11 月と星と白夜と ①
彼女は穏やかな気分で目覚め、ゆっくりと上体を起こした。浮遊感を感じる体とセーラー服を不思議な思いで見下ろし、わたしは誰だろうと考える。藤崎加奈という名をようやく思い出し、とろんとした目で全身を眺めた。
たしか16歳、高校に通ってたと思う。両親を亡くしお祖母ちゃんと暮らし始めて、それから……。記憶が一気に押し寄せ、頭痛がしてこめかみを押さえた。ここは何処だろうと周囲を見回し、唖然とする。
どちらを見ても、光、光、光――――。煌々と輝く光が、目を通さず意識に飛び込んでくる。眩しさは感じない。光が世界を埋め尽くし、留まり、笑いさざめきながら飛び交っている。
遠くから流れて来る光の集団もある。命は果てしない空を旅すると言ったタルモイの言葉を思い出し、彼女は懐かしい気持ちになった。初めて見る驚愕の光景のはずなのに、なぜか既視感があり、郷愁を感じる。
広い宇宙にあるのは、命の光だけ。そして至福だけ。わたしはかつて、ここにいたのかも知れない。故郷に帰って来たのだ。帰って来たのに少しも嬉しくない。加奈は、哀しく胸を押さえた。
胸が重い。会いたい人がいる。パパ、ママ、お祖母ちゃん。烏流、守礼、緑青、キクリ、黄櫨、わたしの大切な仲間たち。シギの人達はどうなったんだろう。会いたい――――。
「おまえさん、加奈かい?」
いきなり声を掛けられ、彼女はびくりとした。胡坐を組んで座った女性の顔を見て、目を見開く。
「……蓮婆さん?」
白髪の呪術師は眉をひそめ、考え込むように視線を落とした。
「そう言えば、そう呼ばれておったような。ここに来てから記憶が曖昧になってしもうた。こうしてすべての記憶が曖昧になって、至福の世界に入っていくんじゃろうのう」
「入っていく……? ここは至福の世界とは違うの?」
「はずれの場とか、迷いの場とか言われておるよ。至福の世界に入るにはすべてを捨てねばならんが、わしは出来んかった。心残りがあってのう」
「はずれって、当たりハズレのはずれ?」
話が理解できなくて加奈は首をかしげ、蓮婆は声をあげて笑った。
「世界の端っこという意味じゃよ。下に下りるか上に上がるか、迷う者の場所じゃ。見えるか、一段下の世界が?」
一段下と言われても――――360度見渡したけれど、命の光しか見えない。蓮婆が見つめる方向にじっと目を凝らし、やがてぼんやりとした大きな赤い星を感じ取った。
「あっ。……火星?」
「ほう、見えるか。わしらは赤き星と呼んでおるが」
火星だけではない。光の世界に重なるように別世界があり、そこでは図鑑で見たことのある木星や土星、その他の惑星が数珠をつないだように並んでいる。星と星の間が近過ぎるし、星にはそれぞれ黒っぽい膜がかかっていて、加奈の記憶とは違っていた。それでも――――。
「すごい! わたし、本物の宇宙に浮かんでるの? 太陽系を見てる。ということは……わたし、死んだの?」
興奮はすぐさま絶望に変わり、肩を落とす彼女に蓮婆が優しい目を向けた。
「まだ判らんよ。かつて、そう、シギの神官は生きながらにしてこの場所を訪れた。その様子が、何とかの鏡……」
「記憶の鏡?」
「うむ、その鏡に収められておった。神官は語った。各惑星は子供のおもちゃ箱のようであったと」
「おもちゃ箱……」
太陽系のミニチュアにしか見えないけれど。あきらめずに見つめていると、惑星にかかった黒い膜が立体的に見えてきた。膜ではなく、落とし穴である。
光り輝く至福の世界には惑星という名の落とし穴がいくつもあり、穴の中には見たことも体験したこともない物が、さながら珍品・貴重品の如く並べられている。
物質、生物、人間、感情、理性、その他諸々が目ではなく意識に訴えかけてくる。至福だけの世界で暮らす命から見れば、人間や物質や複雑な感情はどんなに不可思議で魅力的に映るだろう。思わず手に取ってみたくなる玩具。体験したくなる誘惑の落とし穴。
好奇心を刺激され、命は自ら進んで落とし穴に入って行く。転生を繰り返し、生者の国と死者の国を行き来する間に厚くなった衣の重みで飛べなくなるが、やがて目覚め、故郷へ――光の世界へと戻る。
(わたしも魅力に惹かれたんだろうか……)
人として生きることは、貴重な体験ツアーだ。楽しいだけでなく辛いこと苦しいことも多いけれど、さまざまな体験をし色んな玩具で真剣に遊び、時が来れば故郷に帰るのだ。
「おもちゃ箱に入った者は、たいてい10回前後転生し、生者と死者の暮らしを満喫してから戻るようじゃ。わしの転生回数は3回。大した経験もしておらず、物足らん。戻って来るのが早過ぎた」
わたしも転生したんだろうか。何も思い出せないけれど――――。口を尖らせる蓮婆をちらっと見やり、加奈は心の中で舌を突き出した。シギの人たちを放り出し、さっさと天上に上がったくせに!
「幸福感しか存在しない世界というのは、退屈なものじゃ。ここでお前さんに会ったのも何かの縁。わしと一緒に戻らぬか? 青き星のおもちゃ箱に。珍しい体験をするために」
珍しい体験は望んでないけど、と加奈は赤い星の隣にある青い星に目をやった。緑広がる茶色い大地と青い海。白い雲が流れる美しい星――――地球。
地球に重なる落とし穴の底で、人は生きている。笑ったり泣いたり人としての暮らしを楽しみ、本来の姿に戻ってしまえば出来ないことを堪能している。
でも、わたしの望みはただ一つ。シギに帰りたい。お祖母ちゃんも心配だしパパやママにも会いたいけれど、まっ先にシギに帰りたい。帰ろう――――あの月と星と白夜の国に。
「うん!」
加奈は立ち上がり、名残を惜しむように周囲を見回した。いつかは戻って来ようと、光輝あふれる光景を脳裏に刻み込む。一人ではなく、大切な人達と一緒にきっと帰って来よう。
「手を貸せ」
蓮婆が言い、加奈は節くれだった蓮婆の手を握った。すべては意志の力が決めると言った守礼の言葉を思い出し、シギに帰りたいと一心に願う。
(パパ、ママ、力を貸して。出来ることなら会いたい……)
はっと気づいた時、彼女は大河にいた。水がゆるやかに流れ、霧がかかっている。河岸は見えず、足は水を大地と認識しているかのように、水面をしっかりと踏みしめていた。
「蓮婆さん! どこにいるの?」
手をつなぎ、青き星を目ざしたはずの蓮婆の姿はどこにもない。空に満月がぽっかりと浮かび、しんと静まり返った夜の河に一人きり。孤独と恐怖が足もとから這い上がり、体を震わせた。
(シギに帰りたいと願ったのに……どうしてここなの?)
パパとママを思い出したからだ、と彼女は唇を噛んだ。一心に願っていなかったからだ。パパとママか、シギか。どちらかに気持ちを集中させるべきだった。何て馬鹿なの!
自分を罵りながら、周囲を見回した。動くものは見当たらない。靴底から伝わって来る水面の感触は、柔らかい土に似ている。2,3歩進み、霧の合間から化け物が飛び出して来そうで、足が止まってしまった。水の下から微かな物音が聞こえ、飛び上がる。
胸に手を置くと、心臓がどくどくと脈打っている。呼吸もしている。わたし、もしかしたら生きているかもと期待に胸が踊り、勇気を振り絞って大声を張り上げた。
「誰かいませんか? お願い、返事をして!」
声は虚しく木霊し、彼方に消えていく。溜め息を吐き出し、うなだれた彼女の目に人の足が映った。視線を上げると、見覚えのあるワンピースが目に入る。懐かしい母がにっこり笑い、最期の日の服装で立っていた。
「ママ!!」
加奈は、駆け出した。走っても走っても母の姿は遠くにあり、これは幻なんだろうかと涙ぐむ。目を手でこすり、見ると幻が手招きしている。幻が手招きするだろうか――――。幻じゃないんだと岩場に立つ母に追いつき、すがりつこうとしたけれど、加奈の手は懐かしいワンピースを通り抜けた。
母は川面から突き出した岩場の頂上に立ち、加奈を見下ろし幸せそうに微笑んでいる。右手をこぶしにして耳に触れたかと思うと、かき消すように消えた。
「あっ! ママ!!」
母の姿は消え去り、静寂の大河を霧が流れ行くばかり。加奈は茫然とし、ふと足もとを見下ろした。岩と岩の間に掌ほどの鏡が立て掛けられている。
『記憶の鏡』――――? ママは『記憶の鏡』が映し出した、わたしの記憶だったの? 鏡はすぐに消え、彼女の口からため息が洩れる。鏡も幻だったんだと、崩れ落ちるように岩場に座り込み、膝に顔をうずめた。
ママは、耳に触れていた。『記憶の鏡』に映ったパパも似た仕草をしていた。どんな意味が込められているんだろう。それともパパもママも幻で、何の意味もないんだろうか。
(もう嫌だ。幻ばっかり。どうなってるのよ。何もかも幻じゃないよね? でも何が本物なのか、ぜんぜん判らないよ)
大河には音が無い。月光に照らし出された無音の世界。霧が化け物に見え何度も立ち上がりかけ、両手できつく体を抱きしめ小さくなった。シギに行きたい助けてと、心の中で一心に祈る。
どのくらいの時間、そうしていただろう。木の軋む音と水の跳ねる音が聞こえ、顔を上げた。霧の合間に舟の先端が見え、やがて守礼の舟に似た小舟が姿を現した。
船頭は守礼ではなく、見たことのない若い男である。目つきが鋭く人相が悪い。加奈は硬直し、一緒に乗っている少女に視線を移した。
年齢は、12、3歳くらいだろうか。腕に白い椿の花束を大事そうに抱え、揺れる舟の上で立ち上がり、加奈を見つめている。綺麗で優しい顔をしているけれど、髪を結い上げ粗末な和服を着て、全身が泥にまみれていた。
「少し話をして行ってもいいですか?」
少女が尋ね、若い船頭は「少しなら」とぼそりと答える。小舟の先端が岩場に着けられ、船頭は悪相を隠すように編み笠を深く下ろした。少女がセーラー服を驚きの目で眺め、尋ねる。
「あなたは、大河の女神さま?」
「違います……けど」
少女の真剣な顔に、加奈は戸惑った。正直に答えたいけれど、生者と名乗るべきか、それともわたしは死者なんだろうか。
「道に迷ったというか、迎えを待っているというか……。あなたは? どこに行くの?」
「神様にお願いに。村の泉が枯れてしまって、困ってるんです。わたしは泉の守り役に選ばれたんですけど、どうしていいのか分からなくて。大河を渡った先に偉い神様がおられると聞き、泉の水を元通りにしてくださいとお願いしに行くところです。このお花は、神様への捧げ物なんです」
「綺麗な花ね。神様はきっと喜ぶと思うよ。願いが叶えられるといいね」
加奈が言うと、少女は嬉しそうに微笑んだ。少女の着物は、現代の和服とは異なっている。江戸時代か、明治の頃の物か。服装と痩せた体が、貧しい暮らしだったに違いないと想わせる。
「決して自慢するつもりはないんですけど、わたしの案なんです。村の人たちが、穴の中に綺麗な白椿をたくさん入れてくれたので。花に包まれるのは素敵な気分でした。その後、土がかぶさって……」
穴――――土? 加奈の胸を、嫌な風が吹き抜けた。泉の守り役――――泥だらけの姿。少女の表情が暗くなり、船頭の男が言う。
「思い出すな。体が重くなると舟に乗れなくなるぞ」
「……はい」
(人柱にされたんだ……)
加奈は、懸命に笑顔を作ろうとする少女を痛ましい思いで見つめた。大昔、神に願いを届けるために人を生き埋めにした話は、世界各地に残されている。こんないたいけな少女が犠牲になるなんて――――。どんなに苦しい思いをしたことだろう。でも少女は恨むどころか、使命を果たそうとしている。
「この方は困ってるみたい。舟に乗せられませんか?」
少女が船頭に向かって言い、加奈は目をぱちくりさせた。同情した相手に同情され、何とも言えない気分である。船頭は鋭い目で加奈の全身をざっと眺め、尋ねた。
「この舟は死者の国へ行く。乗りたいか?」
「シギ国には行けませんか? わたし、シギに行きたいんです」
「シギ……?」
男は編み笠を持ち上げ、記憶をたどるように視線を泳がせた。
「そんな国は知らないな。俺は、生者の国と死者の国を行き来している。他の場所には行けない」
「そうですか……」
がっかりした加奈に少女は同情の目を向け、白椿の花束から1輪抜き出した。
「お役に立てなくてごめんなさい。一人でいるのは辛いでしょうけど、花がなぐさめになるかも知れません。どうぞ」
「大切な花でしょう? 貰うわけには……」
「まだこんなにありますから」
少女の視線が花束に落ち、誇らしげな笑みを伴って加奈に戻って来る。差し出された一輪の白椿を受け取り、加奈はそっと胸に抱いた。
「名前を聞かせて。わたしは、加奈」
「ユラ」
静かに名乗り、少女と舟は霧の彼方に去って行った。




