を常備している。私の言葉に彼女は満足気に頷いて「一緒に帰ろう」と言った。
成瀬美優は昨年のクラスメイトだ。他の子と同じように一学期はほとんど話すこともなかったけれど、夏休みに駅前で偶然に顔を合わせて無理やりカラオケに連れて行かれてから関係に変化が生じた。八月中に何度か遊びに連れ出され、二学期になってからも友達のように馴れ馴れしく話しかけてきたのだ。
それは決して不快なばかりではなかった。無意味な行為と無駄な時間の中にも楽しいと思える瞬間があった。でも、中三に進級して別のクラスとなった時に安堵したのも事実だ。友達ごっこの中で自分の心が浸食されていくのが嫌だったのかも知れない。自分が自分でなくなってしまうような、そんな感じ。
だけど、美優は私への接触を止めなかった。当たり前のような顔でこの教室にやって来た。私も積極的に彼女を拒絶するようなことはしなかったから、今でも週に何回かは下校を共にしている。
小さな折り畳み傘の下には二人分の空間はなく、美優の右肩と私の左肩が濡れていた。そんな状況でも彼女は気にしない素振りで今日学校で起こった取るに足らない出来事を楽しそうに話している。
優美がこのような笑みを見せるのは私だけではない。昨日も廊下で知らない子と親しげに話している姿を見かけた。私のようにクラスで孤立しているわけではないのだ。そんな彼女がなぜ私と相傘をしているのかが解らない。
家路の途中で天気予報を思い出した雨がぴたりと止んだ。傘を畳んで歩みを速くした私に優美が告げる。
「ねぇ、ちょっと公園に寄ってかない?」
この小さな公園では六月になると鮮やかな紫が咲き誇る。いえ、実際の紫陽花は「七変化」と言われるほど装飾花の色を変えていく。生殖器官を美しい偽花で着飾り、雨露に濡れて光るその姿はまるで妖艶な貴婦人だった。
「あじさい好きなの?」
立ち止まって紫陽花を見つめていた私に優美が問う。
「好きなわけじゃないわ」
この花が枯れても私は悲しんだりしない。
「私は好きだなぁ。あじさいって綺麗だし。ちょっと瀬理奈に似てるかも」
そう言って彼女が小さく笑う。
私は自分自身を花と重ねるほど幸せな思考の人間ではない。でも、確かに陽光を求めない陰湿なところは少し似ているかも知れない。
「あっ、ネコちゃん!」
弾けるような優美の声。視線の先を見ると塗装が落ちたベンチの下で身を縮こませながら震えている子猫がいた。間違いなく野良猫だ。
優美が屈み込んでベンチの下を覗いている。
「病気を持っているかも知れないから触らない方がいいよ」
「大丈夫だって。ほらあ、ネコちゃん、こっちおいでぇ」
子猫に向かって猫なで声を出している彼女の丸まった背中を見下ろす。
小さくて弱々しいその姿が保護欲を掻き立てるのは理解できる。でも、アパート暮らしの優美がこの猫を飼うことはないだろう。無責任な愛情を注ぐくらいなら保健所にでも連れて行った方がましだ。何もしないまま「可愛い」と喜んだり「可哀そう」などと眉をひそめるのはあまりにも醜い。
この猫が死んでも私は悲しんだりしない。
優美が何度か呼びかけても子猫はその場から動こうとしなかった。人間を警戒しているのか、もう歩く力も残っていないのか。どちらにしても梅雨が明けるまで生きていることはないだろう。そして、その腐体がまた街を汚していく。
「もう行くよ」
私が歩き出しても彼女は屈んだまま猫を見つめている。そのまま置いていけば良かったのだけれど、なぜか私は立ち止まった。
もし、優美が死んだとしても私は悲しまないのだろうか。涙を流せないのだろうか。親友とまでは言えなくても、彼女が私にとって唯一の友人であることは確かだ。
この猫が死んだら彼女は悲しむのだろうか。
優美と一緒なら私も泣けるのだろうか。
「ネコちゃん、お腹空いてるでしょぉ」
彼女が猫を誘うための餌として手にしていたのは紫陽花の葉だった。
「その葉には毒があるよ」
私がそう言うと、一瞬の沈黙の後に背を向けたままの優美がいつもと同じ口調で答える。
「知ってるよ」
小さな身体を小刻みに震わせながら子猫がベンチ下から顔を出した。