10 決戦 ②
『記憶の鏡』を首に掛け、タルモイは泉のほとりに立った。白曜石で作られた石舟が、澄んだ水にきらめく影を落としている。地面に腰をおろし真剣な面持ちで見上げる人々に、彼は告げた。
「成功する可能性はかなり低いが、失敗しても落胆せんでくれ」
無言でうなずく人々の大半は、龍宮の住人である。数人のアシブ住人が夜空に憧憬の眼差しを注ぎ、期待を込めてタルモイを見つめる。人々に背を向け泉に向かい、タルモイは詠唱を始めた。
大地を踏みしめ低い声で言霊を唱えながら、彼は鏡を手に取った。鏡面を見つめ脳裏に滑らかな海を思い描き、目を閉じる。月光に照らされた海面から真っ暗な海中へ、天空につながっているという海底へと意識を沈めた。
通い慣れた道である。幼い頃光の風に憧れて神官となり、師の導きで幾度となく通った道は、海底まで行きつくことなく混沌の中で立ち往生するのが常だった。自身の体から発した命の光を天に捧げ、光の雨よ降れ、風よ吹けと何千回願ったことか。願いは一度も聞き入れられることなく、神殿を去るしかなかった。
薬師となり、光を呼ぶ術から離れて十余年。あの時――――雪に似た光が降ったあの時も、意識は『記憶の鏡』を下りきることなく混沌を漂っていた。それでも光を降らせることが出来たのだから、もう一度あの時と同じ精神状態になれば、あるいは――――。
成功すると信じ、彼は意識の降下をつづけた。上下の感覚が無くなり、迷い子のように海中を彷徨う。詠唱が途絶えがちになり、命綱とも言うべき足が揺れ始め、「まずいんじゃないか」と龍宮の住人たちは顔を見合わせた。長い間意識の降下をつづけると、戻って来れなくなる。
「タルモイ、もういい。今回はそこまでだ」
「族長、戻って」
がくりと膝を突き、タルモイは瞼を開いた。体を見下ろし、愕然とする。命の光が出ていない……。
光を呼ぶ術は、自身の体内にある命の光を放出することから始まる。それが出来なければ、光は呼べない。光を呼ぶ術は失敗続きだったが、光の放出に失敗したことは一度もない。たまたま今は体調が悪いのか、久しぶりに『記憶の鏡』を手にし体が戸惑っているのか、それとも……。
彼はよろける足で立ち上がり、泉に手を浸けた。命の光は現れない。体内に命の光がないのだと、彼は認めがたい真実を認めざるを得なくなった。
「わしは……死んでいる」
「何を言ってるんだ」
「疲れたんだろう。少し休め」
人々の声は彼の耳を素通りする。皆の前に力なく座り、タルモイは苦悶の言葉を口にした。
「わしの力ではなかったのだ……。わしに光を呼ぶ力は無い。すまん……」
あの時、光の雨を呼んだのは自分ではなく加奈だった。彼女の命の光が、光を引き寄せたのだ。光を呼べるのは長年修行を積んだ神官だけと思い込み、年齢を経てやっと願いが叶ったと喜んでいた自分が愚かしくて可笑しくて、彼は呻きながら笑った。
「あきらめるのはまだ早い。何度でもやってみよう」
「そうだよ。あたしは、あんたを信じてるからね」
「信じる……わしを? おまえ達は知らんのだ。わしが名誉欲しさに不義の手助けするような人間だということを」
仰天する人々の前で、タルモイの右手が右目を覆う。指先が目をえぐり出さんばかりに肌に食い込み、彼は唸り声をあげた。
「……神官としての才能があれば、あんな事はしなかっただろう。せめて薬師として名を上げたかった。だから族長の息子を……健康な灰悠を預かった」
「健康? 灰悠は、胸の病だっただろう」
「咽喉が弱かっただけだ。それを重い胸の病と偽り、何年も預かり続けた。莱熊がアシブを訪れる口実を作るために。石舟の泉に詣でると偽り、わしがアシブ神殿の地下道まで莱熊を手引きした。シギ族長の信頼厚い薬師という名誉欲しさに!」
沈黙が落ちた。数人のアシブ住人が立ち上がり、タルモイに蔑みの目を向け、無言で去って行く。
「何さ、あの態度。さっきまでタルモイを神様みたいに拝んでたくせに。あたしは、あんたに感謝してるよ」
年配の女性にふくよかな笑顔を向けられ、タルモイは視線を上げた。
「覚えてるかな、うちの息子が熱出した時のことを。あんたは特性の煎じ薬を作って、何日も徹夜で息子に付き添ってくれた。お蔭で悪霊は祓われ、息子は元気になった。……戦死したけどさ。戦死するまでの貴重な数年を一緒に過ごすことが出来たのは、あんたのお蔭だと感謝してる」
「わしの膝の痛みをやわらげてくれたじゃないか。あんたは腕のいい薬師だ」
「わしらはあんたが気さくで穏やかで一生懸命な人だから、コタン族の族長に選んだんだ。シギ族長が通って来る高名な薬師だからじゃない」
「ナムタルが猛威をふるった時も龍宮にいた時も、あたし達の面倒を見てくれた。ありがとう」
次々と発せられる言葉に、タルモイの両眼から雫のような涙がぽたりと落ちた。神官としても薬師としても才能がないことは、自分が一番よく知っている。名誉、名声、才能。どれも欲しいと思いながら手が届かなかった。だが今思い返してみると、本当に欲しいものは別にあったのではないか。
ありがとう――――。感謝のこもったその一言。しみじみと心に広がる満足感と充実感。無名でも才能が無くても何かの役に立て、幸せだと感じることは出来る。
(何と言うことだ。欲しいものは、とっくに得ていたのだ……)
涙と共に、憑きものが落ちたような気がした。
30名余りの部隊が滝の横を通り過ぎ、月と星に照らされた山道を下って行く。水しぶきが木々の葉を濡らし、宝石の如く輝いた。
加奈は、歩きながら体を震わせていた。悪寒が再発したようで、体がぞくぞくする。烏流の外套が温めてくれているけれど、どうしたんだろう。
(風邪を引いたのかなあ。……こんな時に)
それとも疲れが出たんだろうか。外套の前をきゅっとつかみ、隣を歩くキクリに目をやった。革の鞘に収められた青銅の大剣を、彼女は肩から下げている。
「キクリ、そんな大きな剣を使えるんだね。凄いよ」
「小さい頃から鍛えたからさ。いつ他国に攻め込まれるか判らないし、女だって自分や家族を守るためには戦わなきゃならないんだし」
キクリは片手で剣をぽんぽんと叩き、はっとしたように加奈の顔をのぞき込んだ。
「もしかして気分が悪いんじゃないの? 顔が青い気がするんだけど」
「ううん、気分は悪くないよ。すこし寒いかなーとは思うけど、でも平気」
「野生のアンズが、どこかに生っているといいんですが。アンズは体を温める作用がありますから」
守礼が言い、加奈が振り返ると彼はじっと彼女を見つめた。
「少し顔色が悪いですね」
「しょうがないな。ちょっと待ってろ」
黒い翼がひるがえったかと思うと、守礼の隣にいた烏流が空に舞い上がる。彼は森の暗闇に消え、すぐに戻って来た。加奈の腕をつかみ、手にした黄色い果実を3つ、掌に置く。大きさと形は梅に似て、美味しそうな甘い香りがした。
「……ウメ?」
「アンズだ」
「ありがとう」
烏流がこんなに親切だなんて。加奈は感激して烏流ににっこり笑いかけ、「どうぞ」とキクリに1つお裾分けした。
「いいの? 加奈は優しいなー。こんな事言いたくないけどさ、女の子が2人いるのに片っぽにだけ美味しそうな物を持って来るってのは、どうだろうなー」
「おまえ、男だろーが」
「どこに目をつけてるっ」
キクリは短刀でアンズを2つに切り分けながら、烏流をぎろりと睨む。興味深そうに振り返った緑青にも、加奈は熟した果実を1つ手渡した。
「どうぞ。黄櫨と分けてね」
「ありがとう。こんな事言いたくないけどさ、男が3人もいるのに女の子にだけ美味しそうな物を持って来るってのは、どうなんだろうなー」
「どうも思わねーよ。野郎の食欲まで、何で俺が考えなきゃならないんだ」
「それに僕の加奈が、どこかのカラス野郎に物で釣られようとしてるみたいでさ、胸のあたりがモヤモヤするんだよ」
「ああ? 俺にどうしろと言うんだ。モヤモヤ? 知ったことかっ」
だんだん機嫌が悪くなってきた烏流に、黄櫨が隊長らしく助言した。
「いい解決策がある。あと3個、アンズを取って来い。全員に1個ずつ配って問題解決だ」
「おまえが取りに行けっ。俺はおまえらの使い走りじゃないんだぞ!」
「烏流……」
キクリから果実の半分を受け取り、一口かじった守礼が烏流に鋭い視線を向ける。
「酸っぱい」
「文句があるなら食うなっっ。おまえら何様だ。まとめてブチ殺すぞっ!」
「感謝してるよ、烏流」
加奈は言い、一口かじって硬直した。守礼の言う通りだ。爽やかな甘味はあるけれど、それを遥かにしのぐ強烈な酸っぱさ! 烏流が珍しく不安そうな顔で見つめたから、加奈は梅干しを食べた時のような表情を引っ込めた。せっかくの彼の親切を台無しにしたくない。
「おまえら、さっさと食ってしまえ。客が来たらしい」
烏流が視線を上げ、全員で前方に目を馳せた。月光に照らされ金色に縁どられた森の頂きで、黒い雲がたなびきながら、うごめいている。
「獣だ!」
タリム兵が叫び、烏流はふわりと飛び上がった。
「俺はおまえらを守らない。だからおまえらも、俺を助けようなんて考えるなよ」
烏流は言い残し、雲に向かってまっすぐ飛翔する。狼が後を追い、加奈たちはタリム兵と共に駆け出した。
キシルラにつづく山道で、獣と獣に変貌しかけた黒い靄が渦を巻き、中心から熊の咆哮が聞こえて来る。巨木の天頂に降り立った狼と、すぐ隣で黒い翼を羽ばたかせた烏流は、顔を見合わせた。
「助け合いはなし、ということでいいんですね?」
「そんな暇があったら1匹でも多く獣を葬れってことさ」
「承知」
2人が獣の群れに突入すると、黒い靄が上空に向かって吹き上がった。烏流の10本の爪がみるみる獣を切り裁き、布きれのような残骸に変えていく。熊の咆哮に向かってまっすぐ切り込む烏流から少し離れた場所で、狼が全身の棘で獣を裂き、鋭い牙で噛み切り、長い尾で弾き倒した。
絡まった糸を断ち切るように獣の渦を叩っ切り、烏流は中心を目ざした。牙羅を含む5人の男たちが傷だらけになって戦い、彼らを守ろうと熊が奮闘している。
「牙羅さまだ!」
獣の群れを前にして、タリム兵が叫んだ。
「彼らを援護しろ。突撃だ!!」
老亥が大声で命じる。兵士たちは烏流が作った突入路になだれ込み、離れないよう互いの距離を確かめながら中心に向かった。黄櫨が戦斧と剣で群がる獣を叩き割り、緑青が細身の剣で的確に獣を切り刻む。
キクリは剣の作法に従って両手で柄を握り、舞うように黄金色の大剣を振った。幅広の刀身が閃くごとに獣の遺骸が飛び散り、塵となって霧散する。
加奈に襲いかかる獣にカラスが群がり、カラスとカラスの隙間に加奈の短剣が突き刺さる。獣に喰われそうになったカラスを加奈が助け、加奈に飛びかかる獣をカラスが阻む。カラスとの息もぴったり合い、加奈は順調に獣を退けて進んだ。
やがてすべての獣を葬り去り、兵士の間から勝利の雄叫びがあがる。老亥と牙羅が肩を叩き合って再会を喜んだのも束の間、牙羅の顔はすぐに暗鬱としたものに変わった。
「キシルラが獣の大軍に襲われた。タリムの部隊は恐らく全滅、住人の多くは獣に喰われたとも聞くが、確かなことは分からない。俺たちが戦っていた所に熊が現れて、ここに誘導してくれた。すまない。俺の力不足だ」
「おまえのせいではない。皇氏さまは、どうなった」
「焔氏の死後も、皇氏さまの骨に変化は見られなかった。今はどうなっているのか……」
うなだれる牙羅の肩を、老亥がねぎらうように叩く。皆が集まっている場所から熊が静かに去ろうとしていることに気づき、加奈は熊の左手に飛びついた。
「行かないで。一緒にキシルラに行こう」
「逃がさないぞ、灰悠」
加奈を真似て、キクリが熊の右手をしっかりとつかむ。灰悠の腕にしがみついたキクリの顔が嬉しそうに見え、加奈は微笑した。




