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姫神幻想伝奇  作者: セリ
35/53

8  奇跡の大地  ③

 

 蓮婆の告白が、加奈の頭の中で渦巻いていた。


 李姫のせいで恋人も地位も名誉も失い、彼女を呪殺し若さをも失った――――蓮婆の話をまとめると、そうなる。どれ一つを取っても衝撃的なのに、蓮婆の態度は平静そのもので、加奈は首をかしげた。


 蓮婆にとってはただの昔話、古い思い出なのかもしれない。その事と守礼は、どうつながっているんだろう。蓮婆は罰を受けるんだろうか。――――まさか死刑? 質問したいけれど、話は終わったとばかりに急ぎ足で歩く蓮婆について行くのが精一杯だった。


 何も尋ねられないまま神殿下に戻ると、人々がひっきりなしに石段を上り下りしていた。蓮婆の目が吊り上がり、杖で地面を叩く。


「何を取りに戻るのじゃ。命より大事な物があるか。いつ獣が襲って来るか分からぬのだぞ」

「はあ。婆様が寒いと申しますので、毛布を取りに帰ります」

「私は鎌を取りに。武器が足りないらしいので」

「戻って来れなくなっても知らんぞ。まったく、危機感が無さすぎる」


 ぶつぶつ小言を呟く蓮婆の隣で、加奈は石段を駆け下りて来るキクリに目を留めた。


「加奈を借りるよ」

「どこへ行く気じゃ」

「ちょっとそこまで。すぐに戻るから」


 そう言って笑うキクリに腕をつかまれ、加奈は神殿の裏手まで走った。広々とした草地があり、隅に建てられた粗末な小屋の後ろは雑木林になっている。左手の小高い丘には蓮婆が身を浄めた泉があるはずで、方角から考えて雑木林の奥には地下通路の出口があるだろう。


「以前、厩舎だった場所だ。今はただの物置になってるらしい」


 キクリは草地の一画で立ち止まり、地面に視線を走らせた。確かめるように周囲を見回し、草に覆われた一点をじっと見つめる。


「厩舎……。もしかしてここ……」

「……ああ」


 キクリはひざまずき、優しい手つきで草をかき分け、土を撫でた。

 灰悠が死んだ場所――――。獣杯を守るために獣を引きつけ、灰悠はここで死んだ。加奈の目の奥がつんと熱くなり、ポケットの翡翠が仄かに光る。草地に薄黒い靄が立ち昇り、熊の姿を形作った。


「熊さん……あっ」


 熊の輪郭がぼやけて縮み、大柄で筋肉質の若者へと変わっていく。骨格のがっしりとした顔立ちは男性的で、眉毛が濃く口が大きい。肩にかかる黒髪を紐で結び、膝丈の巻き衣をまとい、革紐に通した丸い鏡を首から下げている。若者は驚愕に目を見開くキクリを見つめ、加奈に目をくれた。キクリが立ち上がり、震える足で彼に歩み寄る。


「……灰悠か? 無事だったのか」


 飄々とした顔を爽やかな笑顔に変え、若者は大きくうなずいた。この人が灰悠――――。目を見開く加奈と涙ぐむキクリの目の前で、灰悠は笑顔のまま熊の姿に変化した。


「生きて……たんだな。良かった。本当に……良かった。でも何で知らせてくれなかったんだ。生きてるって……何で……」


 涙でくぐもるキクリの言葉に、熊の首が困ったように傾く。大きな手を胸に置くと青銅製の鏡が現れ、黄金色にきらめいた。掌ほどの大きさで、『記憶の鏡』に似ている。


(あっ……!)


 鏡面がきらりと光るや草地に獣の姿をした黒いもやが出現し、加奈は後ずさった。靄の中心で血まみれの若者が剣を振り、獣と闘っている。灰悠――――。


 獣が灰悠の腹部に飛び込み、ぱりんと乾いた音がした。首に掛けた鏡が粉々に割れ、腹部を貫いた獣が血しぶきと共に背中から飛び出した。

 苦悶に歪む灰悠の顔。がくりと膝をついた胸元から、翡翠が落ちる。それを拾い強く握るや、彼は血が滴り落ちる腹部に押し込んだ。


(翡翠を体内に……」


 その行為の意味が、加奈に衝撃を与える。これは、『記憶の鏡』が映し出した過去の映像だ。死ぬ直前、彼は翡翠を自分の体に隠したのだ。誰にも渡さないために。二度と獣杯を使わせないために。もしもタリム兵が調べても、体内までは見ないだろう。


 鏡は割れてしまったけれど、翡翠はずっと灰悠の中にあった。彼はそれを、わたしに渡した……。……え? わたしに翡翠を渡したのは鈴姫だ、灰悠でも熊でもなく。 


 映像は現れた時と同様、唐突に消えた。キクリが涙をぬぐいながら、熊に笑顔を向ける。


「立派だ、灰悠。おまえは本当に立派だ」


 無理をして作った笑顔は瞬時に崩れ、キクリは膝をつき両手で顔を覆った。


「死んでしまったのか……灰悠。今のその姿は、鏡が映す幻か。だから話せないのか……」


 熊がキクリのそばに座る。灰色の太い腕でキクリの肩を抱き、肉球の付いた手でぽんぽんと頭を叩く。加奈が涙目をこすっているうちに、熊は薄黒い靄となり、霞のように消えた。


「灰悠……灰悠!」


 四方に首を巡らせるキクリの向こうに守礼の姿を見つけ、加奈は駆け寄った。


「守礼、熊が灰悠に変わったの。熊は、灰悠だったのよ」

「ええ。遠目でしたが、私にも見えましたよ」

「でも消えてしまった。話したいことが、たくさんあったのに……」


 名残惜しそうなキクリの視線が、加奈のポケットで留まる。


「熊は翡翠に宿り、加奈の家からシギに渡って来たんだよね? 爺ちゃんから聞いたよ。つまり灰悠の魂は、加奈の家に住んでたのか?」

「そうなるのかな……」


 桔梗の間にいた化け物と、黒い靄の間に垣間見えた熊を思い出し、加奈は視線を泳がせた。灰悠は先祖代々伝わる化け物だった――――とは言いにくい。


「戻りながら話しませんか? お2人を連れ戻してほしいと蓮婆に頼まれたのです」 


 守礼が言い、3人は並んで歩き出した。キクリが加奈の肩に手を置き、懇願するように睫毛をしばたかせる。


「翡翠に呼びかけて、もう一度灰悠を呼び出せないかな。どうしても聞いておきたいことが一つあるんだ」

「どうかなあ。熊さん……じゃなく灰悠って、食事か戦闘の時しか出て来ないような」

 

「憶測ですが、長く生者の国にいたせいで、灰悠が持つ獣の力の質が変わってしまったのではないでしょうか。こちらの世界では姿を維持することすら難しく、力を得るために大量の獣を摂取しているのでは。得た力を温存するために、あまり外に出ないようにしているのかもしれません」


「緑青と黄櫨は? 2人とも灰悠と同じように生者の国にいたのに、そんな事ないけど」

「灰悠は死んでしまい、緑青と黄櫨は生きてるからだろ」


 キクリが言い、加奈は言葉に詰まった。みんな死んでるんだけど……。シギの人は、死者と生者をどう区別してるんだろう。体温とか、心臓の動きとか?


「2人に憑いているのは生者の国の獣ですから、獣杯の獣に憑かれた灰悠とは違うと思うのですよ。なぜそうなのかは……判りませんが」

「そうなの? 緑青と黄櫨に憑いてるのは、生者の国の猫と狐?」


 猫憑きと狐憑き……? 死者が動物霊に憑かれるなんてことがあるの? うなずく守礼を見つめ、加奈は目をぱちくりさせた。キクリが凜とした仕草で腕を組み、守礼を見上げる。


「熊が灰悠だと気づいてたのか? ……あたしは一見しただけじゃ、判らなかったけど」

「食事をする様子を見ましたから。気配や仕草が似ていたので、そうではないかと思ったのです」


 初めて烏流に会った時、熊がカラスを食べたことを言っているのだろうと加奈は思った。烏流の面影を全力でかき消し、彼女は守礼に顔を向ける。


「何度も助けてもらったのにお礼も言ってなくて、ごめんなさい。本当に今更なんですけど、ありがとうございました。あの時、怪我……したよね? 大丈夫?」

「すっかり癒えました」


 守礼は優しく微笑み、加奈の心がほんわかと暖かくなった。辛かった時、彼が何も言わず静かに寄り添ってくれたことは一生忘れない。感謝してもしきれない。


 守礼が復讐や野心のために獣を放ったという話は、やはり偽りだった。彼は自分について語らないし、多くの嘘を口にしているけれど、悪意や欲とは無縁のように思える。それにしても――――どうして自分が獣を放ったと嘘を言ったんだろう。


 神殿の石段を最上階まで上がると人々が石畳の縁に立ち、下を見おろし指さし口々に怒鳴っていた。「タリム兵」という言葉が洩れ聞こえ、加奈は守礼とキクリに挟まれ、石畳の端まで行ってみた。


 怖ろしいことに、柵がない。敷き詰められた石畳は端まで来ると唐突に切れ、風に吹き飛ばされるか誰かに押されでもしたら、数十メートル下にある4階の石床まで真っ逆さまである。


 震える足をなだめ恐る恐る下を覗く加奈の目に、神殿の各階が段々畑のように映った。神殿を中心として、同心円状に並ぶアシブの家々。緑野が集落を囲み、その向こうは黒々とした森である。上端を金色に縁どられた森が、藍色の空と緑の野を隔てる帯の如く延々と連なり、森から出て来た20名余りの兵士がこちらに向かって歩いている。 


 兵士の部隊は迷うことなく石段をのぼり、蓮婆を先頭に住民総出で迎えた。老亥が一歩前に出て、白一色の衣をまとった蓮婆と向かい合う。一部隊を従えた老亥は威厳があり、小柄な蓮婆を鋭く見下ろし、加奈が驚いたことに僅かに頭を下げた。


「久しぶりだな、蓮婆どの。守礼、ここにいたのか」


 守礼の姿を見つけた老亥は一瞬驚き、目礼する青年に目礼を返す。


「挨拶は後にさせて貰おう。焔氏王が亡くなった」

「知っておる。アシブの住民はギルの内側に立てこもり、襲来するであろう獣どもと戦う準備をしておる」

「我らも共に戦わせて貰いたい。その前に獣杯と貴殿の力について、話が聞きたい。黄櫨によると、蓮婆どのは獣を獣杯に戻す力を持っておられるとか」

「いやそれは……むむ」


 蓮婆の理不尽にも尖った視線が老亥の背後に立つ黄櫨に向けられ、金髪の若者は訝しげに眉を上げた。


「立ち話も何じゃ。中に入られよ」


 蓮婆が先に立ち、守礼が後につづく。老亥は初老の男一人を指名し、残りの兵はここで待つようにと命じ、神殿に入って行った。


「謙虚そうな人ね。良かった」


 加奈が老亥の後ろ姿を眺めながら言うと、キクリが小さく笑う。


「偉そうなタリム族の中じゃ珍しいよな。老亥といって、焔氏の父親の右腕だった男だ。焔氏に疎んじられてたけど、これからは老亥がシギ国の中心に立つんだろうな。うちの爺ちゃんが、もっと元気だったらなあ」

「そう言えばタルモイさんは?」


 加奈は、辺りを見渡した。睡蓮が老人や女性たちに武器を持たせ、神殿の中に入るよう指示している。男たちは石畳に座り思い思いにくつろいでいるが、タルモイの姿はない。


「中にいるよ。疲れたから少し横になりたいって。……黄櫨だ」

「うん」


 兵士の中に黄櫨がいることは、加奈も気づいていた。シギ族の女たちに湯気の立つ茶器を渡され、タリム兵の緊張した面持ちが笑顔に変わる。


 加奈の視界の隅から、緑青が飛び出した。女たちにぎこちない笑顔を振りまいていた黄櫨が振り返るや、頬にこぶしがめり込む。殴られた黄櫨はよろけ、一歩後ろに下がった。


「この、裏切り者め!」

「ちょ……落ち着け。話せばわかる」


 右を見て左を見て、黄櫨は緑青をなだめにかかった。


「静かな場所で話そう」

「ふざけるな、別れ話の痴話喧嘩じゃあるまいし。ここで話せ。皆が証人だ」

「いやだから、深い事情が、わかるだろ?」

「わたし達を助けるために黄櫨は敵陣にもぐり込んだって、烏流が言ってたじゃない」


 しどろもどろになった黄櫨と怒りを爆発させる緑青に、加奈は駆け寄った。


「分かってる。僕が怒ってるのは、そんなことじゃない。どうして何も話してくれなかったのかってことだ。そこが大事なんだ」

「馬鹿がつくほど正直なおまえに話したら、何もかもバレちまうだろう」


 黄櫨が言い、緑青の怒りに油を注いだ。


「馬鹿? 今、馬鹿と言ったか?」

「おい、やめろよ」


 キクリが呆れ顔で間に入る。


「赤ん坊の頃からずっと一緒だったんだぞ。毎日一緒に遊んで一緒に剣の稽古をして一緒にキシルラで働き始めて、初陣も同じ日で、死んだ日も……その後だって……」


 緑青は咽喉を詰まらせ、奥歯を噛みしめた。


「それなのに、肝心な時に信頼して貰えないとは、僕は何なんだ」

「おまえを巻き込みたくなかったんだ。後で話せば判ってくれると信じていたからこそ、大芝居が打てたんだ」


「やる前に話せよ。おまえに合わせた芝居ぐらい、やってやるよ。どれほど心配したと思ってるんだ。狂ったんじゃないか狐の影響じゃないかと色々考えて、おまえのことだから芝居だろうと思ったけど、一言も相談してもらえなかったのが悔しいよ」

 

 緑青の声が、微かに震えている。緑の目に見据えられ、黄櫨は唇を横一文字に引き結んだ。


「言いたいことは、それだけだ。今後は僕に話しかけるなよ、タリム族の黄櫨。おまえとは絶交だ」

「絶……おい、緑青!」


 黄櫨に背を向けすたすたと歩き出した緑青を、黄櫨は呼び止めようとしてすぐにあきらめた。髪をかきむしり、口の中で加奈には分からない悪態をつく。


「友達を騙した黄櫨も悪いが、皆の面前で罵倒するのもなあ……。しかし良くも悪くもあけっぴろげな奴だしな」


 困惑したキクリが緑青の後ろ姿に視線を送り、哀れむように黄櫨を見やる。にやにやしながら成行きを眺めていたタリム兵たちが、順に黄櫨の肩を叩いた。


「いい友達を持ったな」

「あ、ああ。幼馴染なんだ。……絶交されたが」

「話し合えばいいと思……」


 加奈の声は、男の怒声にかき消された。


「来たぞ!! 獣だ! 獣がこっちに向かってる!!」


 見張りの男が一点を指さし、大声で叫んでいる。シギ族とタリム兵が一緒になって石畳の端に集まり、遠くに視線を馳せた。 





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