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姫神幻想伝奇  作者: セリ
36/53

8  奇跡の大地  ④


 キシルラとは逆方向の、星明りに照らされた彼方の山裾で黒い雲が立ち昇っていた。横に広がった雲の中央部分が盛り上がり、うごめきながら押し寄せて来る。


「龍だ!」


 住人の一人が言い、場は騒然となった。


「龍は姫神様の使いだ。我らに害をなすはずがない」

「だが、どう見ても龍だ」


 加奈は、薄ぼんやりとした雲を懸命に見つめた。中央の盛り上がった部分が龍で、おびただしい数の獣が付き従っているように見えなくもないが、遠過ぎてはっきりしない。


「野生化した獣は、ばらばらに攻めて来るんじゃなかったのか。龍が、獣の軍団を率いているように見えるぞ」

「……まるで獣の王だ」


「みんな、武器を取れ!」


 キクリが声を上げ、加奈は彼女に駆け寄った。


「神殿の中の人も戦うの?」

「最悪の場合はね。あたしらが守りきれれば、戦わずにすむけど」


 重そうな青銅の短剣を片手で軽々と振り上げるキクリに、加奈の目が丸くなる。神殿から蓮婆と老亥が走り出て、蓮婆は壁に掛かった梯子をのぼった。平らな屋根にいたカラスの群れが、一斉に舞い上がる。


「神殿の中には、老人と女たちがいる。神殿を守れ。獣を中に入れるな」


 老亥が鋭く命じ、キクリは腰に手を置いた。


「あたしは戦うよ。加奈は中に入りな」

「でも……」

「入ってください」


 背後から声が聞こえ、振り返ると長く青い尾をひるがえした狼が立っている。


「いいえ。わたしも戦います」


 加奈は右手で腰の短剣を引き抜き、左手で烏流の外套の留め金をぎゅっと握った。これまでも戦って来たんだから、やれるはず。いいえ、やらなければ。戦って獣を退けないと、みんなが死んでしまう。


「加奈は僕が守る」


 緑青が加奈に並びかけ、狼は深い溜め息を洩らし首を振った。


「無理はしないと約束してくださいね、加奈さん。危なくなったら退いてください。決して恥ずかしいことではありませんよ」

「はい。約束します」


 守礼は心配性だなと思いつつ、迫り来る黒い雲が視界に入り、加奈の体がこわばった。中央の盛り上がった部分に、2本の角がはっきりと見える。


 龍――――。本でしか見たことのない生き物が、目の前にいる。黒いうろこに覆われた躯体は鰐に似て、凶暴な金色の眼を光らせ、森の上端をかすめるように飛んでいる。周囲の雲の合間に無数の獣が見え、加奈は息を呑んだ。


「来るぞ! 獣を皆殺しにしろ! ここを通すな!」


 老亥の声が飛び、加奈は奥歯を噛みしめた。獣たちの進路の先にはキシルラがある。獣はわたし達を喰い殺し、キシルラに向かおうとしているんだろう。ここで頑張らなければ、キシルラの人々も危ない。


 黒いもやが這うように大地を進み、神殿に到達した。案山子ギルに遮られ立ち往生し、後続が重なって案山子を押し倒す。靄は徐々に獣の姿を形取り、神殿の壁面を這いのぼった。最上階に達した獣に呼応するように空から黒い雲が落ち、新たな獣へと変化する。


 男たちは怒号を轟かせ、味方を傷つけぬよう気遣いながら武器を振った。老亥を中心とするタリム兵が、シギの男たちをかばうように前に出る。狼が宙を飛び、棘の立った全身で獣を引き裂き、長い尾で薙ぎ倒した。


「加奈、僕から離れちゃ駄目だよ!」

「うん!」


 緑青の隣で、加奈は必死に短剣をふるった。加奈を――――あるいは彼女が着ている外套を守ろうと、カラスの群れが獣に立ち向かう。キクリが見事な剣さばきで獣を退け、黄櫨が斧を振り回し神殿入り口に立ち塞がる。


 加奈のポケットが光り、熊が獣を押しのけ駆け出した。石畳の端から飛翔し、大地に降りるや龍に突撃する。周囲の獣を太い腕で弾き飛ばし、龍の胴体に喰らいついた。


 神殿の屋根では、黒い靄が渦を巻いていた。中心に立つ蓮婆の白い衣がひるがえり、首にかけた『記憶の鏡』が星明りを映している。白髪の呪術師は犬頭の杖を高く掲げ、天に向かって言霊を吐き出した。


「月に宿りし英霊たちよ。我に天神の力を与えよ。いにしえの蛇使いたちよ。今こそ汝らが極めし地のことわりを示す時。我が肉体の封印を解き、意識を星界に在らしめよ」


 黒い渦の勢いが激しくなり、蓮婆が大きく口を開けるや揺らめく獣の姿のまま咽喉の奥に吸い込まれていく。獣を吸い続ける小柄な体が黒く大きく膨れ、蓮婆は苦悶に目を剥いた。


 獣は後から後から押し寄せ、厚い壁となって人々に襲いかかる。黒い靄が立ち込め、辺りは闇に閉ざされた。そばにいるはずの緑青の姿さえ見えなくなり、怒号に混じって男たちの絶叫が聞こえる。一人また一人と獣に喰われていく様を想像し、加奈は恐怖にとらわれた。


「緑青……緑青!」

「ここだ! 加奈、どこ? 見えないよ」

「わたしは大丈夫!」


 そう答えながら手と足を獣に噛みつかれ、声にならない悲鳴をあげる。


(助けて……助けて……)


 舌が縮こまり、言葉が出ない。戦うなんて無謀だった。守礼やキクリの言う通り、神殿の中にいれば良かった――――。


(ううん、そんなこと出来ない)


 やみくもに剣を振り獣を切り裂きながら、加奈は奥歯を噛みしめた。友達が戦ってるのに、自分だけ安全な場所にいるなんて出来ない。目の前で獣が大きな口を開き、加奈は後ずさった。獣は背後から真っ二つに切られ、闇の中から緑青が顔をのぞかせる。


「加奈、無事?」

「うん。緑青、後ろ!!」


 獣に肩を噛まれ、緑青の顔が歪む。振り向きざまに獣を叩っ切り、緑青は右に左に剣を繰り出した。


(わたし――――足手まといになってる)


 剣を大きく回しながら、加奈は唇を噛んだ。自分だけ助かるのは嫌とか出来ないとか言って、結果として緑青の足手まといになってる。自分の気持ちに蓋をし、大人しく神殿の中にいれば良かった。そうすれば緑青は、わたしをかばう事なく存分に戦えたのに……。


 自虐的な気分になった時、獣が数匹飛びかかって来て、加奈は足を滑らせよろめいた。つかむ物を探し振り回した左手が水に触れた瞬間、光が噴き上がる。


 金柑の木の下にある水鉢に加奈の左手が手首まで浸かり、無数の光が柱の如く吹き出した。仰天して目を見開く彼女をすっぽり包み、光は花火のように弾けて踊る。牙を剥き彼女に飛びかかった獣は、光に接触するや水が蒸発するように瞬時に消えた。                     


(いける……かも)


 自虐は跡形もなく吹き飛び、光に守られた加奈は闇の中を走った。獣に喰いつかれた人を見つけては、光る手で触れ獣を消し去る。それを繰り返しているうちに光は少しずつ弱くなり、彼女は焦った。


 光が消えてしまう――――。新たな光を呼ぶには水が必要だ。水――――水。足もとに転がった茶器を見つけ、急いで水鉢に駆け戻る。剣で獣を追い払いながら、水を汲んだ。


 指先を茶器に浸けると、視界がぐらりと揺れた。貧血になった気分だと思いながら、指で水を振りまく。水滴から無数の小さな光が飛び出し、霧となって漂った。光に触れた獣は消えるけれど、後から後から押し寄せる黒い靄が途絶える気配はない。敵の数が多過ぎて、終わりが見えない。


 頭上から甲高い叫び声が聞こえ、見上げると空中で黒い靄が渦を巻いている。蓮婆が獣を取り込み、力で消してくれているはずだけれど、あの叫びは――――まさか。


 もしも蓮婆が倒れたら、どうなるんだろう。終わりのない戦いを続けた挙句、みんな疲れ切って獣に食べられてしまい、光に守られたわたしだけが生き残る――――? そんなの嫌だ。


 加奈は剣を鞘に収め、茶器を抱えて梯子をのぼった。獣は彼女を包む光の帯を怖れ、遠巻きに餓えた眼で見ている。


(わたし一人が生き残るなんて、二度と嫌だ……)


 両親が亡くなった日のことを思い出すと、きりきりと胸が痛む。授業中の教室から飛び出し、病院に駆けつけた。横たわったまま動かない両親の体。青く冷たい作り物のような顔。朝はあんなに元気だったのに、二度と会えなくなってしまった。


 わたしのせいだ。古い車を買い替えようなんて言ったから。ドライブに行く両親を止めなかったから。わたしのせいなのに、わたしだけが生き残ってる。こんなのおかしい。痛む心を抑えつけ、加奈は蓮婆に駆け寄った。 


 白髪の呪術師は、屋根の上で仰向けに倒れていた。苦しげな表情。王宮地下の男のように、黒い衣に包まれ膨れ上がった体。焦点の定まらない目で天を見上げ、何事かを呟いている。


「蓮婆さん! 蓮婆さん!」


 加奈の声が届いたのかどうか。蓮婆は虚空に視線を彷徨わせ、加奈は手を振って懸命に水を飛ばした。水滴から弾き出た小さな光が、舞いながら蓮婆を包む黒い衣を消していく。雷鳴のような声が轟き、加奈は飛び上がった。


「李姫! 思いあがりおって! おのれの無能を認めることができず、次期姫神と称された優秀なわしに嫉妬したのじゃろう! 妻を迎えた莱熊とどんな取引きをしたのじゃ? すべてを白日の下に晒すと脅したか? 子供ができたとでも言ったか。守礼はおまえ達の息子じゃろう!」


 蓮婆の唇がしゃがれ声を発し、僅かにねじ曲がる。守礼が李姫と莱熊の息子? 捨て子じゃなかったの? 加奈は瞠目した。


「姫神でありながら不義を続けおって。天神はすべてを御存知じゃ。おまえの悪行がシギに暗雲をもたらした。分かっておるのか!」


 誰と話してるの……? 加奈を包む光がおぼろに煌めき、黒い靄を照らしている。蓮婆の視線の先には何もなく、黒い靄と虚空があるばかりである。


 蓮婆は幻を見ているんだと加奈は思った。あるいは何も見えていないのかもしれない。自身の心と対話し、怒りが蓮婆の黒い衣を膨らませている。


「その嘘つきの口で長老と大神官をも丸め込んだのか。一族の上に立つべき者が皆おまえのせいで邪悪に落ち、それゆえナムタルが訪れたのじゃ。おまえのよこしまな振る舞いが、悪霊を呼び寄せたのじゃ!」


 蓮婆の怒りに満ちた言葉が闇に響き、加奈が消し去ったはずの黒い衣を復活させる。残り少なくなった茶器の水を見下ろし、彼女は絶望的な気分になった。獣は消えず、蓮婆の黒い衣は厚くなるばかり。闇の向こうからひっきりなしに男たちの絶叫が聞こえ、加奈を包む光が弱くなっている。


「蓮婆さん、目を覚まして。獣を消すんじゃなかったの? 全然消えてないよ……。助けて、蓮婆さん! わたし達を助けて!」


 涙声で叫ぶ加奈の耳に、誰かが梯子をのぼって来る音が飛び込んだ。獣を切り裂き現れたのは、キクリとタルモイである。


「蓮婆……こんな事だろうと思った」


 短剣で獣を追い払うキクリの隣で、タルモイは横たわった蓮婆を一瞥し、呪術師の首から鏡を取り上げた。『記憶の鏡』を首に掛け、老人は加奈に歩み寄る。


「神官の卵だった時、わしは命の光を呼ぶ術を学んだ。才能が無かったがゆえに呼ぶことは出来なかったが、今一度やってみようと思う。力を貸してくれ」

「もちろんです。どうすればいいですか?」

「祈ってくれ。祈りながら命の光を呼んでくれ」

「はい」


 そう答えたものの、どう祈ればいいのか。困った加奈は、茶器の底に貼り付いた水に指先を浸けた。花火のように光が弾け、おぼろな光を放つ。これが体内にあったものなら、惹かれて別の命の光が集まって来るはず――――。そう信じ、小さな光を見つめた。





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