10 決戦 ⑤
龍の頭上で鈴姫が純白の裳を広げ、くつろぐようにゆったりと座っている。真紅の薄衣と長い黒髪を風になびかせ、紅い唇で残忍な言葉を紡いだ。
「生き延びたか。死ねばよかったのに」
彼女が美しければ美しいほど、声が優しければ優しいほど、よりおぞましく見える。キクリが前に出て、龍を見上げた。
「鈴姫! どうしてこんな事をする?! おまえはそんな娘じゃないだろう」
「相変わらず口のきき方を知らぬ愚か者だな」
犬頭の杖が振られ、獣の群れが夜空に舞い上がる。天高く上がった大軍は黒い雲となり、彼方の山なみに向かって飛び立った。
「まさか、アシブに行かせたのか?!」
守礼の言葉に、鈴姫は高らかに笑った。
「シギ族は皆殺しだ。おまえ達も死ね。獣の餌となれ」
「何があなたをそんな風に変えた? 話してくれなければわからない」
「黙れ! 獣たちよ、食事の時間だ」
守礼が怒った顔つきで剣を抜き、灰悠が黄櫨から長剣を受け取った。獣が加奈たちめがけ一斉に襲いかかり、老亥が鋭く命じる。
「円を作れ。味方から離れるな。攻め込むことは考えなくていい。1匹ずつ確実に仕留めろ」
加奈は水袋に指を入れ、光をまとった。空を見上げ、光の雨が降る気配はないなと落胆しながら、気持ちを引き締める。自力で戦うしかない。命の光が獣を消し去るなら、鈴姫のあの巨大な龍も――――もしかしたら、わたしが消せるかも。
「加奈、水を使うな!」
烏流の声が聞こえ、彼が隣に立つ気配を感じたが、加奈の目は龍を注視していた。くらくらする頭を振り、一歩前に出る。足が鉛のように重く、体がだるい。歩けるだろうか……。弱気になる自分を叱り、獣を弾き飛ばしながら前に進んだ。大地におろされた龍の腹部が、目の前に迫って来る。
「俺の声が聞こえているのか!」
「聞こえてる。一緒に突撃よ」
烏流に笑いかけ、まっすぐ龍の腹部に突っ込んだ。視界が真っ暗になり、彼女の周囲で黒い靄が渦を巻き、飛び散る。靄が晴れた先に鈴姫が立ち、杖の頭部を加奈に向けた。
「おのれ、小娘!」
「あんたの方が小娘でしょ! 親のせいで嫌な思いをしたのかもしれないけど、関係の無い人まで巻き込むなんて、馬鹿な小娘じゃ済まないよ」
「関係がない? おまえに何が分かる!」
鈴姫の杖先から獣が飛び出し、加奈に襲いかかる。加奈は絶えず水をまき、光で応戦した。
「シギ族の人たちが、あなたに何をしたって言うの? みんな姫神さまを――あなたを信じてるのに!」
「自分のためにな。頭にあるのは自分の暮らしと幸福だけ、自分さえ幸せになればそれでよい。わたしは崇拝ではなく、嘲りの対象だったのだ。姫神を崇める振りをし、利用するだけ利用して、陰で嘲笑う。そんな者どもに生きる資格はない」
「そういう人ばかりじゃないよ。灰悠は、わたしの家に憑く化け物になっても、ずっとあなたを想ってた。おそらく何千年もの間ずっとあなたを想いつづけて、あなたに会うためにシギに戻って来たのよ。守礼だってそう。あなたの罪をかぶって悪人呼ばわりされて、酷い目に合わされても耐えて、あなたと話ができる日と奇跡を待ちつづけて来たのよ」
「わたしと話? 今さら何を。守礼も灰悠も口を閉ざし、わたしを真実から遠ざけたのだ。たった一人でいい、真実を告げる者さえいれば、恵朴にあのような事を言わせずに済んだのに!」
「恵朴って、あなたの義理のお父さんでしょう? 何を言われたの?」
「出生の秘密を守ってやるから夜伽をしろと、あの卑しい男はわたしに向かって言ったのだ」
「恵朴……この手で殺してやりたい」
群がる獣を長剣で一刀両断にし、灰悠は歯噛みした。鈴姫が鼻で笑う。
「わたしが殺してやったよ。恵朴を真っ先に獣の餌にしてやった」
「鈴姫……聞いてくれ。話そうとしたのだ。何度も。……機会が無かった。俺も守礼も、シギを守る義務が……あった」
「黙れ!」
絞り出すような灰悠の言葉を、鈴姫は一喝して退ける。灰悠は、鈴姫に一歩近づいた。
「悪いのは俺だ。恨むなら……俺だけを。他の者は許してやってくれ」
「悪いのは私です。兄として、鈴姫のそばにいるべきだった」
「兄として……?」
見事な剣裁きで獣を退ける守礼を横目で見やり、鈴姫は唇に手をあて、ほほほと笑う。
「よほどわたしを傷つけるのが好きと見える。わたしが嫌いだから、ついつい傷つけてしまう。それを避けるためにキシルラに移り住んだのだと、はっきり言えばいい」
「違う!」
守礼の端整な顔が、苦しげに歪んだ。
「それは違う。あなたを嫌いだと思ったことは、一度としてない。本当の兄妹になれたらどんなにいいかと何度思ったか知れないが……できなかった。嫉妬心ゆえに、私はあなたのそばにいられなかった」
「嫉妬……?」
鈴姫の目が不審そうに見開かれ、さっと周囲に流れる。加奈たちを囲む獣の群れをカラスの大群が喰い散らし、烏流が凄まじい速さで黒い靄に変えていた。
「同じ李姫さまの子供でありながら、あなたは実の子として大切に育てられ、私は……。シギの道徳と慣習から考えて、そうせざるを得なかったことは理解できる。けれど、李姫さまに可愛がられるあなたを見るたびに嫉妬してしまう。そんな自分が嫌だった。自分の性格と人間性が嫌でたまらなかった。キシルラに移ったのは、心を鍛え直そうと思ったからだ」
嫉妬――――。加奈は、華麗な剣技で獣を切り裁く守礼を見やった。負の感情や心の醜さとは縁が無さそうだけれど、彼も人間だ。人間なら誰だって嫉妬心を持っている。鈴姫に向き直り、加奈は懸命に説得を試みた。
「お願い。もうやめて。こんな事をつづけてたら、あなたも不幸になるよ」
「私は独りだ。独りで考え行動する。誰の意見も求めず、必要としていないっ!」
鈴姫の衣がひるがえったと思った刹那、加奈は体に衝撃を感じた。鈴姫の体から飛び出した獣が光のベールを破り、加奈の腹部に体当たりする。加奈は仰向けに引っくり返り、地面に後頭部をぶつけて呻いた。
「灰悠、この狂った小娘を早く葬れ! おまえが殺らないなら、俺が叩っ切る!」
烏流の怒声が響き、灰悠の顔に苦渋が走る。
「光だ!」
「アシブが光ってるぞ!」
タリム兵たちの間で歓声が湧き起こり、加奈は烏流に手を借りて起き上がった。藍色の空の一部が白く輝き、森の上端が煌めいている。白い輝きは漆黒の森を純白に染めながら、こちらに近づいて来る。
(光の――――風?)
加奈は瞠目した。無数の小さな光が風に乗り、森を越え大地を這いキシルラ城壁を通り抜け、獣の大軍に襲いかかった。カラスの群れが一斉に羽ばたいて空に上がり、敵の獣は砕け散って消えていく。
「みんな! 来てくれたんだね」
光の合間に人の姿が見え、キクリが叫ぶ。アシブで光となり、天に上がったはずの人々が再び姿を見せ、駆け寄る緑青やキクリに笑顔を向けた。
人影は細切れの藻屑と化した黒い靄の間にも立ち、獣に食べられた人たちだろうかと加奈は息を呑んだ。多くはタリム族で、宝蘭や女官たちの姿もある。
「おお……故郷が見える」
宝蘭は歓びに満ちた表情で空を見上げ、隣で痩せた女官が涙を流している。丸顔の女官が男性を連れて加奈に歩み寄り、にっこり笑いかけた。
「お蔭さまで少し痩せることができ、彼に告白する勇気が持てました」
あ……。女官の隣に立つ男性はタリム兵のようで、加奈は男性と女官を交互に見て赤くなった。痩せる呪文と称し「さくらさくら」を歌い、彼女を騙したんだった……。
「俺は、ふくよかな君が好きなんだよ」
男性は愛しそうに丸顔の女官を見つめ、加奈の胸にほっとした安堵が広がる。良かった……幸せそうだ。2人揃って加奈に頭を下げ、まばゆい光に包まれた。黒い靄と獣は消え去り、光る人々が次々と空に上がっていく。
「おのれ……おのれ……」
口惜しそうに唇を噛む鈴姫の目の奥に、涙が滲んでいる。彼女は犬頭の杖を握って駆け出し、灰悠が後を追った。
「鈴姫っ」
「行かせてやってください」
追いかけようとしたキクリの腕を、守礼がつかむ。
「灰悠に任せましょう。鈴姫を説得できるのは彼しかいない」
「丸め込まれてしまうよ。昔っからあいつは鈴姫に弱かった。あんたもだ。鈴姫に甘かったよな。鈴姫の我儘と自分勝手な思い込みがこんな事態を引き起こしたんだから、誰かがカツンと言ってやらないとさ」
「それはそうですが……」
怒りをまき散らすキクリに、守礼は申し訳なさそうな顔を向けた。
「獣杯が使われても使われなくても、結果は同じだったと思います。シギ族は戦争に敗れ、タリム族の奴隷となり、兵士は皆殺しにされたでしょう。鈴姫のした事はとうてい許されませんが、近隣国は恩恵を受けたはずです。獣が、タリム族を滅ぼしてくれたのですから」
「だからって……」
城門に向かって走り去る鈴姫と、追いかける灰悠。2人を目で追うキクリの目に涙が浮かび、加奈の胸が痛んだ。
城門からキシルラに駆け込み、灰悠は木立ちの陰で鈴姫の腕をつかんだ。
「逃げられないぞ。君は……シギから出られない」
「冥界にならば行ける。『闇の穴』から蛇眼の後を追えばよい。手を離せ」
「本気で言っているなら、俺も一緒に行く。君が笑顔を取り戻すまで……俺は君から離れないつもりだ」
「たわ言は聞きたくない!」
彼の腕を振りほどき、鈴姫は楢の木に掌を打ちつけた。灰悠が胸に手を置くと『記憶の鏡』が現れ、彼自身の記憶を映し出す。地面に膝を突いた幼い日の鈴姫が、目に大粒の涙をため、楢の木に顔をうずめる鈴姫に手を差し伸べた。
「お願い……お願いですから……」
「覚えているか? 君はこの時、7つだった。祝祭の生贄に捧げられる……イノシシの子供が哀れだから、何とか助けて欲しいと俺に……泣きながら頭を下げた。俺は生まれて初めてイノシシ狩りに出かけ、守礼の手伝いもあって……大イノシシを生け捕りにし、父に生贄の交換を願い出た。父は俺の無謀な行動に呆れながらも、許してくれたよ」
灰悠の顔に笑みが浮かび、鈴姫は自身の幼い姿を横目で見やる。
「イノシシの子供を渡した時の君の笑顔が、今でも忘れられない。あの時、思ったんだ。君の涙を笑顔に変えるためなら、俺は何でもやれる。そのために生まれて来たんだと」
「何でもやれるなら、わたしに味方すればよかったものを」
「シギ族を滅ぼしてしまったら、君は永遠に笑顔になれない。頼む、鈴姫。俺と一緒にやり直してくれ。本当に冥界行きを望むなら、一緒に行く。君が笑顔になれる日まで、そばにいる。君が幸福を手に入れた時、俺は君から去ろう」
「去る……?」
木にもたれかかった彼女の目に、灰悠の哀しい顔が映った。
「君の心には守礼がいる。だが決して、あいつは君を幸せにはできない。あいつの心の中には、君以外の女性がいるからだ」
「白椿の姫神だろう。あれは鏡に映った幻ではないか」
「そうかもしれないが、守礼はその女性に心を奪われている。君に相応しい別の男がいるはずだ。一緒に探そう。俺がその男なら嬉しいが、違っていてもかまわない。幸せになった君を見届けられたら、きっと俺も幸せになれる」
「馬鹿者のたわ言は聞きたくない」
「そうだよな。自分でも馬鹿だと思うよ……」
そっぽを向く鈴姫の横顔を見つめ、灰悠は悲しく微笑した。
光の風はキシルラ中を吹き流れ、藍色の空高く消えて行った。自分の体が自分のものでないような、不思議な気分で加奈は立っていた。彼女の隣には烏流と守礼がいて、緑青とキクリが駆け寄って来る。
「加奈を守りたかったのに、僕の出番がぜんぜん無かったよ」
緑青が悲しそうに言い、加奈は笑った。
「そんなこと言わないで。これからもよろしくお願いします」
「都に入るぞ!」
タリム兵に声を掛けられ、加奈たちは城門からキシルラに入った。鈴姫と灰悠の姿はどこにもなく、キシルラは不気味な静けさに包まれている。王宮の窓から後宮の少女たちが身を乗り出し、歓声をあげながら手を振った。兵士たちが手を振り返し、部隊に穏やかな安堵が広がっていく。生き残った人たちがいる――――。
「霊廟内は何の変化もありません」
先鋒の兵士が駆け戻り、報告を受けた老亥の顔に失望が浮かんだ。
「術をかけたのは鈴姫でしょうから、彼女を説得できれば解くことが出来るかもしれません」
「うむ」
なぐさめるような守礼の言葉に、老亥が静かにうなずく。
体の感覚がますます失せ、どうしてしまったんだろうと加奈は自身の胸から下を見下ろした。光に包まれた全身が、黄金の織物をまとったように輝いている。
「加奈さん……まさか」
守礼が彼女の異変に気づいて駆け寄り、隣にいた緑青が叫んだ。
「どうしたんだよ、加奈。腕が消えてるよっ」
腕から胸にかけて透明化し、加奈の頭の中が真っ白になった。
まさかわたし、消えるの? 死ぬの……? 涙ぐむ加奈の腕を烏流がつかむ。
「命の光を使い過ぎたんだろう。少し休めば……あっ」
つかんでいたはずの腕が消滅し、烏流は慌てふためいた。
「消えるな! 俺との約束を果たさないうちに消えるなど、許さないぞ」
「シギに残りたいと強く願ってください。すべては意志の力で決まります」
そんなこと言われても……わたし、どうなってしまうの?
不安と恐怖で何も考えられなくなり、加奈は涙を流した。天に上がって行った人々と同じ光が彼女を包み、烏流の外套がはらりと落ちる。体が浮遊し、彼女は声にならない悲痛な声をあげた。
(いや! 嫌――っ!)
「加奈、逝くなっ!!」
光り輝く加奈の体が、藍色の空に吸い込まれるように上がっていく。烏流の声、仲間たちの叫びを遠くに聞きながら、彼女の意識は暗い深淵に落ちていった。




