11 月と星と白夜と ⑤
見渡す限りの平原。乾いた大地を丈の短い草が覆い、沈みゆく太陽を背に8歳か9歳ぐらいの少年が手を振っている。
「楽しかったね、烏流。また明日遊ぼうな」
幼い顔に満面の笑みを浮かべ、留心は烏流に背を向けるや陽炎のように消えた。
「明日っていつだよ……」
つぶやく烏流は、キシルラから遠く離れた崖に一人立っている。霧に覆われた川面を見下ろし、幼馴染と故郷に思いを馳せていた。
太陽のない夜の世界は暗く、星明かりすら目にしみる。楽しかったよ――――と、留心は烏流の記憶の中で何度も繰り返す。常に過去形である。決して楽しいね、今から遊ぼうとは言わない。
(あいつは死んだんだ……)
これまで頑なに否定して来たことを、彼は消極的に認めた。加奈のあの力、光、血――――それらを間近で見ると、認めざるを得ない。生者の力がないということは、俺も死んだのだろう。
「ちっ」
彼は舌打ちし、不機嫌な顔で夜空に飛翔した。気分がふさぐ時は、殺人に限る。白曜石鉱山に近い山奥で、彼は格好の獲物を見つけた。煮炊き用の枝を拾い集める、腰布1枚の男。鉱山で働くシギ族の奴隷である。目の前に降り立った烏流を見て、男は足を震わせ立ち竦んだ。
「う、烏流の旦那。御無事で何より……」
「心にもないことを。挨拶はいいから、黙って殺らせろ」
「勘弁してくれよっ」
烏流は、はっとするほど美しい顔に背筋が凍りそうな冷たい微笑を浮かべた。10本の長い爪が月光を受け煌めき、腰布1枚の男は腰を抜かし尻餅をつく。
「老亥が、奴隷はみな解放すると言ってた」
「知ったことか」
そう言えば老亥が奴隷について、つまんねーことを言ってやがったなと烏流は思い出し、すぐに頭から消し去った。大事なのは、殺し。誰でもいいから切り刻みたい。他のことはどうでもいい。烏流は、陰惨に笑いながら剣の如き爪を男に向けた。
「ひいぇ――っ」」
男は集めた枝を籠ごと放り出し、這うように逃げ出した。烏流の背中に大きな黒い翼が飛び出し、ひらりと舞い上がるや男の前に降りる。
右手を爪ごと振り上げた時、「やめて!」と加奈の悲痛な声が聞こえた気がした。額のあたりを、加奈の泣き顔が大写しになってよぎる。愛らしい顔を哀しみで一杯にし、澄んだ目から涙がぽろぽろ伝い落ちている。
「馬鹿、泣くな!」
「へ? まだ泣いてないけど」
「おまえには関係ないだろっ」
「大ありだよぉぉ。痛い目に合うのは俺なんだよぉぉ」
男の顔がくしゃっと歪み、半泣き顔に変わる。烏流は顔をしかめ、目を鋭く細めた。「痛くないようにしてね」と加奈の声が耳をかすめ、固く目をつぶった彼女の顔が脳裏に浮かぶ。恐怖に震える肩。簡単にぽっきり折れそうな細い首。今にも泣き出しそうな顔。
「くそ。……泣かれると手が出せねえ」
「そうなのか? うぇ――ええんんっっ、うぇ――ええんんっっ」
「おまえじゃねえっっ」
烏流は男を蹴り飛ばし、男は叫びながら脱兎の如く駆け出した。後を追う気にもならず、烏流は歯噛みした。急に気力が萎え、男を切り刻んでも楽しくないのではないかと思う。加奈の泣き顔のせいだ。烏流の爪がみるみる短くなり、彼は苛立たしげに前髪をかき上げた。
「何なんだ。あの女、俺に呪いでもかけたのか」
彼のそばで、カラスの群れが枇杷の木に群がっている。夢中になって甘い実をついばむカラスを横目で睨みながら、烏流は歯ぎしりした。
「おまえら、俺がいない間に加奈に飼い慣らされたんじゃあるまいな。あいつは生者で、生者の国に帰らなきゃならないんだ。向こうで待ってる家族もいるだろう。なついても無駄だぞ。あいつはもうすぐ、いなくなる」
いなくなる――――。二度と会えなくなる。忘れようとしていた事実が、彼の心を打ちのめす。何かしなければ、言わなければ、伝えなければ。今ならまだ間に合う。今を逃せば二度と伝えられない。焦燥感ばかりが募り、自分が何を伝えたいのか何がしたいのか、まるで分からない。
「……血だ。血しぶき。それ以外に何がある」
加奈といえば血だろう。烏流はしかめっ面で、腕を組んだ。加奈の耳に爪を立てた時、いっそ首をかき切ってしまえば良かったんだ。それが出来なかったのは、あいつが馬鹿みたいに俺を信じ切っていたからだ。焔氏を殺ったら次はおまえだと言っておいたのに、その俺にわざわざ血を流してくれと頼むとは!
あいつはもともと人を信じやすい性格なのだろう。龍宮では、会って間もない俺を「嘘つきじゃない」とかばった。俺はあの時、決して嬉しくはなかった。嬉しいはずがない。ただ俺を信じるとは馬鹿な女だと思っただけだ。
血が出るかどうか確かめてくれと言われた時も、信頼されて喜んだりはしていない。加奈が痛そうな声を出したから少し気を取られたが、それも男なら声をあげたりはしないのにと呆れただけで、別に心配したわけじゃない。
烏流は腕を組みしかめっ面のまま、うろうろとその場を歩き回った。一番大きな問題は、加奈を殺す場面を想像するだけで、心の奥がズキズキ痛むことだ。シギに住む他の者たちとは違い、加奈は死ねば冷たいむくろとなって二度と生き返らない。永遠に彼女の声を聞くことも笑顔を見ることもできなくなると思うと、歓喜どころか恐怖を感じ、いても立ってもいられなくなる。
これは憐みの情に違いないと彼は思った。戦場における最も危険な感情だ。敵に情けをかけたばっかりに、後で返り討ちや騙し討ちに合って命を落した兵士は何人もいる。
世界は常に生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの戦場だ。味方は留心のみ。他の者は、いつ敵に寝返るかも分からない。焔氏を殺そうと長い間機会を伺っていた彼は、裏切りに対して寛容だった。裏切りは人の常。だからこそ憐みは、自分の首を絞めることになる。
よし心の整理はついたと、彼は一人うなずいた。結論――――加奈を殺す。当初の予定通りに。あいつが涙を流そうとも憐みの情は決して持たず、冷酷に容赦なく殺す。それでこそ俺、これまで通りの生き方だ。心の奥で何かが波打ったが無理矢理抑えつけ、烏流は藍色の夜空に飛翔した。
加奈が岸辺から王宮に戻ると、老亥が主催する会議に出席するために、シギ中から代表者が集まっていた。
彼女が聞いた話によると、焔氏がいた頃シギには約3千人のタリム族と7千人のシギ族がいて、今ではそれぞれ2千人と4千人に減ってしまったという。人口約6千人。国と呼ぶには少ない。
老亥は加奈に、シギ会議の議長は務めるが王にはならない、できれば王はいない方がいいと語った。アシブから睡蓮と住人の一人が出席し、守礼や緑青、黄櫨、キクリも参加するが、烏流は欠席するつもりのようだ。
加奈は烏流を探しながら、霊廟まで来た。彼の姿はなく、溜め息をつく。守礼に頼んでキシルラの外を探して貰った方がいいかもしれないと思っていると、微かな羽音が聞こえた。
大きな翼をゆったりと広げ、烏流が舞い降りて来る。彼に「さっさと帰れ」と言われたことはひとまず忘れることにし、加奈は彼に声をかけた。
「烏流。あなたにお願いがあって、探してたの」
「またお願いかよ……」
烏流の視線が脇に逸れ、つぶやきが唇から洩れる。
「また? わたし、そんなにたくさんお願いした?」
「ああ。今度は俺の番だ。おまえを殺すことにした」
「……わたしと話をするより、わたしを殺す方が楽しいの?」
衝撃に目を見開いた加奈の顔に悲しみが走り、瞳がみるみる潤むのを見て、烏流の頭の中は真っ白になった。懸命に自分を落ち着かせようとするが、彼にとってわけの分からない恐慌状態に陥り、うろたえるばかりである。
「おまえをじゃなくて、殺し自体が、俺の生き方が……おい、泣くな。泣くなよ」
「うん、泣かない」
加奈は涙をぬぐい、精一杯の笑顔を彼に向ける。
「あなたにお礼がしたいの。何度も助けてもらったし、あなたはこれからわたしの大切なシギを守ってくれると思うから。シギの会議に参加して、この国を守って。あなたはきっと、わたしの願いを叶えてくれる。あなたのことが大好きだから……だから、血をあげます。ちょっとだけよ。痛くないようにしてね。それから、殺すのは駄目」
「駄目……だと」
「ええ、駄目です」
「決めるのは俺なんだけどな」
烏流は、加奈の首をつかんだ。強いことを言っても首が震えている。伏せた睫毛も、硬く握りしめた両手も。本当は怖いだろうに強がりを言ってるんだなと彼は思い、短い爪先を彼女の首筋に当て、眉間にしわを寄せた。一気に爪を伸ばせば血しぶきが上がり、加奈は絶命するだろう。楽しいはずなのに体の奥底から冷たいものが這い上がり、手が震えた。
想像と現実とは違う。一瞬で彼女が死ぬと思うと怖くてたまらず、烏流は彼女の首から手を離し、震えの止まらない手のひらを茫然と見下ろした。二度と会えなくなる恐怖が彼を凍りつかせ、心の切実な叫びを聞き取らせる。
失いたくない――――加奈を死なせたくない。もしも誰かが彼女を殺せば、そいつを地の果てまでも追いかけ八つ裂きにするだろう。もしも自分の手で殺してしまったら、永遠に立ち直れない。
殺せない――――。数えきれないほど人を殺めて来た自分が、たった一人の女を殺せない。それどころか――――守りたい。烏流は、加奈の両肩を強くつかんだ。
「どこにも行くな。守ってやるから、俺のそばにいろ」
言ってしまった後で、彼は眉をひそめた。思考が停止し、頭ではなく別の場所から信じられない台詞が飛び出してくる。その上、加奈にわっと泣き出され、彼の恐慌状態は頂点に達した。
「泣くなっ。そうか、家族に会いたいんだな。帰っていい。さっきの言葉は忘れろ」
「違うの。行くなと言ってくれたから、嬉しくて。生者の国とシギの間がどういう仕組みになってるのか全然分からないから、家に帰れるのかどうか……。帰れたとして、シギに戻ってこれるのかどうか……。でも、頑張る。一生懸命頑張って、シギに戻って来る。だからお願い、シギを守って」
「あ……ああ」
「ほんと? 守ってくれる?」
「ああ、守る」
「よかった」
ハンカチで涙をぬぐいながら嬉しそうに笑う加奈を見下ろし、烏流は自分の変貌ぶりに呆れ返っていた。加奈を殺すつもりで来たのに、気がつくと彼女を守り、どうでもいいと思っていたシギまでも守る約束をしてしまっている。しかも恐慌状態の治まった頭と心は不思議な充足感に満たされ、彼はあきらめの溜め息をついた。
加奈とシギを守る――――心躍る言葉だ。
正式に王制を廃止することを宣言し、会議は歓声と共に終わった。今後のシギを治めるのは、各地の代表者によって構成される議会である。老亥が議長を務め、守礼と牙羅が彼の補佐役に就き、その2人を緑青と黄櫨が手伝うことになった。
加奈に説得され渋い顔で会議に出席した烏流は、守備部隊の責任者をしぶしぶ引き受けた。後宮にいた少女たちは仕事の斡旋を受け自立することになり、当面の間キクリが少女たちの世話役を務める。
加奈は人々に囲まれ、岸辺に向かった。砂浜に立ち、大好きな仲間を見回す。
「緑青、黄櫨。わたしを守る約束を果たしてくれて、ありがとう。烏流。いつも助けてくれてありがとう。キクリ、睡蓮、ありがとう……」
礼を言うたびに涙があふれ、烏流が加奈の肩にそっと手を置いた。
「また会える。おまえを信じて待ってるからな」
「うん」
琥珀色の瞳に見つめられ、きっと帰って来ようと加奈は思った。シギで暮らしたい。それ以上の望みはない。
会議に出席した人達とキシルラ中の人々に見送られ、加奈の乗った舟は沖に向かって漕ぎ出した。浜辺に立つ大勢の姿が涙にかすみ、金茶色の髪が視界の端にぼんやりと映る。
霧が出て来て岸辺も人の姿も見えなくなり、加奈の目の奥がつんと熱くなった。舟の中央に下がるランプの下で、守礼が銀色の櫂を使って舟を進めている。
「守礼。ありがとう。シギに来て良かった」
加奈が言うと、彼は困ったように眉を上げた。
「私は、あなたを騙して連れて来たんですよ」
「両親に会えたから、騙したことにはならないと思うよ。それにもしシギに来なかったら、罪悪感や虚しさにつきまとわれて、一生小さくなって生きていたと思う。今は、心が広がったような気がするの」
「生者の国は狭いですからね。時間や物理法則に縛られて、見方によっては窮屈かもしれませんね」
「そうかも」
加奈は空を見上げ、光に照り映える川面に視線を落とした。舟を追いかける2匹の動物が目に浮かび、まるでついさっきの事のようだと思う。
「あの時、どうして怖い顔をしたの? 緑青と黄櫨が追いかけて来た時、あなたの顔がとても怖く見えたんだけど」
守礼は遠い目をし、すぐに微笑した。
「あなたを襲おうとしている獣だと思ったのですよ。あの時初めて、体内の獣を外に出そうとしました。狼になって獣を追い払おうと考えたのですが、実行しなくて良かった。緑青と黄櫨だったとは。私はそんなに怖い顔をしていましたか?」
「ちょっとだけね」
加奈は笑い、守礼の微笑が消える。
「家に帰ることに関し、不安はありますか?」
「少し」
加奈は答えながら、無事に帰れるだろうかと思った。異世界から戻った途端、老人になったという昔話がある。自分がシギにいる間に何千年も時が過ぎ、志希村も日本も無くなっているかもしれない。加奈は、胸ポケットから翡翠を取り出した。
「この石に呼びかけたら、迎えに来てくれますか?」
「もちろんですよ。何処にいても何を置いても、あなたのところへ行きます」
守礼の優しい表情を目の当たりにし、加奈の胸に安堵が降りる。岸辺に到着すると守礼は加奈を抱き上げ、砂浜に下ろした。一歩前に出ると月も星も白夜も消え、辺りは漆黒の闇に閉ざされている。
「守礼……?」
「ここは、あなたと初めて会った石舟の建物の中です。真っ直ぐ進めば、扉があるはず。私には開けることのできない扉です。しばらくの間ここにいますから、何かあれば呼びかけてください。加奈さん……」
闇に慣れてきた目に、守礼の哀しい顔がぼんやりと映った。
「私にとってあなたは、永遠に白椿の姫神です。ずっと、あなたに会いたかった。あなたに会えてよかった」
「守礼、わたし……」
「行ってください。あなたの国へ」
加奈は、うなずいた。シギに戻るための第一歩を彼女は踏み出し、扉を押し開く。煌々とした光が降り落ち、そこで加奈の意識はぱたりと途絶えた。




