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姫神幻想伝奇  作者: セリ
32/53

7  戦士の死に場所  ⑤

 

 キクリによると、案山子ギルの中心に置かれた獣杯は、異界に吸い込まれるように消えて行ったと言う。獣杯が消えた場所に短剣で十字の印を刻み、龍宮の入り口まで戻った時、彼女は獣に襲われた。気を失い、目が覚めると夜になっていて、朝まで待つ間にタリム兵に捕えられたらしい。


 以来一度もアシブに戻っていないから楽しみだと嬉しそうに笑うキクリと連れ立って、加奈は龍宮の外に出た。5人の女性が大きな一枚布を頭からすっぽりと被り、焼け焦げた体を慎ましく隠している。


 30人ほどの男たちが古びた武器を持ち、女性たちを囲むように隊列を組んだ。獣杯は編み籠を重ねた中に入れられ、体格のいい年配の女性が首から下げている。タルモイとキクリを先頭に山道を下り、加奈、守礼、緑青、烏流が後につづく。 


 鷲の数は、百羽近くに及んでいた。風はぴたりと止み、雲一つない白夜の空に満月が輝き、星々が鷲の群れの合間できらめいている。鬱蒼と木々の茂る山道を下りきると遠くに崖が見え、カラスの絨毯から落ちた場所だと思い出し、ずい分昔のことみたいと加奈は感慨にふけった。


 黄櫨は今頃どうしているだろう。タリム族の中で、うまく暮らしているだろうか――――。


 空を飛ぶ鷲の数はますます増え、風がそよぎ微かな獣の臭いを運んでくる。前方にあるものを見て、加奈たち一行の誰もが絶句した。


 数十人のタリム兵が隊列を組み、山道をこちらに向かって来る。月光に照らされた黒いもやが雲のように影のように漂い、うごめくその姿は動物にも巨大な爬虫類にも見えた。


 獣の大軍――――。


 突然突きつけられた現実に、加奈は愕然とした。敵が来る。おびただしい数の獣が。何を血迷って戦おうなんて考えたんだろう。勝てるわけない。わたし達は捕まり、龍宮の住人たちは骨に閉じ込められ、わたしは火あぶりにされる。この場で獣に食べられてしまうかもしれない。頭に浮かぶ悲惨な結末を、加奈は懸命に振り払った。


「やけに素早いな。……焔氏がいる」


 烏流は片頬を上げ、陰惨な笑みを浮かべた。敵軍の中央に、6名の屈強な兵士に担がれた屋根のない輿が見え、座っているのは焔氏である。烏流の体から無数のカラスが飛び出し、羽ばたきながら加奈たちを包むように絡み合った。


「カラスを貸してやるから、おまえらは獣どもを突っ切れ。道は守礼が作る。できるよな?」

「……何とかしましょう」


 守礼は、短く瞬きした。


「俺は、焔氏を殺る。おまえらは自分と獣杯を守れ。戦おうなんて考えるなよ。俺の邪魔になる」

「邪魔だと……?」


 気色ばむ住人たちをタルモイが抑え、緑青が烏流に向き直る。


「僕も戦う」

「ふざけるな。ちっぽけな子猫など何の役にも立たない。おまえは皆を護衛しろ」


 烏流の言葉に、守礼は美しい眉をひそめた。


「一人で焔氏の獣と闘うつもりですか」

「敵は焔氏のみだ。焔氏を殺れば奴らは頭を失い、共食いを始めるだろう。それで終わり、俺たちの勝ちだ」


「しかし……」

 守礼は厳しい顔つきで、考え込むように人差し指を額にあてる。


 そう簡単にいくだろうかと頭の片隅で思いながらも、自信たっぷりな烏流を見ているうちに、加奈の胸に奇妙な安堵が広がっていく。烏流なら勝てるかもしれない。ううん、勝ってもらわなければ。他に生き延びる道はないのだから。加奈は、皆を見回した。


「焔氏のことは烏流にまかせて、烏流の邪魔にならないよう一生懸命獣杯を守り、アシブを目ざしましょう」

「カラスがおまえらを見失わないよう、これを着ていろ」


 烏流が外套を脱ぎ、ふわりと加奈に着せかけた。黒く光る外套は羽のように軽く、仄かに温かい。滑らかな生地をそっと撫で、加奈は烏流を見上げた。


「大切にお預かりします。無事でいてね」

「そんなこと言っていいのか? 焔氏を殺ったら……分かってるよな?」


 琥珀の瞳がきらりと光り、加奈は唇をすぼめて烏流を睨んだ。 


「それとこれとは別。とにかく無事に戻って来て」

「ああ。……俺の外套から離れるなよ」


 言い終わらないうちに烏流は翼をはためかせて飛び上がり、守礼の姿が狼に変わる。狼の全身の毛が棘と化し、まるで棘のある鎧を着ているかのようだ。


 烏流が獣の軍団に突入し、加奈の胸は凍りついた。黒い靄が雲のようにもくもくと立ちのぼり、烏流を包む。長い爪で靄を切り裂き、襲いかかるタリム兵を突き倒しながら、彼はまっすぐ焔氏の輿に向かった。


 カラスの群れが加奈たちを覆い、烏流の姿も周囲の景色も見えなくなる。守礼が「まっすぐ進んでください。行きますよ」と声をかけ、一行は加奈と女性たちを中心として、小走りに駆け出した。


 金茶色の三つ編みをなびかせ、10本の爪を10本の剣のように器用に操り、烏流が凄まじい速さで獣を残骸に変える。弓の如くしなやかな身体が舞うごとに熟練の兵士は退けられ、獣の切れ端が大地に落ちた。


 烏流は、焔氏だけを見ていた。焔氏は真紅の髪を一つに束ね、黒い袴の上に膝丈の黒い衣をまとっている。輿は地面に下ろされ、6名の兵士が守るように彼を囲んでいた。


 敵は焔氏のみ、他は雑魚だと、烏流は獣やタリム兵を切り捨てる。血がたぎり、殺しの興奮が彼の全身を駆け巡った。


 烏流のすぐそばで狼が闘っている。守礼が秘めた獣を外に出そうとするにつれ、棘の付いた尾が伸びていく。青く長い尾は彗星のように宙を流れ、後から後から押し寄せる獣と敵兵を薙ぎ倒した。


 加奈たちは何重にもカラスに覆われ、狼のすぐ後ろをじりじりと進んだ。カラスは大きく羽を広げて一行を守り、口ばしだけで敵と闘って力尽き、次々と地面に落ちる。


(カラス……可哀相。烏流にもカラスは必要なはず……)


 焔氏の獣の怖ろしい姿を思い出し、加奈は短剣を握った右手に力をこめ、外套越しに左手で翡翠に触れた。


(熊さん、力を貸して。助けて。お願い……)


 心から願うと指先がちりちりと熱くなる。指の間から光が洩れ出し、すぐさま消えた。


 焔氏は2本の剣を構えている。青ざめた顔は鬼気迫り、灰色の眼で狼を追った。狼は加奈たちの先頭に立ち、獣と闘いながら突破口を開こうとしている。


「――守礼なのか。黄櫨と緑青を牢から出し加奈を助けた狼とは、おまえか。私に忠誠を誓っておきながら」


 狼は青いたてがみを振り、牙を剥いた。


「あなたに忠誠を誓ったのではない」

「たわ言を申すな!」

「間違うな、おまえの相手は俺だ!」

 

 烏流が目にも留まらぬ速さで6名の兵士全員の咽喉を切り裂き、焔氏に切りつける。剣で受け止めた焔氏の体からわにに似た巨大な爬虫類が飛び出し、烏流に襲いかかった。烏流は素早くかわし、横から飛び込んで来た灰色熊が鰐の咽喉に食らいつく。


「来たか、熊! 獣を焔氏から引きずり出せ!」


 叫びながら、烏流は鰐の大きな口を縦一文字に切り開いた。薄桃色の傷口は黒い靄となり、すぐさま元に戻る。熊は鋭い爪で鰐の体を深くえぐり、少しずつ焔氏から引き離した。


 うろこに覆われた体を激しくくねらせ、薄桃色の大きな口蓋を開き、鰐が熊に迫る。熊は敏捷な動きで鰐の背によじ登り、硬い上顎に噛みついた。上空から降りて来た鷲の群れと無数の獣に背中を喰いちぎられながら、太い腕で獣を追い払い、牙を深く埋める。


「うおおおお――っ!」


 焔氏が雄叫びをあげた。烏流は繰り出された2本の剣を払いのけ、焔氏の両腕を叩っ切った。切り落とされた腕は瞬時に消滅し、剣を握ったまま焔氏の肩から再生される。2本の剣で空を切り、焔氏は傲慢な薄笑いを浮かべた。


「私は死なない。何度私を切ろうとも、死ぬのはおまえだ」

「どうかな」


 言うが早いか焔氏と切りむすび、彼の腕を切り落とす。何度切っても再生される腕を切り続け、烏流は爪で焔氏の胸を深々と貫き、鰐から引き離しにかかった。


 ずるっ、ずるっ――――。音を立て、少しずつ全貌を現す焔氏の獣。

 鰐の体が完全に焔氏から離れた時、烏流の爪が焔氏の首をかき切り、青白い顔が真紅の髪をなびかせ宙に浮く。

 

「私は死なない。私は選ばれし者。私は永遠に生き続ける」 

「黙ってくたばれ。カラスども、こいつを喰え――――っっ!!」


 烏流が叫んだ刹那、彼の体から黒い一団が吹き出した。カラスは焔氏の体をつつき、顔に群がり、肉をはぎ取る。烏流の口から、抑えきれない笑い声が洩れ出した。

 

「くっくくく……あっはははっは――――っ。殺しは楽しいなあ、留心」


 笑いながら左手で獣を切り裂き、右手で負傷したタリム兵に止めを刺して回る。もはや原型をとどめず、肉塊と化した焔氏の顔。その口が、かすれた声を発した。「父上……」 カラスにつつかれながら焔氏の顔は大地を転がり、黒い翼に覆われ見えなくなった。


 鰐の長く扁平な尻尾の先端で、丸い光が浮き上がる。熊がうなり声をあげて飛びかかるや、光は溶け入るように鰐の体内にもぐり込んだ。尖った爪でうろこを引き裂きかき分け、熊は懸命に逃げた光を追う。


「ぐぉおおおおおお――――っっ!!」


 地響きを思わせる鳴き声を轟かせ、鰐は荒んだ金色の眼で周囲を見回した。カラスに包まれた一行に目を留め、熊を引きずりながら這い寄ろうとする。熊が鰐の尾に爪を立て、狼が足に噛みついたが、止めることができない。


 何重にも重なっていたカラスは獣に喰い尽くされ、数が少なくなっている。カラスとカラスの隙間から、大きく開かれた口とびっしり生え揃った尖った歯が見え、加奈は叫び声をあげた。


「ちっ。共食いすればいいものを」


 烏流は鰐の頭上に舞い降り、上顎から下顎まで一気に貫いた。口中につららのように垂れ下がった爪を気にも留めず、鰐は龍宮の住人の足をくわえ込む。


「うわあああ――っっ」

「この野郎!」


 緑青が鰐に切りつけ、加奈は住人を助け起こそうとしたが、住人もろとも引きずられ転んだ。

 さらに深く呑み込もうと鰐が口を開いた時、烏流が中に飛び込んだ。上顎と下顎を爪で刺し両腕を広げ、鰐の口を押し広げる。加奈と緑青が住人の男を引っ張り出し、鰐の強烈なあごの力が烏流の腕にかかる。爪が弓のようにしなり、ピシピシと危険な音を立てた。


「烏流、早く出ろ! あなたが呑み込まれる!」


 守礼の怒声を聞き流し、烏流は加奈たちに向かって怒鳴った。


「加奈! 緑青! 走れ! タルモイ、全力で走れ!」

「急げ!」


 キクリが振り返って皆に声をかけ、ふらつき始めたタルモイの体を支える。タルモイは息を切らせ、咳き込んだ。


「わしにかまわず、先に行け」

「駄目だ、全員で走るんだよ。みんな急げ!」


 一行に襲いかかる獣を狼が蹴散らし、熊が鰐の尻尾に噛みついて後ろに引っ張る。跳ね回って暴れる鰐の口中で、烏流は懸命に体勢を保った。


「烏流、逃げて!」


 烏流の爪は今にも折れそうだ。爪が折れたら――――鰐に食べられたら烏流は――――。加奈の悲痛な叫びが響き渡る。


「烏流! 早く逃げて!」

「馬鹿、走れ!」


 キン、と金属音がした。烏流の爪にひびが入り、砕け散る。膝をつき、両腕で上顎を持ち上げる烏流の指先から新たな爪が生え出し、鰐の咽頭に突き刺さる。


(もってくれよ……)


 彼は加奈たちを見ながら、鰐の口から飛び出す頃合いを計った。

 先頭のタルモイがつまづき、前につんのめる。キクリは片手で祖父を支え、片手で剣を振った。焼け焦げた男たちが粗末な武器で女たちを守り、緑青は長剣、加奈は短剣で闘っている。


 口を閉じようとした鰐が自らの顎を地面に叩きつけ、鈍い音がして烏流は顔をしかめた。両腕の骨にひびが入り、痛みが脳天を突き抜ける。


(畜生……)


 留心を思い出し、痛みをしのいだ。留心の面影が心をかすめると気分が穏やかになるのは、いつもの事である。


(留心。楽しかったか? 焔氏を殺った。楽しかったよな。でも不思議だ。殺るのは楽しいが――――)


 互いにかばい合いながら獣の軍団を突っ切ろうとする加奈たちを見やり、烏流の口元がゆるむ。


(守るのも楽しいぜ)


 烏流の体から最後のカラスが飛び立ち、加奈たちを囲む群れに加わった。振り返った加奈の目に、烏流は微笑んでいるように見えた。


 鰐が何度目かに顎を地面に打ちつけた時、烏流の体がぐしゃりと折れる。鰐の強靭なあごに噛み砕かれたかのように、腕が折れ腰が潰れ、烏流の体は閉じられた口の中に消えた。


「う……りゅ……。烏流――――っっ!!」


 加奈の咽喉から叫び声がほとばしる。狼と熊が鰐の頑強な口に噛みつき、緑青が「嘘だろ……」とつぶやきながら飛び出し、長い下顎を切り上げた。


「この野郎、烏流を返せ! 烏流、出て来い! そいつから出て来い!」

「みんな死んでしまえばいい……」


 獰猛な金色の眼を光らせて立ち上がった鰐の、低い声が響き渡る。うろこに覆われた躯体がぼやけ細切れになり、次第に黒い靄へと戻っていく。周囲の獣たちが集まって巨大な靄の塊を作り、中心で丸い光が輝いたかと思うと、瞬時に消え去った。


 獣は、すべて消えた。後に残ったのは負傷したタリム兵だけである。彼らはちりぢりになって逃げ出し、加奈は烏流の姿を探した。地面に焔氏の衣服が捨てられている。獣に喰い尽くされ、骨すら残っていない。


「……烏流は? 守礼、烏流はどうなったの?」

「わかりません。獣に喰われた者は、この世界から消えると言われていますが、確かなことは判りません。ただ、喰われて戻って来た者は一人もいません」

「烏流は死んでしまった」


 タルモイが辛そうに言い、キクリが悲痛な声を絞り出す。


「あたしらを助けるために……」

「あいつが死ぬわけないだろ」


 緑青が怒った声音で言い、唇を震わせた。加奈は烏流が消えた地面に手をつき、何か手がかりはないかと探した。緑青の言う通りだ。烏流が死ぬわけない。これは何かの間違いよ。


「獣やタリム兵が戻って来ないうちに、とにかく急がないか?」


 住人の一人が言い、加奈の体がこわばる。そんな――――。この場を離れたくなかった。そんな事をすれば、永遠に烏流に会えなくなるような気がする。


「急いだ方がいいと私も思います。獣が態勢を立て直して襲ってくるかもしれない。焔氏を失い、命令する者のいなくなった獣がどう出るのか、予測できません」


 おびただしい数のカラスが舞い降り、加奈を覆った。戻るべき場所――烏流の体を探すかのように、カラスは烏流の外套をつつく。加奈が立ち上がると黒い群れは一斉に飛び上がり、上空を行き交いながら空しく鳴いて主を呼んだ。


「ごめんね……」


 誰にともなく呟く加奈の頬に、涙がつたい落ちた。




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