7 戦士の死に場所 ④
タルモイたちの話し合いが終わるのを、加奈たちは部屋の外で待った。灯りは首に掛けたヒカリゴケだけで、金緑の淡い光が闇に包まれた洞窟を照らしている。
「シギの人は、神様を心から信じてるのね」
加奈が言うと、守礼のささやきが返って来た。
「人の力の及ばない領域に神はおられます。天体の動き、巡り来る季節、誕生と死など。世界の大半は神の領域で、人の領域はごく僅かなのかもしれませんね」
「僕の家では先祖を神として祀ったり、山猫を守護神として崇めていたよ。ということは、僕は神になったんだ」
緑青が胸を張ると、烏流の口角がぴくっと震える。
「神にも下っ端がいるんだな。俺は神なんか信じてないけどな」
「獣も神なんでしょうか」
「神殿の秘儀を口外することは禁じられていますが……。獣とは、一言で言うと人の悪しき思念です。大地は、人が残した悪意に満ちています」
「悪意……」
王宮地下にいた男を思い出し、加奈は首をかしげた。悪意はふわふわした黒い衣服のようなものだと思ったけど……。
「生者死者を問わず、人は常に思念を放出しています。良い思念は軽く、悪い思念ほど重くなる。軽い思念は空に上がり、重い思念は大地や大河に沈みます。恨み、憎悪、怒り――――俗に悪意と呼ばれる悪しき思念は、人の介入が無ければ、時間をかけて消え行くものです」
「介入した結果が、獣杯か」
烏流が眉をひそめ、守礼は視線を落とした。
「シギ族が大陸の西に住んでいた時代、神官は呪術を駆使し国家を維持しました。人の思念は膨大な力を有し、大地には捨てられた悪意が無尽蔵に眠っています。最初に悪意を集めたのが誰なのか、定かではありません。集められた悪意は杯に封じられ、様々な形、さまざまな場で呪詛の道具として使われました。その一つが獣杯です。思念は色々な姿をとるものですが、獣杯に封じられた悪しき思念は、神官の力で獣の姿に変えられたと伝えられています。シギから東に向け船出する際、初代姫神さまは、悪意を封じた杯の中で最も強力と言われた獣杯を持ち出されたのです。民を守るために」
「悪意をどうやって集めるの?」
加奈には、想像もつかなかった。見ることも触れることも出来ないものを、どうやって集めるのだろう。
「言葉で説明するのは難しいのですが……。思念をもって思念を集め、膨大な力を取り出し、使う。すべての方法は『記憶の鏡』に記されています。しかし故国を出た後、悪意を集めることのできた神官はいません。思念を集めるには高度な能力が必要で、残念ながら高い能力を持つ神官は、故国の滅亡と共に滅びてしまったようです」
「あなたにも出来ないの?」
「力が及びません」
「蛇眼はできるのでしょう? そう聞いたけど」
「そのようですね。悪しき思念を集め獣に変える術がタリムにもあるようですが、シギと同じ方法なのかどうか、知る機会はありませんでした」
「おまえは、獣杯から獣を呼び出したんだよな?」
緑青が言い、守礼は目を上げた。
「そうです……」
「どうして」
「……血迷ったのですよ」
答える守礼の睫毛が、微かに震えている。加奈は、空気がぴりぴりし始めた緑青と守礼の間に割って入った。
「今はやめようよ。いつかきっと話してくれるよね、守礼?」
守礼の答は、族長の部屋で湧き起こったどよめきに掻き消された。「やってやるぜ!」「おう!」と勇ましい声が轟き、人々が続々と出て来る。キクリが加奈の前に立ち、気弱な笑みを浮かべた。
「みんな、アシブに移ることになった。これから準備するから、もう少し待ってて」
「全員で俺の足手まといになるわけか。ここに残って何もするなと言ったのに、耳まで悪いのか」
烏流の悪態を聞き流し、キクリは闇の奥へと消えて行く。やっぱり様子が変だと、加奈はキクリが気になった。
「万一のために、ゴミ捨て場に武器を隠しておいたんだ」
「ゴミ同然の代物だが、何かの役に立つだろう」
住人たちの言葉に笑顔を向けながら、加奈の視線はキクリが消えた先へと向かう。守礼が、耳元でささやいた。
「キクリと話してみますか? おそらく磐境にいると思いますが」
「磐境って?」
「あなたが獣杯を見つけた場所ですよ」
「どうしてキクリがそこにいると分かるの?」
加奈が驚きの目を向けると、彼の藍色の瞳が悪戯っぽく瞬く。
「事実を組み合わせて導き出した、単なる推測です。間違っているかもしれませんが。行ってみますか?」
「はい」
守礼の後について、加奈は洞窟の奥へと向かった。危なそうな場所に来ると、彼が彼女の手を引く。闇の中に丸い天井が見え、加奈は獣杯を見つけた洞窟へと入って行った。
暗闇の中にぽつんと浮かぶ、金緑の光。ギルと呼ばれる案山子の中央で、キクリが膝を抱えて座っている。加奈が近づくと、キクリはあきらめたように顔を上げた。
「ごめんなさい。いつものキクリらしくない気がして、どうしたのかなって。……あ、いつもなんて言い方、変よね。この前会ったばかりなのにね」
心配そうにのぞき込む加奈にキクリは苦笑を返し、隣に座るよう促した。
「私は、出発の準備を手伝って来ます。加奈さんを頼みます」
「……ああ、わかった」
立ち去る守礼の後ろ姿を見つめ、キクリの視線が加奈の生真面目な顔に移る。褐色の美少女は、八重歯を見せて笑った。
「ちょっと気弱になっただけで、いつものあたしだよ。そういう時があっても、おかしくないだろ?」
「うん。全然」
加奈はキクリの隣に腰をおろし、獣杯があった場所を見やる。
「不思議よね。こんな岩場のどこに獣杯が隠されてたのかな」
「小さい頃、爺ちゃんに連れられてここに来たことがあるんだ。神官が物を消したり、岩から物を取り出したりしてたよ。磐境は、異界への入り口だと言われてる。でも結界を張ったり異界への扉を開くことの出来る神官は、もういない。磐境が使われることは、二度とないんだろうな」
「シギの神官ってすごいのね。異界……ってどこ?」
「さあ。そこまでは教えて貰えなかった。秘儀中の秘儀なんだって」
キクリは肩をすくめ、加奈は獣杯が現れた場所を撫でた。ごく普通の滑らかな岩で、どこにも不思議な点は見当たらない。
「獣杯があったのはそこじゃなくて、こっちだよ。印が付いてるだろ?」
キクリが指さしたのは加奈が撫でていた場所のすぐ横で、岩に薄く十字の形が刻まれている。
「印を付けたのね。ここから獣杯が現れましたって印?」
「違う。……獣杯を置いた印だ」
置いた印……? 置いた……? 加奈が視線を向けると、キクリは苦しそうに顔をそむけた。
「置いたって、どういう意味?」
「……そのままの意味だよ。獣杯を置いた。……あたしが」
キクリの言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。キクリが獣杯をここに隠した――――獣やタリム族に渡さないために?
「どうして。……あなたが?」
「……灰悠に頼まれたんだ。敵の手に渡らないよう磐境に隠してくれって。獣杯を守ってくれって。灰悠の最期の頼みだったのに……あたしは獣杯を守りきれなかった」
キクリの言葉が途切れ、ヒカリゴケに照らされた彼女の目に涙が光る。龍宮に獣杯を隠したのは灰悠ではなく、キクリ――――。加奈は初めて龍宮に来た時、キクリが獣杯探しに反対したことを思い出した。あれは獣杯を守るため、灰悠の最期の頼みを聞き届けるためだった。
「守りきったじゃない。シギを建て直そうとみんなが動き出したこの時まで、あなたは獣杯を守りきったじゃない」
「灰悠がいつまで守れと言ったのか、永遠にと言ったのか好機が訪れるまでと言ったのか、あたしには判らない。ただあいつは、二度と人が獣に喰い殺されることのないようにと望んでいたと思う。だってあいつは……だのにあたしは……獣杯を使って焔氏と戦いたいと思ってる。獣杯を守りきれなかったばかりか、獣杯を使いたいと望んでる。灰悠に対する二重の裏切りだ」
「そんな……。灰悠さんは、どうして自分の手で獣杯を隠さなかったの?」
「できなかったんだよ。獣が放たれて、シギ族もアシブを包囲していたタリム族も大混乱で、みんな獣に喰われてた。あたしはその時神殿にいて、逃げる途中で灰悠にばったり会ったんだ。あいつは、馬で龍宮まで行こうとしてた。でも獣に囲まれて……獣は自分が引きつけるから、獣杯を持って龍宮に行ってくれって……」
キクリの両目から涙がつたい落ち、加奈は声を失くした。
「獣は灰悠が持っていた『記憶の鏡』に引き寄せられたみたいで、それに他の住人を襲うことに忙しくて、馬でアシブから飛び出したあたしを追う獣はいなかった。一度だけ振り返った時、灰悠が見えたんだ。獣に寄ってたかって食いつかれて、あいつは倒れて……最後に見たあいつの姿が死にゆく姿だなんて……」
肩を震わせてすすり泣くキクリに掛ける言葉もなく、加奈は唇を噛んだ。灰悠とキクリが命を賭けて守ろうとした獣杯を、わたしは簡単に取り出してしまった……。
(でも、もう取り返しがつかない)
わたしのせいで獣杯は現れてしまい、隠すこともできない。後悔したって遅い。後悔する余裕すらない。焔氏は、獣杯を手に入れようと襲って来るだろう。戦いながら前に進むしかない。
「獣杯を取り出してしまって、責任を感じてます。でも間違いだった、失敗だったとは思いたくないの。わたしがこの世界に来たのも獣杯を取り出したのも、そうする必要があったからだと思いたいの。責任逃れをするつもりはないんだけど……そう聞こえるかもしれないけど……違うの」
「わかってるよ」
キクリは泣きながら笑い、涙をぬぐった。
「あんたを責めるつもりはないよ。……そうだね、後悔するのも自分を責めるのも後回しにしよう。あたしは、死んだ人の無念を晴らしたい。灰悠もシギ族のみんなも、無駄に命を落としたんじゃない。あれは、意味ある死だったと思いたい。生き残ったあたしらが、新しいシギを作る。死んだ人たちには生まれ変わってもらい、新しいシギを受け継いでもらう。受け継ぐ若い命が必要だから、灰悠たちは死んだんだ。自分を犠牲にして受け継ぐ側に回ってくれたんだから、あたしらも自分を犠牲にする覚悟で新しいシギを作らなきゃね。命に代えても」
「灰悠なら、キクリに賛成するんじゃないかな。灰悠って何となく大柄で勇敢な戦士を想像するんだけど、キクリと一緒に戦いたいって言いそう」
「大柄で勇敢は合ってるよ。惚れ惚れするような、いい男だった。人望があって、未来の族長とも言われてたな」
惚れ惚れするような……いい男? キクリはもしかして灰悠のことを……。加奈は目をぱちくりさせ、涙に濡れたキクリの横顔を見つめた。