2 骨のしもべ ③
「お前さんたち、わしの鍵も開けてくれんか」
しゃがれ声が響く。
「おまえ、タリム族だろう。助ける義理ないよ」
ココアが顔をしかめて応え、加奈は躊躇した。ココアとシーザーを信じていいんだろうか。守礼の時のように、また騙されたりしないだろうか。
迷ったけれど、格子戸をくぐった。こんな所にいたら火あぶりにされてしまう。まずは逃げることだと足早に通路を歩き、男がいるはずの牢の前で止まった。
「わしと手を組まんか? 焔氏の時代を終わらせるために」
「何をほざく。助かったその足で、俺たちのことを通報する気だろう。そうはさせん」
シーザーが言うと、奥の暗闇からのっそりと男が現れた。
背はさほど高くないが、がっちりとした体格である。日焼けした顔は皺に覆われ、奥まった小さな目には黒目がない。白目の中の白い眼球。薄寒い目が禍々しく加奈に注がれ、2人の若者へと移っていく。
「わしの名は、蛇眼。そこまでタリムを疑うとは、お前さんたち、いつの時代の人間だ。反焔氏で、タリムとシギが結託していることを知らんのか」
ココアがシーザーに目配せしたが、蛇眼に気を取られたシーザーは気づかない。
「本当なのか。シギとタリムが結託だと? 敵同士がか」
「敵同士は昔の話だ。焔氏のやり方に恨みを抱くタリムは、シギの代表である蓮婆と通じ、時期を伺っておる」
「蓮婆!!」
「あの食えない婆さんが代表だと?!」
2人の若者は顔を見合わせ、話についていけない加奈は戸惑った。タリム族は一枚岩ではなく、焔氏に反抗する者がいる。そこまでは理解できたけれど……。
「そうか……族長も長老たちも死んでしまったのだな。シギにはもう、指導者らしい指導者がいないということか」
口の中で呟きながら、シーザーは抵抗するココアから鍵を取り上げようとした。
「何をする気だ」
「タリム族に恩を売っておく。鍵を貸せ」
「駄目だ。こいつは信用できない。俺たちがどんな死に方をしたか、忘れたのか」
「時代は変わったのだ。この男を通し、シギとタリムが手を組む。焔氏を葬った後、双方の代表が話し合い、新しいシギ王を選ぶ。この動乱期に俺たちが戻って来たのは、神々の御意志が俺たちにあるということだ」
「その新しいシギ王とやらに、まさか自分がなろうと考えているんじゃないだろうな」
「まさか。ただ蓮婆がシギの代表などと、人材不足にもほどがあるだろう? ……にひっ」
シーザーの唇が長方形を形作り、白い歯が見えた。にひ……? 彼が笑っている事をようやく理解し、目をぱちくりさせる加奈の前で、金髪の若者は顔を天井に向けた。
「コーンッッッ!!!」
狐そっくりの鳴き声である。シーザの堂々とした躯体はみるみる小さくなり、金色の毛を持つ狐に変化する。床に滑り落ちた巻き衣の上をおろおろ歩き、「ギュオッ、ギュオッ」と鳴きながら、狐は助けを求めるように加奈とココアを見上げた。
「何やってるんだよっ。こんな時にっっ!」
ココアは激昂し、蛇眼は含み笑いを漏らす。
「そいつは獣に支配されておる。仲間にせん方がいいぞ」
「黙れ! 急ごう、加奈」
加奈の腕をつかむココアの衣の裾を、狐は置いていかれまいと必死の形相でくわえた。
「おいこら離せ。連れて行ってやるから。あっ、服!」
先に立って駆け出した狐の後に、黒っぽい巻き衣が残されている。ココアは髪をかきむしった。
「元に戻ったら、素っ裸だぞ」
慌てて衣を拾い上げ、黒髪の若者は加奈の手を引いた。
道をよく知っているらしいココアの案内で王宮から抜け出し、人の途絶えた大通りを横切り、山に逃げ込む。守礼に連れられ歩いた山道とは別の道を歩き、加奈は息を切らせて座り込んだ。
「少し……休ませて」
「ああ、休もう。ここなら邪魔する者はいない」
不気味な声が響き、ココアは「僕じゃない」と首を振り、シーザーは唸り声をあげている。
「味方でない者は敵とみなす。わしの獣の餌になって貰おうか」
「おまえ、蛇眼だな」
ココアは胸元から短刀を取り出し、周囲を見回した。山道は木と藪に挟まれ、蛇眼の姿はどこにもない。生臭い獣の臭いが漂い、樹林に黒い靄が現れたかと思うと、ライオンに似た姿に変化した。
地下牢の通路に薄ぼんやりと現れた化け物が、肉眼ではっきりと見える。獣は牙の生え揃ったた大きな口を開け、凍りついた加奈に向かって跳躍した。
「危ない!」
ココアが加奈の前に飛び出し、狐が獣の足に食いつく。黒い獣は反転して狐を蹴散らし、ココアと加奈に襲いかかった。
「きゃあっ!」
叫ぶ加奈の視界の隅を青い光が横切り、弾けたと思った瞬間、狼が黒い獣に噛みついた。狼の躯体は黒く、長いたてがみと尻尾が青く煌めいている。
2匹の獣は互いに牙を剥き、爪を立て転がり回って戦い、
「加奈、下がって!」
ココアが彼女の腕をつかんで下がらせる。
生温かい風が吹き木々が妖しくざわめくなか、勝敗は呆気なくついた。青い狼が獣の首を食いちぎり、ぺっと吐き出す。ライオンに似た首がころころと地面を転がり、腐臭が漂った。
加奈は両手で鼻と口を覆い、嘔吐をこらえながら、生々しい獣の生首から狼に目を転じた。青いたてがみを持つ狼は長い尻尾をなびかせて立ち、黒く静かな目で彼女を見つめている。
(何て綺麗なんだろう……)
狼の口元には、獣の肉片が付いている。怖ろしいはずなのに美しいと感じてしまう。加奈は、魅せられたように狼に歩み寄った。
恐る恐る手を伸ばすと、狼はおとなしく頭を下げる。そっと青いたてがみを撫で、頬に触れた。狼は下から彼女を見上げ、冷気を残し、跡形もなく消えた。
「あっ……」
狼が立っていた場所が、月光に照らされ青く煌めいている。やがてそれも消え、後に残ったのは血の臭いと風の音ばかり。背後で大きく息を吐き出す音が聞こえ、加奈はココアを振り返り見た。
「頼むよ、加奈。危険なことはしないで。心臓が止まるかと思った。もう止まってるけどさ。あれ? 心臓、動いてるよ」
緑の瞳の若者は胸に置いた自分の手を見下ろし、視線を上げて引きつった笑みを浮かべ、怖ろしそうに獣の残骸に目を向ける。
「今のうちに逃げよう」
彼の言葉にうなずき、加奈はセーラー服のスカートを翻して山道を駆け出した。
鳥の鳴き声や羽ばたく音が聞こえ、音がするたびにびくりと体をこわばらせる。月の位置がシギに来た時と変わらないように見え、朝は来るんだろうかと夜空を見回した。
「さっきの狼は、どうして助けてくれたの?」
歩きながら尋ねると、ココアは首を振る。
「分からない。あいつ、俺たちのことも助けてくれた。川岸近くの牢屋に放り込まれたんだけど、あの狼が鍵の掛かった鎖を噛み切ってくれたんだ」
偶然だろうか。たまたま通りかかり、気まぐれで助けてくれたのだろうか。この国では物騒な獣が野放しになっているのかと、加奈は怖ろしげに山道を囲む黒々とした森を見渡した。
「この国は獣の国だと蛇眼は言ったけど、あなたもそう思う?」
「どうなんだろ。僕が死んだとき……」
ココアのくっきりとした目に苦痛が走る。
「タリム族との戦闘中に僕は死に、その後シギがどうなったか知らないんだ。ここに来てから聞いた話によると、シギ族は皆、アシブに住んでいるらしい。アシブはここからそう遠くない姫神の里で、行けば色んな話が聞けて、もしかすると君を元の世界に送り届ける舟が見つかるかもしれない」
「うん。……ありがとう」
舟は一艘しかないと守礼は言ったけれど――――。加奈は、彼の言葉を信じた結果を思い起こした。
守礼なんかを信じたら、ひどい目に合う。守礼はひどい嘘つきで、もしかすると舟は他にもあるかも知れない。
そう思うと少し希望が見え、加奈はにっこりした。彼女の笑顔に見入るココアの頬が緩み、すぐに引き締まる。
「死んだ後、長い間眠っていたような気がするんだ。不思議なんだけど、鈴姫の声が聞こえたり、姿がちらっと見えたりした。鈴姫は、シギの姫神様だ」
「そのリンキさんは、もしかして……」
彼女が志希村で出会った少女について話すと、黒髪の若者は断言した。
「年恰好、衣裳、金の冠。うん、鈴姫だ。でもどうして君に……その翡翠を見せて」
ココアに乞われ、ポケットから翡翠を取り出す。守礼に取り上げられなかったことを思い、彼は忘れてしまったのだろうかと首をかしげた。
物忘れするような人には見えない。彼にとっては価値のない物だったんだろうと思い直し、翡翠を手に取って眺めるココアに視線を向ける。
「綺麗な石だなあ。でも見覚えがないよ。鈴姫はなぜこの石を君に預けたんだろう」
涙を流しながら……。少女の悲しい顔を思い出すと、何とかして助けてあげたいと思う。でも今の状況では、自分の身を守ることで精一杯だ。
「後で黄櫨にも見せるといいよ。あ、黄櫨というのはシーザーのことね」
「コーロ?」
「コン」と鳴き声がし、狐が加奈の足にまとわりつく。名前を呼ばれたと判るのだろう。狐は彼女の足もとでうろうろ歩きながら、何の前ぶれもなく大きくなり、加奈は口をぽかんと開けた。
全裸で金髪の若者が、すぐそばで行きつ戻りつしている。黄櫨は自分の体を見下ろし「うおおっ」と声をあげ、加奈は悲鳴をあげた。