10 決戦 ③
キシルラ王宮最上階。
後宮の女たちの手ですべての調度品が運び出され、焔氏の私室だった面影はない。鈴姫はアシブから持ち帰った犬頭の杖を握り、がらんとした部屋の中央に立った。
彼女の前で、大きな一対の眼が宙に浮いている。瞳孔のない金の虹彩の片方が山道を急ぐ老亥の部隊を、もう片方が藍色の髪の青年を映し出す。
(守礼……一緒にいてくれればいいのに)
鈴姫は、食い入るように守礼を見つめた。幼い頃、彼がそばにいるだけで幸せだった。あの頃が一番幸せだったかもしれない。淡い想いは、いつしか彼の妻になりたいという願いに変わり、彼の一言で無残に打ち砕かれた。
勇気を振り絞って恋心を打ち明け、彼から返って来た言葉。――――貴女を妹のように思っています。それ以上の感情は持っていません。
さっきの話は冗談よと笑って誤魔化したけれど、あの時ほど彼への憎悪を感じたことはない。今でも守礼が憎い。憎いのに心惹かれて止まない。惹かれるのに苦しめたい。複雑な感情を持て余し、鈴姫が首を振ると糸のような黒髪がさらさらと揺れた。
焔氏は体内の彼女に気づくことなく、彼女の思うがままに守礼を奴隷として扱った。誇り高い守礼の平静を装った声に耳をそばだて、言葉の端々ににじむ屈辱と苦悩を聞き取り、暗い愉悦に浸るのが彼女の歓びだった。ごく稀に哀しげな彼の顔が垣間見えた時には、歓喜したものだ。
金の眼が急ぎ足で歩く守礼を上空からとらえ、鈴姫がじっと目で追う。苦しめることしか出来ないけれど、そばにいて欲しい。いずれ彼は自分を裏切るだろうと予想していたけれど、いざ現実となると怒りで理性を失いそうだ――――。
勘の鋭い彼のことだから、自身の出生について気づいていたに違いないと鈴姫は思う。気づいていながら、一言も口にしなかったのは何故だろう。
決まっている。我が身の保身のため。孤児は神官になれるけれど、穢れある子供はなれない。冷徹な彼は地位と名誉を手にするために口をつぐみ、実の妹の恋心を知りながら真実を知らせなかったのだ。
守礼だけではない。来る日も来る日も『記憶の鏡』と対話し、シギを守ることに明け暮れ、世間知らずのまま育った哀れな娘に真実を伝えようとした者は一人もいなかった。あの浅ましい恵朴を除いては。鈴姫は、白く小さな歯で唇を噛んだ。
「鷲が飛んでるぞ」
兵士の一人が言い、皆で藍色の空を見上げた。タリムとシギの混成部隊に、牙羅を含む5人の兵士と灰悠が加わり、一行は白夜に照らされた山道を急いでいる。焔氏の鷲が1羽悠々と夜空を飛び、兵士の一人が矢を射かけようとして別の兵士に止められた。
「よせ。矢を無駄にするな。あれは何だ?」
木々の合間から奇妙な物体が見え始め、やがて全貌が加奈たちの前に現れた。キシルラがあるべき場所に、巨大な球体が鎮座している。あるいは盆地全体が球に覆い隠されてしまったのだろうか、都の建物がまったく見えない。
「キシルラはどうなったんだ」
屈強な兵士たちは足を止め、怯えと驚愕の声をあげた。球体の表面を、蜂の巣を思わせる黒と灰色のまだら模様が、うごめきながら回っている。ところどころに貝殻を伏せたような突起があり、球体をいびつに見せている。加奈は、球のふちが僅かずつ外側にずれていくことに気がついた。
「星を見て。星が少しずつ円の中に入っていくみたいに見える」
無言で空を見上げる兵士たちの前で、星が次々と球体の陰になり見えなくなる。
「……あの丸い物が、大きくなっているということか」
「中にいるのは獣ではないか? 獣が絡まり合っているように見えるんだが」
黄櫨が言い、皆で目を凝らした。四つ足のもの、翼を持つもの、形態が縄状のもの。さまざまな形の獣が浮かび上がり、うねりながら表面を巡り、球体の奥へと消えていく。
(獣がぎっしり詰まってるんだ……)
加奈は、ごくりと唾を呑み込んだ。何匹いるんだろう。何千、何万……何億匹だろうか。こんな大軍とどう戦えばいいの? 一気に襲って来られたら、烏流や守礼だってひとたまりもない。わたしなど、守ってくれるカラスごとあっと言う間に食べ尽くされてしまうだろう。
「役に立つかどうか判らんが」
牙羅が、躊躇しながら沈黙を破った。
「キシルラを出る時、首を吊られた遺体らしきものを見た。蛇眼に似ている気がしたんだが、遠目だったし戦闘中だったから自信はない」
「キシルラのどの辺りですか?」
「白曜石鉱山に向かう道沿いの、城壁のすぐそばだ」
「その場所は、おそらく『闇の穴』でしょう。以前は祠があったのですが、シギがこの地に移された時に消えてしまいました。そこに蛇眼がいた……」
守礼は眉をひそめ、加奈は隣に立つキクリに小声で尋ねた。
「『闇の穴』って何?」
「一言で言うと、古き思念の集まる場所、かな?」
「人が放った思念の多くは『闇の穴』に集まり、悪しき思念はそこから地下へと落ちていきます。太古の神官は『闇の穴』から悪しき思念を汲み上げ、呪詛の道具として使いました。しかし今ではそのような力のある神官はおらず、シギの『闇の穴』は長い間捨て置かれていたのですが」
守礼の目が、鋭く細められる。
「誰かが『闇の穴』から悪しき思念を汲み上げ、あの丸い物体の中で獣に変えているのでしょう。蛇眼か、鈴姫か。あるいは考えにくいことですが、両者が手を組んだか」
「まずは、その穴とやらを塞ごうぜ。獣を叩っ切っても、次から次へと湧いて来るんじゃキリがない」
烏流が球体を見上げて言い、黙って聞いていた老亥が口を開いた。
「穴を塞ぐ手立てはあるか」
「実際に現場を見なければ何とも言えませんが、悪しき思念を汲み上げているのは蛇眼でしょう。彼を引き離すことができれば、『闇の穴』は通常の状態に戻ると思われます。しかし、あの球体を突破するのは難しそうです」
「やるしかないだろ。俺がやる。蛇眼を腕ずくで引っ張って来よう」
「私も行きますよ。他の方々は、安全な場所で待機していてください」
守礼が烏流に苦笑を向け、兵士の間から「無謀だ」と声があがる。
「2人だけで行くなど、無茶だ」
「灰悠を入れ、3人です」
「わたしも行きます」
加奈は思わず口走り、自分に驚いた。何を言ってしまったの、わたし。守礼が、険しい目を彼女に向ける。
「駄目ですよ」
「でも……そうだ、命の光を呼んでみます。アシブの時のように光の雨が降れば、獣はすべて消えるかも」
「そして、あなた自身の命が失われる。アシブのあの後、あなたは体調が悪くなったでしょう? 今も顔色が悪いですよ」
「光を呼んだせいだと言うの? ただの風邪よ。やらせて、守礼」
強い口調で言ったものの、光を呼べる自信はない。あの時はタルモイがいてくれたし、彼の詠唱が光の雨を呼んだのかもしれない。それでもやってみる価値はあると、加奈は思った。
「試せる方法はすべて試してみよう。できることなら、突入は最後の手段にしたい」
老亥が言い、守礼はしぶしぶ引き下がった。
部隊は巨大な球体に向かって進み、近づくにつれむっとするような獣の臭いが強くなった。そばで見る球は薄い膜に包まれ、中で獣が団子状に絡まっているのが見てとれる。獣と獣の間からキシルラ王宮がちらっと見え、都は消えたのではなく、巨大な獣の巣にすっぽりくるまれてしまったのだと分かる。
加奈は畑地にある池のほとりに立ち、光の雨よ降れと一心に祈った。首に掛けた革袋に指を浸けると、指先から蛍に似た光が漂い出し、池の上を飛んだ。どのくらい祈りつづけただろう。光の雨は降らず、加奈から出た光はいつの間にか消えていた。
「ごめんなさい。……呼べませんでした」
しょんぼりする加奈に、守礼が明るく笑いかける。
「呼べば常に光が訪れるとは限りません。大昔、光を呼ぶ天才と謳われた神官がいましたが、彼とて数百回に1度成功すればいい方でしたよ」
「休憩は終わりだ。行こうか」
牙羅が声をかけ、腰をおろしていた兵士たちが立ち上がった。キンっと金属音が鳴り、烏流の爪が伸びる。
「おまえらの手に負える敵じゃない。俺たちが獣の数を減らすまで待ってろ。加奈もだ」
「でも……」
わたしも行くと言いかけ、加奈は言葉を呑んだ。アシブでは、光を使って獣を消滅させて回ることが出来た。もう一度あんな風に戦えないだろうかと考える一方で、光がいつ消えてしまうかも分からないことを思うと不安で心細い。
光が消え水も無くなってしまったら、わたしはズタズタに引き裂かれ獣の胃袋の中に消えるだろう。自分を守れなくなったわたしは、足手まといになる。でも――――3人だけでは行かせたくない。敵はおびただしい数、味方は3人。どう考えても無理だ。
「大人しくしていてくださいね」
守礼に頭をぽんと叩かれ、加奈ははっと我に返った。
「烏流。外套を持って行って」
「着ていろ。おまえが獣に喰われてしまったら、俺の楽しみがなくなる」
楽しみ――――。深く考える余裕もなく熊の咆哮が轟き、熊を見上げるキクリの顔が青ざめている。烏流は散歩にでも出かけるような涼しい顔で球体を眺め、守礼は山の形から『闇の穴』の位置を測り、狼へと姿を変えた。
「行きますよ」
守礼が言い、3人同時に球体に突入した。殺到した獣に包まれるように3人の姿が見えなくなり、加奈は緑青に手を引かれ後ろに下がった。
ぐちゃっ。ごきっ。じゅるじゅる……。言葉では表現できない生々しい音が響き渡り、兵士たちの顔から血の気が引いていく。守礼の声に似た絶叫が聞こえ、加奈は体を硬直させた。まさか……まさか……。
熊の唸り声が断続的に伝わり、すぐに途絶えた。球体の上部が破れ、絡まり合った獣が噴水の如く吹き上がる。数匹の獣が何かに群がり、食べている。――――剣の如き長い爪を持つ腕。胴体はなく、獣が奪い合っているのは腕のみである。
「烏流――――っっ!!」
加奈は緑青の制止を振り切り、球体に向かって駆け出した。




