2 骨のしもべ ④
「きゃあああっっ!!」
黄櫨に背を向け、加奈は両手で顔を覆い、うずくまった。、仁王立ちした黄櫨に、黒髪の若者が罵声を浴びせる。
「何でいきなり変わるんだよっ。女の子に2度も裸を見られて、恥を知れ」
「黙れ。服をよこせ」
「とっとと着ろよ!」
腕に抱いていた巻き衣とサンダルを一つにまとめた塊を黄櫨に投げつけ、ココアは「大丈夫?」と加奈を覗き込む。
「お前だって見られてるだろうが。好きで見せてるわけじゃない。何で変化してしまうのか、わけが分からん」
そそくさと布を体に巻きつけ、黄櫨は顔をしかめた。
「悪行が祟ったんだよ」
「加奈の寝床にもぐり込むような奴に言われたくない!」
加奈はぎょっとして両手を顔から離し、すぐそばでココアが頬を赤らめた。
「何てことを。いや……あの、ごめん。あの時は……あんまり寒くて加奈のそばが暖かそうに見えて……本当にごめん」
「嘘をつくな。寒さも暑さも感じなかったぞ」
衣をまといサンダルを履く衣擦れの音を立てながら、黄櫨の言葉が続く。
「毎晩すり寄りおって。しかも嘘をつく。それを悪行と言うんだ」
「おまえは何もしなかったと言うのか。嘘をつくなよ。正直に言えよ」
「俺はただ、狐の姿で歩いていただけだ」
「どこを」
「……浴場」
巻き衣の端を肩で結びながら、黄櫨は憮然として答えた。加奈は凍りつき、ココアは立ち上がって黄櫨に歩み寄る。
「浴場って、おまえ……見たのか」
「何を」
「何をって……分かるだろ」
「ああ、まあ。……1度だけ」
「見たのか!」
わっと加奈は泣き伏した。どうしてこんな所に来てしまったんだろう。どうしてこんな目に合うの? これは何かの罰だろうか。
パパとママがわたしを置いて逝ってしまわなければ。お祖母ちゃんではなく、別の親戚が呼び寄せてくれていたら。幽霊に会わなければ。守礼なんかに出会わなければ。こんな事にはならなかったのに!
でもどう考えても、悪いのはわたしだ。最悪の選択を重ね、こんな状況を招いてしまったのだ。あの日の朝、両親を止めれば良かった。
両親の事故以来張りつめていたものが一気に溢れ出し、大粒の涙がぽろぽろと頬をつたう。体の奥底からどろどろした熱いものがこみ上げ、大声で叫びたくなった。
「ごめん。本当にごめん」
ココアが駆け寄り、這いつくばるように両手を地面につく。
「悪かったと思ってる。あんな事をするべきじゃなかった。でも加奈があんまり魅力的だから、つい……」
加奈はすすり泣き、嗚咽を洩らした。
両親が生きていた頃に戻りたい。両親の死以降の過去をすべて消し去りたい。守礼や残酷な火あぶりの記憶も。パジャマの胸元に顔を突っ込んでいたのが猫ではなく、目の前の若者だったという事実も。大柄な金髪の若者に入浴シーンを見られたことも。そんな過去を全部、無かったことにしたい。
「償わせてほしい。一生かけて償わせてほしい」
ココアが言い、加奈は泣きながら首を振った。そんなことを望んでるんじゃない。ただ時間を遡りたい。過去を消したいだけ。そう思い、気がついた。
わたしだって見たじゃないの――――2人の全裸を。急いで目を逸らしたけれど、一瞬目に入った映像がくっきりと瞼の裏に残されている。
初めて見た男の人の裸。パパのだって見たことないのに。衝撃の事実に今さらながら打ちのめされ、加奈は再びわっと泣き伏した。
見たくなかったのに。綺麗な裸だったと思うけど――――そんなこと問題じゃない。見たくなかった。それなのに見てしまい、見てしまったら償いが必要だと言うなら、わたしだって立場は同じだ。
服を着終わった黄櫨が彼女の前に座り、腕を組んだ。
「俺も償う。金品を持ち合わせていないから、体で払う。あ、いや、そういう意味ではなく、戦士として君に仕えるということだ」
ううん、いいの。わたしも見たから、おあいこよ――――。言えない。そんなこと絶対に言えない。黄櫨とココアだって、きっと恥ずかしくて気まずい思いをする。
ふと守礼の顔が浮かび、彼もこんな気持ちだったんだろうかとぼんやり考えた。
何を尋ねても答えなかったのは、話せばわたしが辛い思いをすると思ったから? わたしの気持ちを慮り、話せなかったの? 歴史を語ることで不安と恐怖からわたしの目を逸らし、少しずつ辛い現実に慣れさせようとしたの?
まさか。あんな嘘つきにそんな親切心があるわけない。仮にそうだとしても、決してわたしの為じゃない。焔氏の忠実な家来だと、彼は自分で言っていたし。
もう嫌な話は忘れよう。忘れられないだろうけれど忘れる努力をし、他の大切なことを考えよう。懸命に自分を奮い立たせ、彼女は言った。
「……違うの。あなた方を責めてるんじゃないの。今度のことは……わたしに責任があるから」
「君は何も悪くないし、被害者だよ」
ココアが優しい口調で言い返す。
「ねえ、加奈。僕らの一族では恩を返さない奴や、迷惑をかけて償わない奴は軽蔑される。これは僕らの為でもあるんだ。僕に君を守らせてほしい。僕のために、そうさせてほしい」
「俺の家は戦士の家系だ。恩という金品以上の報酬を貰いながら、働かないなど許されん。俺は、君が元の世界に戻れるまで戦士として仕えよう」
「恩だなんて……。わたし、大したことしてないのに」
加奈は涙を拭い、泣き腫らした顔を2人に向けた。
「したよ、謙虚な人だなあ。僕らは真っ暗な世界にいたんだ。君に惹かれ、明るい世界に出ることができた。君を追いかけ、シギに戻ることができた。これを恩と言わずして何と言おう」
「受けた恩は働いて返す。当然のことだ」
「……ありがとう」
こんな悲惨な状況下にも関わらず、助けようと2人は言ってくれる。怒りと苛立ちで叫びたいほどだった心が何とも言えない温もりに包まれ、加奈は泣きながら笑った。
「やった! 笑ってくれた!」
ココアが手を叩いて喜び、黄櫨の顔に満足そうな笑みが浮かぶ。
「思いつきで名前をつけてしまって、ごめんなさい。本当の名前を教えて。黄櫨さんと……あなたは?」
「緑青。『さん』は無しね」
茶目っ気ある緑青の表情に、加奈の顔がほころんだ。
敏捷な緑青は軽々と山道を登り、足元の危ない箇所に来ると加奈に手を差し出した。黄櫨は用心深く周囲を見回し、耳を澄ませている。その間も2人は加奈の気を紛らわそうと、絶えず彼女に話しかけた。
「守礼とは、幼い頃からの知り合いだよ。僕らが子供の頃、この辺りの山が遊び場だった。今でも庭みたいなものだけど、守礼とは一度も遊んだことがないなあ。僕たちだけじゃなく、あいつは誰とも滅多に遊ばない奴だった」
守礼をよく思っていないような、緑青の口ぶりである。
「神官になろうとするなら、遊んでいる暇などないだろう」
「変わり者だったしね。無口でさ。道で会っても挨拶しかしない。鈴姫も、あいつのどこが良かったんだか」
「鈴姫さん?」
加奈は目をぱちくりさせ、隣を歩く緑青を見上げた。彼は、僅かに加奈より背が高い。
「噂があったんだ。鈴姫と守礼は、仲が良かったから」
「灰悠が鈴姫に婚姻を申し入れただろう。あれで守礼が引き下がったと聞いたが」
後ろを歩いていた黄櫨が、加奈に並びかける。
「灰悠?」
「族長の三男坊で、いい奴だったよ。鈴姫がウルウルって呼ばれてた時から彼女に目をつけてたみたいで、鈴姫になった途端、結婚を申し込んだ。ウルウルっていうのは……幼名っていうのがあってね、成人式までは幼名で呼ばれるんだ。ウルウルは『犬さん犬さん、こっちにおいで』みたいな意味。姫神の家は、犬を守護神にしていたから。ちなみに僕の幼名はドシュで鼻曲がり、黄櫨はザルクで臭い奴っていう意味だった」
「ひどい名前……」
「悪霊を寄せ付けないためさ。ひどい名前の子供には、病や怪我をもたらす悪霊が寄り付かないって信じられていたんだ」
目を丸める加奈を見て、緑青は朗らかに笑った。
「で、12歳か13歳ぐらいになると成人したと見なされ、女の子は姫神から、男の子は族長から大人名を貰うんだ。名付け師がいて、有り難い名前を考えてくれる。僕はめでたく鼻曲がりから緑青になったというわけ。話は戻るけど、鈴姫が成人してウルウルから鈴姫になった時、灰悠が結婚を申し入れた。でも、鈴姫は断った」
「どうして?」
「鈴姫は守礼が好きだったから、だと思う。はっきりした事は分からないけど」
「だが、守礼は鈴姫から離れようとした。そのためにアシブからキシルラに移り住んだ」
「そうなの?」
加奈は、長身の黄櫨を見上げた。
「守礼はキシルラの神殿に務め、同じ頃、俺と緑青もキシルラで働き始めた。灰悠はよくアシブを訪ねていたが、鈴姫と灰悠の結婚が決まったという話は聞いていないな」
結婚は決まらなかったのだろうか。守礼と鈴姫と灰悠――――三人の間で何があったのだろう。一言で言ってしまえば、三角関係だけど。その関係と鈴姫が自分に翡翠を預けたことには、つながりがあるのだろうか。加奈は歩きながら首をかしげる。
「その後すぐタリム族が攻め込んで来て、黄櫨と僕は戦死した。……のはずなんだけど、心臓が動いているのはどういう訳だ」
緑青が加奈越しに黄櫨をうかがい見て、黄櫨は首を振る。
「実は生きていると思いたいんだがな。死んだ時のことは、今でもはっきりと覚えている。俺の鼻の下で野菫が咲いていた。空が見たいと思ったが、体が動かなかった」
シギは死を認められない者の国――――守礼はそう言ったけれど。死とは何だろう。生者と死者は何が違うのだろう。黄櫨と緑青を見ていると、何も違わないように思える。
加奈は時間が経っても変わらない空と、月を横切る1羽の鷲を見上げた。