11 月と星と白夜と ③
月光に照らされた川面が、満天の星のように輝いている。守礼が銀の櫂を水中深く突き入れると、光の波紋が大きく広がった。
小舟は流れに逆らって上流へと進み、シギを目ざしている。加奈は舟の後部に座り、光の世界での体験を守礼に語って聞かせた。ランプの下に立つ彼の目が、興味深そうにきらめく。
「生きながら光の世界への到達を目指した同僚がいましたが、神官として修業を積んでも、なかなかたどり着けないものなのですよ。いい経験をしましたね。いつか、私も行ってみたいものです」
「みんなで一緒に行きましょうよ。一人で行くと寂しいけど、みんなで行けば楽しいと思う」
「そうですね。みんなで……それがいいかも知れません」
大河を見やる彼の横顔が寂しそうに見え、守礼は友達の少ない人なのだろうと加奈は思った。本当に心を許せるのは、灰悠だけ。今のシギで暮らすようになってからは、秘密を抱えていたせいもあって、誰とも打ち解けることがなかったのだろう。
「灰悠さんが、鈴姫と一緒に川を下って行ったの……」
加奈がおそるおそる2人の名を口にすると、守礼は目を丸くした。
「話をしたのですか?」
「ううん、見かけただけ。転生する人にわたしは見えないみたいで、舟がさっきの岩場の横を通って行ったの。焔氏も見たよ」
「焔氏……そうですか。あなたが消えた後、すぐに舟を出したのです。あなたを探す途中で顔見知りの船頭に会い、転生するための舟が一艘、死者の国からシギに向かったと聞きました。そうですか……舟を呼んだのは、灰悠と鈴姫だったのですね」
「ということは……お別れの言葉を交わせなかったのね? わたしのせいで、2人と話せなかったのね? ごめんなさい」
「話さなくても分かりますよ」
焦る加奈に、守礼は穏やかな微笑を向けた。
「灰悠と鈴姫の旅立ちの時に、私はいない方がいい。彼らが帰って来たら、喜んで出迎えるつもりです」
「うん……守礼がそう言うなら。……鈴姫は、シギから出られないと思ってた。灰悠と一緒にいるから出られたのかな」
「転生したいと心から望めば、舟は来ますよ。これまでは誰も望まなかったし、自分を死者と認めなかったから、転生の舟は寄り付きませんでしたが」
わたしの本当の気持ちが分かるはずだ――――。鈴姫の心の声が、加奈の脳裏に蘇る。もしかしたら、彼女は灰悠に惹かれていたのかもしれない。そうでなければ、本当の気持ちが知りたいとは言わないだろう。灰悠のようなお茶目で魅力的な人が、自分だけを長い間思いつづけてくれたら――――たいていの女の子は心が動きそうだけど。
「焔氏についてですが。烏流のカラスに喰い尽くされた後、彼の魂は死者の国に飛んだのかもしれませんね」
「他の人は、獣の中にいたみたいだけど。人によって違うの?」
「どうでしょう。獣に喰われた者がどうなるのか、『記憶の鏡』には記されていませんでした。これは推論ですが、すべては当人の意志が決めるのかもしれません」
「意志って凄い力を持ってるのね。強い意志を持っていれば、何でも望みが叶いそう」
「その通りかもしれませんよ」
静かに笑う守礼を見ながら、シギで暮らしたいと望めば叶うのかなと彼女は思った。
霧が流れ、やがて岸辺が見えて来た。切り立った崖が砂浜近くまで迫り、緑の灌木がまばらに生えている。崖下には牢屋だろうか、粗末な掘っ立て小屋がある。シギ――――懐かしいシギ。加奈の胸が躍った。
「あっ、キクリ! 緑青! 黄櫨!」
砂浜に立つ、3つの人影。烏流の姿がないことに軽い失望を感じながら、加奈は3人に手を振った。初めてここに来た時はタリム兵の野蛮な出迎えを受けたけれど、今は仲間が迎えに来てくれている。浜に着くなり、緑青が舟に飛び込んだ。
「待ってたよ、加奈! きっと帰って来ると信じてたよ! 舟が戻って来たと烏流のカラスが知らせてくれて、ここまで走って来たんだ」
「そうだったの……きゃっ」
緑青にいきなり抱き上げられ、加奈は叫んだ。お姫様のようにそっと浜辺に下ろされて、「ありがとう」と緊張した声で礼を言う。腕を組み仁王立ちした黄櫨が、不満そうに口をへの字に曲げた。
「その役、俺がやりたかったな」
「こういうのは、早い者勝ちなんだよ」
「加奈、怪我はないか?」
キクリが加奈をぎゅっと抱きしめ、緑青がつぶやく。
「その役、僕もやりたい」
「下心のある奴は駄目」
「ないよ。これっぽっちもない」
「嘘ばっかり」
緑青に舌を突き出すキクリを見て、加奈の胸がずきんと痛んだ。灰悠が去って悲しい思いをしているだろうに、元気そうに振る舞い、辛い顔を見せない。キクリはいつもそうだ。
「骨のしもべは、どうなりました?」
守礼が尋ね、黄櫨が思い出したくもないといった表情で答える。
「鈴姫が解放した。骨からぞくぞくと虫が出て来て、何とも壮絶な光景だったぞ」
「壮絶と言うより、言っちゃ悪いけど、鳥肌が立ったよ。すぐに人の姿に戻ってくれたから良かったけど。これからコタン族長を見るたびに、あのデカイ虫を思い出すんだろうなあ」
片腕を加奈の肩に置き、キクリは眉をひそめた。
「コタン族長……? タルモイさんは?」
「ああ、爺ちゃんは臨時の族長だったからさ。それに、転生するって……」
キクリの言葉が途切れ、溜め息と共につづく。
「もう一度やり直したいって。アシブに光が降りた時、龍宮の住人の何人かは天上に上がって行ったけど、殆どの人は残ったんだ。みんな、爺ちゃんと一緒に行くって」
「タルモイさんは、人望がありますからね。彼が転生するなら、ついて行く人も多いでしょう」
守礼の言葉に、キクリは頭頂で結んだ長い黒髪をイヤイヤをするように揺さぶった。褐色の魅惑的な顔をしかめ、頬をぷくっと膨らませる。
「そうだろうけどさぁ。分かってるけど、寂しいよぉ」
「キクリには後宮にいた女たちをまとめて貰わねばならんのだから、寂しがっている暇はないぞ」
黄櫨が重々しく言い、加奈は彼を見上げた。
「新しい王様は決まったの?」
「いや。これから決める。……ふっ」
含み笑いをする黄櫨を、加奈が慌てて止める。
「笑っちゃ駄目よ、黄櫨。あなたの裸は二度と見たくないから」
「……見たくないだと?」
黄櫨は笑みを引っ込め、加奈にとって不思議なことに、傷ついた表情でがっくりと肩を落とした。緑青が笑いをこらえながら、声をかける。
「何だよ、加奈に裸を見てもらいたいのか?」
「そういう事ではない。ただ……いや、いいんだ。どうせ俺の全裸など、見る価値もないんだ」
「……え?」
そんなこと言った覚えはないけど。皆の前で、彼が恥ずかしい思いをしないようにと言っただけなんだけど。
口を開きかけ、加奈はすぐに閉じた。黄櫨の全裸に見る価値があるかどうか、どうしてここで議論しなきゃならないの。加奈と黄櫨を交互に見て、キクリがぷっと吹き出した。
「黄櫨の価値は、服を着て力仕事をする時に発揮される。さあ、出発だ。王宮でみんなが待ってる」
「俺の肉体美を見たことないだろうに」
ぶつぶつこぼす黄櫨を含め、5人は崖下からキシルラに通じる山道を進んだ。黒々とした森を背景に、月と星に照らされた道が白く輝いて見える。守礼が、憂い顔で言葉を投げかけた。
「皇氏王――――焔氏のお父上の出方が気になります。タリム兵を率い、シギを支配することがなければいいのですが」
「皇氏なら、死者の国に出て行ったよ。奴にとって今のシギは狭過ぎて、治める価値が無いらしい。側近が何人かついて行ったけど、老亥と牙羅はシギに残った」
緑青が応え、黄櫨が言葉を挟む。
「牙羅は元から皇氏の側近ではなかったから判るが、老亥のような忠誠心の強い人物が……。てっきり皇氏と一緒に行くものと思っていたが」
「舟はどうしたのです?」
「皇氏が死者の国に行くと宣言した途端、舟が浜にやって来たんだ」
キクリが言い、鼻の頭にしわを寄せた。
「その船頭がまた、とんでもなく嫌な奴でさ。二度と来るなと言いたいよ」
後宮にいた少女とタリム兵の恋話や、智照が死者の国に行きたがっている話などをしながら5人は峠に着き、加奈はキシルラを眼下に見下ろした。シギを去らなければならないなら、この風景を頭に刻み込んでおきたい。月と星と白夜に照らされた、純白に輝く白の都。
キシルラに入り大通りを進むと、獅子門の下で睡蓮が出迎えてくれた。質素な布を体に巻き、宝玉や飾りのたぐいは身に付けていない。驚いたことに前髪をすべて後ろに流し、首の辺りで一つに結んでいる。
「火傷が治ったのね?!」
加奈が喜びの声をあげると、睡蓮はにっこりした。少しきつい感じもするが、彼女は紛れもなく美人である。
「気にしないようにしていたら、自然に」
「そうなのか? あたしも気にしないようにしてるけど、まったくこれっぽっちも変わらないんだけど」
キクリが、巻き衣から突き出た両腕を無念そうに見やる。焼け爛れた肌が痛々しい。
「キクリは、今のままで充分格好いい女の子だよ。凛々しいし、剣の達人だし」
加奈が嘘偽りのない感想を口にすると、キクリがしなだれかかった。
「嬉しいよ、加奈。結婚しよう。あんたは亭主、あたしは可愛い嫁だ」
「いやちょっと……何で亭主」
「恋をすると、女の子は綺麗になるらしいよ」
緑青が意味ありげに睡蓮に目配せした途端、彼女は耳まで真っ赤になった。
「そんなこと、あるわけないじゃないのっ」
渾身の力を込めて緑青の肩を引っぱたき、緑青はよろけた。睡蓮は真っ赤な顔のまま、ちらっと黄櫨を見たが、彼は建物から飛び出して来た人々に気を取られている。
大勢の人々が加奈を取り囲み、加奈は戸惑いながら皆と挨拶を交わした。キシルラ中の人が集まったのではないかと思える人数だが、烏流の姿はどこにもない。しびれを切らせた加奈は、隣にいるキクリに尋ねた。
「烏流に頼みたいことがあるんだけど、どこにいるか知ってる?」
「あいつ、ここの所ずっと、めちゃくちゃ機嫌が悪くてさ。それでいてカラスに大河を見張らせたり、あんたが戻って来たことをあたしらに知らせたり。前からおかしな奴だったけど、ますますおかしくなったよ。誰も寄りつかないもんだから、どこかでカラスと遊んでるんじゃないの?」
「そう……」
機嫌のいい烏流は見たことがないけれど、いつもよりさらに機嫌が悪いんだろうか。困惑する彼女に、睡蓮が言葉をかける。
「烏流なら、霊廟のそばで見かけたわよ。あそこは滅多に人が近づかない場所だから、一人になりたかったんでしょう」
「ありがとう。行ってみる」
指先をほんの少し切ってみて、生きている事を確かめたい。集まってくれた人達に申し訳なさそうに断りを入れ、加奈は霊廟に向かった。
霊廟は、木立ちと静寂に囲まれていた。大木の下で、少年が横たわっている。両腕を頭の下に敷き、目を閉じ眠っている様子だが、死者は眠るんだろうか――――。疑問を振り払い、加奈は忍び足で烏流に近づいた。
金茶色の三つ編み。鼻筋の通った美しい面立ち。起きている時あれほど猛々しい人が、眠っている時は優しそうに見える。きっと猛々しいのは表情と仕草だけで、心の中は優しい人なんだろうと思い、彼を見下ろした。
琥珀色の目がわずかに開き、面倒くさそうな表情が一瞬のうちにこわばった。烏流の目が大きく見開かれ、信じられないものを見るように彼女に注がれる。彼女を見つめたまま、烏流は上体を起こし、かすれた声を発した。
「加奈か。驚いた。女の足音だと思ったから、女官の誰かが喧嘩の仲裁だの護衛だの働けだのと、面倒な厄介事を押し付けに来たのかと思ったよ」
「今までそういう仕事をして来たの?」
烏流のそばに腰をおろし、加奈は尋ねた。そう言えば彼の仕事について、詳しく聞いたことはない。
「まあな。で、何だ?」
「お願いしたいことがあって。わたしの血を流してほしいの」
「なんだって?!」
彼は目を剥き、さっと彼女の全身に視線を走らせた。
「指先だけね。ちょっとだけ。死者なのか生者なのか、知りたいの。生者は血を流し死者は血を持たないって、守礼が言ったから」
「ああ、そういうことか」
詰めていた息を吐き出し、烏流は加奈の手を取った。
「指より耳の方がいいんじゃないか? 指だと後で、何かを持つたびに痛むだろう」
「うん……そうね。耳でお願いします」
加奈は言い、目を閉じる。ふっと息が吹きかけられ、まぶたを開くと烏流が笑っていた。
「何で目を閉じるんだよ」
「な、なんとなく……」
目の前にある彼の笑顔。悪党にも優雅な美少年にも見え、不思議な人だと思う。烏流はわずかに伸びた爪に視線を落とし、澄んだ目を加奈に向けた。
「痛かったら言えよ」
「はい」
彼の指先が、加奈の髪を耳にかける。ちくりと針で刺されたような痛みが走り、加奈の唇から「いっ」と声が洩れ出した。
「済んだぞ」
烏流の声に目を開くと、彼の顔が左耳の上にある。耳をぺろりと舐められ、加奈は叫びそうになった。初めて会った時、彼は彼女の手の傷ににじむ血を舐めた。あの時と同じ表情で血を味わい、すぐに真顔に変わる。
「どう? 血だった?」
「ああ、血だ」
「よかった~」
「……生者の国に帰るのか?」
胸をなで下ろす加奈に、烏流は素っ気なく尋ねた。
「それは……よく判らないの。シギに残りたいけど、生者は生者の国で生きるべきだとも思うし、どうしたらいいのか……」
烏流に腕をつかまれ、加奈は彼に引き上げられるように立ち上がった。怒ったような何か言いたそうな、感情の読めない顔が彼女を見下ろしている。
どうしたんだろう――――。烏流のこんな真面目な顔は見たことがない。加奈は戸惑い、「どうしたの?」と小声で尋ねた。彼の視線が脇に逸れ、加奈の腕をつかんでいた手が彼女を突き放す。
「さっさと帰れ」
冷たく言い放ち、烏流は加奈に背を向けた。歩き去る烏流を、加奈は茫然と見つめていた。




