8 奇跡の大地 ⑤
タルモイは横たわった蓮婆のそばに立ち、両掌を天に向け目と口を閉じ、静かに謡い始めた。
体を揺らし「ん~」と咽喉を震わせると、声は高くなり低くなり、胸に下げた『記憶の鏡』が月光に照り映える。加奈はタルモイの隣で「助けてください」とひたすら念じ、キクリが短剣で獣を退けて回る。
1つ、2つ。白いものが落ちて来た。はっとして見上げた加奈の目に、藍色の空を優雅に舞う無数の光が映る。ゆっくりと降り落ちる光は雪に似て、大きさと輝きがダイヤモンドを想わせる。獣の黒い躯体は光に触れるや生気を吸い取られ、瞬時に消えた。
「爺ちゃん! 光が……獣を消してるっ」
キクリが驚愕の声をあげ、タルモイは目を見開いた。
「お……おお……」
細雪のように舞い降る光。純白の雪片が光を放ち、星のきらめきにも雪の結晶にも花びらにも見える。幻想的な光は加奈たちを素通りし、牙を剥いて暴れる獣を容赦なく攻めた。辺りに漂う黒い靄が、空めがけ噴き上がったかと思うと、霧散し消えていく。
「動くんじゃないぞ。命の光が守ってくださる」
タルモイが加奈とキクリを引き寄せ、加奈は神秘の光景に魅せられた。月と星に照らされた光が静かに降りつづき、冷徹に獣を抹殺し、地面に白く積もる。
「怖いけど、綺麗……」
「ああ。美しい光景だ。幼い頃に光の風を見て以来、二度と見られんものと諦めておったが……」
「大河で見た光の雨とは、少し違うような気がします」
「戦う姿だからかな。しかし命の光の前では、獣など敵にはならん。幸福感は悪意を駆逐するものだ」
嬉しそうに空を見上げるタルモイと、掌で光を受け止めようと奮闘する加奈に、キクリは呆れ顔を向けた。
「頼むよ、2人とも。まだ終わってないんだ。ぼおっとしてると獣に喰われるよ」
褐色の美少女は短剣を握りしめ、みるみる数を減らす獣を用心深く見つめる。
やがて黒い靄と獣はすべて消滅し、静寂が訪れた。蓮婆を包んでいた黒い衣は跡形もなく消え、白髪の呪術師はぼんやりと瞼を開けた。
「見えるぞ……おお……」
「蓮婆、気がついたか」
「自由じゃ。わしは、澱みから脱した」
蓮婆の体が浮き上がり、不思議な光を放つ。空中を滑るように屋根の端まで歩き、蓮婆は神殿の庭を見下ろした。獣の姿はどこにもなく、雪のように積もった光が白々と輝いている。
アシブと龍宮の男たち、タリム兵が互いに健闘を称え合い、人が動くとその箇所だけ光は風船のように浮いた。「加奈! 加奈!」と呼ぶ声が聞こえ、加奈は蓮婆の隣でひざを突き、緑青に向かって手を振った。
「緑青! わたしはここよ!」
「そんな所に。良かった―。姿が見えないから心臓が止まりそうになったよ。怪我はない?」
「うん! ……あっ」
地面に落ちた光が一斉に浮上し、加奈は思わず中腰になった。無数の光が絡み合い、煌めくヴェールを織り上げる。ヴェールは陽炎の如く揺れながら、少しずつ上昇した。
獣がいた場所から小さな光が現れ、白く輝く人の姿へと変わっていく。神殿の石畳に10人、草地に100人、森に現れた人々は数えきれないほどで、ふわりと浮き木々の上を漂う。白く輝く顔が暗い絶望から驚き、期待、希望へと変化し、皆一様に空を見上げ恍惚の表情を浮かべている。
「何と。獣に喰われた者たちだ」
「戻って来たか!」
歓声があがり、神殿の扉が力強く開かれた。中から飛び出したのは、睡蓮を始めとするシギの女たちである。10人の輝く人々を取り囲み肩や腕を叩いて喜びを示し、草地や森の上を漂う人々には手を振り喝采を送った。
(烏流は……?)
金茶色の三つ編み――黒い貫頭衣を着ているはずの烏流を、加奈は必死に探した。だが、何処にも見当たらない。
「タリムの者もいるぞ!」
タリム兵の間から声があがる。革兜をかぶった白く輝く兵士が石畳に立ち、そこに奇跡があるかのように夜空を仰ぎ見ている。
「見える……。ああ、何という……」
何が見えると言うのだろう。加奈は月と満天の星に彩られた空を見上げ、隣で浮いている蓮婆に目をやった。
「時は来た。わしは旅立つ」
蓮婆の声が響き、睡蓮が目を剥いて声を張り上げた。
「伯母さまが行ってしまわれたら、誰がアシブを守るのですか」
「おまえにまかせよう。先に行って待っておる。みんな、早く来るがいいぞ。光の世界は美しい」
「そんな……待ってください」
睡蓮の言葉は蓮婆の耳を素通りし、蓮婆は賛嘆の表情を空に向けた。
「わしは……故郷へ戻る」
蓮婆と輝く人々の白く光る体がぼやけ、微細な粒子の集合体へと変わる。天高く昇って行くにつれ輪郭がおぼろになり、やがて光の陽炎に溶け込み見えなくなった。シギで共に暮らした人々が遥か上空でオーロラのように揺らめき、風に吹かれ彼方に去って行くさまを、残された人々は茫然と見送った。
……なんか、哀しい。
奇跡の光景を目の当たりにしながら、加奈の中で割り切れない思いが残る。獣に食べられ辛い思いをした人たちが光になったのは嬉しいし、幸せになって欲しいけれど、素っ気なく置いて行かれた気がしなくもない。
烏流も――――蓮婆たちと一緒に行ってしまったんだろうか。一言の別れの言葉もなく。そう思うと悲しくなり、他の人たちはどんな気持ちだろうと石畳の上に立つ人々を見回した。みな溜め息をつき、睡蓮は肩を落としうなだれている。
「元気をだせ」
タルモイが、神殿の屋根から声をかけた。
「何もかも捨てなければ、光となって飛ぶことは出来ん。わしらもいずれ至福の光となり、空を飛ぶ。そう遠いことではないぞ」
「どうすれば光になれるんだ。獣に喰われればいいのか? しかし蓮婆は喰われていないしな」
「蓮婆は呪術師だよ。あたし達とは違うだろ」
残された人々は声高に言い、タルモイが片手を上げて制した。
「わしらは、心の奥底に捨てられない何かを持っている。シギが心配、会いたい人がいる、心残りがある、まだやり残したことがある、自分だけ旅立っていいんだろうか。そういう思いが、わしらを人の世界につなぎ止めている。光の世界に戻るには、非情さが必要だ。肉親も情も切り捨て、先に行く。あちらに行ってしまえば、いつでも人の世界を助けられる。獣を退治することもできる。さっき降った光のように。わしらは、わしら自身の道を探そうではないか。非情な光となって戻るもよし、このまま情けなくも情け深い人であり続けるもよし。人それぞれだ」
「うむ。それについては、またの機会にゆっくり聞かせて頂きたい」
老亥が咳払いをし、言いづらそうに言葉を放った。
「興味深い話題だが、戦闘はまだ終わっていない。獣が潜んでいないかどうか、調べ終わるまで気を抜くべきではない」
老亥の言葉に、加奈ははっとした。守礼の姿が見えない。熊――灰悠は? 確か神殿の外に飛び出して行ったけど。屋根から下方の森を見下ろしたが狼も熊も見えず、彼女は慌てて梯子を下りた。
「龍だ!」
タリム兵の叫びが、皆を凍りつかせた。闇に閉ざされた森で木々がざわめき、何かが動いている。獣の唸り声が聞こえ、加奈にはそれが熊のものだと分かった。
木立ちの下に青い尾の先端が見え、神殿の裏庭に狼の半身が現れる。狼は龍の足を口にくわえ、黒光りした躯体を月光の下に引きずり出した。
黒い龍――――。熊や狼の何倍もありそうな黒い巨体をくねらせ、腹部に噛みついた熊と、足をくわえた狼から逃れようとしている。光に生気を奪われ弱った体に、熊が爪を立て肉をえぐり取る。
雷のような咆哮を轟かせ、龍は動きを止めた。力を失い崩れ落ちた龍の体が微かに光り、爪で切り裂く熊の姿が人の形に変わる。
「灰悠……灰悠だ!」
仰天する人々の中に加奈は飛び込み、膝をつき石畳の端をつかんで見下ろした。狼が龍を押さえつけ、灰悠が両手を龍の体に突っ込んでいる。固唾を呑んで見守る人々の眼下で、灰悠は光るものを龍の体から引き出した。
白夜の空の下で朱色の薄衣がはためき、純白の巻き衣をまとった小さな体が見える。幼いその顔を目にし、加奈の表情が硬直した。鈴姫――――。でもどうして? 鈴姫は志希村にいるはずなのに。
「これはどういうことだ。龍の中に姫神さまが……」
「鈴姫さまは、獣に喰われたんだ。獣の中におられても不思議ではない」
「しかし、これではまるで姫神さまが俺たちを襲ったみたいで……」
腑に落ちない人々は、顔を見合わせた。灰悠は鈴姫らしい少女を抱き上げ、立ち上がった。大柄な灰悠の腕の中でぐったりした少女は小さく、目を閉じた幼い顔は美しい。灰悠は少女を抱いて狼の背にまたがり、狼は神殿の壁面に爪を立て駆け上がった。
神殿の一室に敷物が敷かれ、意識を失った鈴姫が儚げに横たわっている。胸まで毛布に覆われ、外に出した小さな手も顔も透き通るように白い。銀細工のように繊細で美しい少女である。
「あの……」
加奈は毛布を掛け直すキクリから、心配そうな顔つきで座る灰悠に視線を移した。
「鈴姫さんは志希村にいたはずなのに、どうして獣から出て来たの?」
「シキムラ? ああ、加奈の故国か。爺ちゃんによると鈴姫は獣に喰われた後、ずっと獣の体内にいたんじゃないかってことだけど」
「志希村でわたしに翡翠をくれたのは、鈴姫だったのに? 守礼に出会ったのも鈴姫の導きだったし。鈴姫は、別々の場所に現れることが出来るのかな」
首をかしげる加奈の隣で、灰悠は胸に手を置いた。筋肉質の胸に小さな丸い鏡が現れ、しゃがれた声が咽喉から伝い出る。
「り……ん……き」
正座した少女がキクリの隣に現れ、キクリは「わっ」とのけぞった。少女は服装も姿形も鈴姫そっくりで、にっこり笑って加奈たちを見回した。鈴姫が2人いる状況に、加奈の目が丸くなる。
「そうか……こっちの鈴姫は、灰悠の記憶なんだな」
キクリは出現した鈴姫に手を伸ばし、通り抜けていく指先を凝視した。
「『記憶の鏡』は割れ、灰悠の一部となった。灰悠が鈴姫を思い出す時、『記憶の鏡』は鈴姫の幻を作り出すようになった。だろ?」
灰悠はキクリをちらっと見て、照れたようにうなずいた。
「わたしが志希村で会った鈴姫は本物じゃなくて、実は灰悠だったってこと? ……でもどうして?」
「だってこんな図体のデカいこわもての男だの、見るからに凶暴そうな熊だのが出たら、加奈はびっくりして逃げ出すだろ? 鈴姫みたいな綺麗なお姫様なら、ちゃんと話を聞いてくれると灰悠は考えたんだよ。で、鈴姫の幻を見せ、自分をシギに連れて行ってくれるよう加奈に頼んだ。だろ?」
困ったように髪をかき上げ、再びうなずく灰悠。いえ具体的に何かを頼まれたわけじゃないんだけど、と加奈は灰悠を横目で盗み見る。鈴姫の幻が口にしたのは、「お願い……」だけだった。
あの時すでに灰悠は、声が出なかったんだろうか。あの言葉も、必死の思いで絞り出したのかもしれない。灰悠は誰と話すこともなく、長い年月を鈴姫の幻を抱いて過ごしたのだろう。
キクリが、灰悠の横顔をじっと見つめている。キクリの表情が辛そうで、加奈は胸を押さえた。キクリは灰悠が――――灰悠は鈴姫が――――好き。
加奈と鈴姫を除くと、部屋にいるのは灰悠とキクリだけである。加奈は、立ち上がった。




