7 戦士の死に場所 ③
風が強くなった。
ちぎれ雲が藍色の空を流れ、満月にからみつく。薄暗くなった山道を、加奈は狼に乗って駆け抜けた。烏流は黒い翼をはためかせて空を行き、地響きを立てて驀進する熊に緑青が乗っている。
「守礼。重くない? 疲れたら言ってね」
狼のたてがみを必死につかむ加奈に、「大丈夫ですよ」と守礼の声が返って来る。
(話せるんだ……)
加奈は、目をぱちくりさせた。狼に変化しても彼は言葉が話せる。なぜ狼が自分であることを黙っていたんだろう。焔氏に隠れて獣杯を探すため? 守礼は、最初から焔氏を倒すつもりだったんだろうか。焔氏の弱点を知るために、忠実な家来の振りをしていたとか?
烏流の言葉が、嫌な感覚を伴って加奈の脳裏をよぎる。守礼はおまえが思っている以上に腹黒いぜ――――。
速度をゆるめた狼に、熊が猛烈な速さで追いついて来た。青ざめた緑青が熊の首にしがみつき、馬に乗ったサーカスの子ザルみたいだなと、加奈はふっと笑う。緑青は龍宮入り口で熊から転げ落ち、痛そうに腰に手を当て立ち上がりながら、守礼に噛みついた。
「おまえさ、何で裸じゃないんだよ。服を着たまま獣から人の姿に戻るなんて、おかしいだろ」
「おかしいのは、おまえだ。よっぽど裸が好きなんだな」
烏流が笑いをこらえて言うと、緑青の女の子めいた可愛い顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「加奈の寝床にもぐり込んだせいかなあ。加奈の温もりが直接肌に伝わってきて、服なんかいらないって思ったからさ」
「何だと……」
烏流の形相が瞬時に険悪になり、加奈はぎょっとした。
「緑青、誤解を招くような言い方はしないで」
「本当のことだろ? 僕は毎晩、裸で加奈の寝床にいたよ?」
「そうなんですか?」
守礼が片眉を上げて加奈を見、彼女は全力で首を横に振る。
「違う……」
「そういう関係なのか。俺の獲物に手を出すとは、緑青……」
烏流は長い爪を伸ばし、カチカチ鳴らしながら殺意をこめて緑青に歩み寄る。
「……殺す」
「やめて。わたしは手を出されてないし、獲物じゃありません」
「往生際が悪いな。おまえは、俺に殺されることになっている」
「なってませんっ」
握った拳を上下に振り、加奈は烏流に向き直った。
「野原に血をまき散らさない、他の男の人に殺させない。あなたと約束したのは、2つだけよ」
「加奈は、僕が守る。そして御褒美に寝床に入れてもらって、ぬくぬくするんだ」
「やっぱり殺す……」
「猫じゃないんだから、ぬくぬくは無し!」
加奈の必死な声を聞き流し、緑青は地面に向かってふっと息を吹きかけた。黒い靄と同時に体高1m程ありそうな黒猫が現れ、歯を剥き出して烏流を威嚇する。
「どうだ! あっという間にここまで育てた僕の天才ぶり。これで烏流と対等に闘える」
「どうかな」
烏流の眼がきらりと光り、尖った爪で猫の臀部をぐさりと突き刺した。猫は「みゃっ!」と一声鳴くと、風船のようにみるみる萎んでいく。黒い靄の合間に座っていたのは、掌に乗りそうな小さな子猫である。
「ああっ……僕の猫がっ。苦心して育てたのに……」
「育てた? ふくらませただけじゃねーか。中はからっぽ。あーあ、戦意が失せた」
烏流がつまらなそうに言い、守礼がこほんと咳払いして空を指さした。
「先を急ぎませんか? 鷲が集まって来ましたよ」
暗い夜空を鷲が十数羽、星明りに照らされ旋回している。加奈の胸ポケットが翠色に光り、烏流の後ろにいた熊が消えた。布越しに翡翠に触れ、加奈は息をつく。熊は、きっとまた助けてくれる。……食事時に。
鍾乳洞から住人たちが走り出て加奈たちを囲み、笑顔で無事を喜んだ。笑顔を返す加奈に、キクリが飛びついて来る。
「無事だったんだな、加奈。よかった」
「あなたも。罰を受けたりしなかった?」
「全然」
キクリは烏流と守礼を見やり、顔を曇らせた。これまでのいきさつをキクリに話しながら、ヒカリゴケの淡い光に導かれ、乳白色に煌めく世界へと進む。
族長の部屋に、龍宮の住人全員が集まった。大半は男性で、5人の女性が一かたまりになって部屋の隅で座っている。
キクリに語った話をタルモイの前で再度話しているうちに、空気がひやりと冷たくなっていく。集まった30人ほどの住人たちは、顔を見合わせ目だけで会話を交わした。困惑した表情。気詰まりな沈黙。真っ暗闇の中でヒカリゴケが幻想的に光り、天井から流れ込む微かな風を受けて、さわさわと音を立てる。
「守礼と烏流を信頼していいものかどうか。蓮婆が獣杯から獣を呼び出すというが、本当にできるのか。焔氏に勝てる可能性はどの程度あるのか。このあたりのことを皆は心配している」
タルモイが住人の思いを代弁し、自嘲するように首を振った。
「何が起きようと、今以上に悪くなるとは思えんが」
「そうでもない。焔氏を怒らせ、骨に閉じ込められるような事になったら……」
住人の一人が怖ろしそうに言い、緑青が言葉を挟む。
「獣杯から獣を呼び出せるのは蓮婆だけ? ……守礼は?」
「蓮婆にせよ私にせよ、獣杯を使うには『記憶の鏡』が必要です。今のアシブに戦士はいませんから、我々が獣杯をアシブまで運ばなければなりません」
「呼び出した獣を戻せるか?」
タルモイの問いかけに、守礼はうなずいた。
「一定量ならば」
「一定量とは?」
「正確な数値は判りません。あまりに大量の獣を呼び出すと、手に負えなくなる怖れがあるという意味です」
「曖昧だな」
タルモイは顔をしかめ、隣に座っていたキクリが重い口を開く。
「これは、神が与え給うた試練かもしれないな……。あれほど探して見つからなかった獣杯が現れ、シギを変える絶好の機会が訪れた。この機会を生かせるかどうか、あたしらは神に試されてるのかもしれない」
「誘惑かもしれんではないか。この誘惑に耐え、辛抱を続けることを神は望んでおられるのかもしれんぞ」
住人の一人が言い、別の住人が声を荒げた。
「これ以上、どう耐えろと言うのだ。俺は戦いたい。この機会にすべてを賭け、戦いたい」
「賛成だ。焔氏に一泡吹かせてやろう」
「失敗したらどうなる? 俺たちは、人ではなくなるんだぞ。獣杯など見つからなければよかったのだ」
住人に睨まれ、加奈は口をきゅっとすぼめた。
住人たちの恐怖心は、彼女にも理解できる。また間違った選択をしてしまったんじゃないか。最悪の結末に向かって進んでいるんじゃないか。彼女自身の恐怖心が蘇り、何も言えなくなってしまった。
それでも心の中で、別の何かが告げていた。守礼は信頼できる。烏流は信頼できる。このまま行け、まっすぐ進め――――。
「神は、無駄なことはなさらない。与えた機会をあたしらがどう生かすか、見たいと思っておられる。逃げ腰になって、黙って見ているだけの人間を神が望まれるとは思えない。でも……この件に関しては皆に従うつもりだ」
最後の言葉を力なく締めくくり、キクリはうなだれた。加奈の目に、彼女はいつもより元気がないように見えた。何か悩み事があるんだろうか……。戸惑う加奈の右隣で、烏流が声をあげる。
「俺は、獣杯をアシブへ持って行く。おまえらは何もしなくていい。いや、何もするな。俺の邪魔になる」
「獣杯を隠していたことが知れたら、焔氏はわしらを罰するだろう。わしらの選択肢は2つ。おまえ達と共にここを出るか、獣杯を砕きすべてを無かったことにするかだ」
淡々と告げるタルモイに、烏流はきつい目を向けた。
「獣杯を砕いたら、俺がおまえらを殺してやる」
「殺す話はやめて」
加奈はたしなめ、烏流の凄みのある顔にひるんだ。加奈の左隣に座っていた緑青が、皆の説得を試みる。
「いままで通りの暮らしを続けたって、いつ焔氏にひどい目に合わされるか分からないんだろ? 焔氏の気まぐれで、いつ骨に閉じ込められるかもしれないし、また火刑にされるかもしれない。びくびくしながら暮らすより、思い切って勝負してみようよ。僕は、焔氏に勝てると思ってるよ」
「何を根拠に」
住人の問いに、守礼が静かに答えた。
「獣杯を探すという約束で、焔氏は蓮婆に『記憶の鏡』を貸し与えました。蓮婆は獣杯を探しつつ、獣を呼び出す術を学んだ。獣杯から獣を呼び出すことも、一定量の獣がいれば焔氏の獣を圧倒できることも、呼び出した獣を消し去る術も、私が保証します。あなた方はここに残ってもいいが、それより一緒に戦いませんか。シギのために」
「裏切り者が何を言う」
「守礼は、わたし達の仲間です。悪く言うのは、やめてください」
「加奈、それはまだ……」
守礼をかばう加奈に緑青は溜め息を向け、守礼が感謝するように微笑を送る。
「獣杯を俺に渡せ。俺がアシブへ持って行く。おまえらはここに残れ」
「獣杯をアシブに運ぶなら、わしらも一緒に行くしかない。ここに残れば焔氏に捕えられ、骨に閉じ込められる。ここに残りたいなら、さっき族長が言ったように獣杯を砕き、何もかも無かったことにするしかない」
住人の一人が噛みしめるように言い、烏流は怒声を浴びせた。
「獣杯を砕くのは許さないと言っただろう。少しは俺の話を聞け」
「すまんが、わしらだけで話し合わせてくれ。ここを出るとしたら急がねばならん。時間はとらせない」
タルモイの言葉に加奈たちは立ち上がり、激怒した烏流を促しながら部屋を出た。場は龍宮の住人たちだけとなり、静寂が降りる。タルモイが苦渋の表情で、言葉を絞り出した。
「前族長は、確固たる信念を持った人物だった。公然と焔氏に立ち向かい、骨に閉じ込められた。わしは一介の薬師にすぎん。逃げるつもりはないが、皆の行く末を決めることは、わしにはできん。行く末は、おのおので決めてくれ。一人でもここに残る者がいれば、わしも残る。アシブに行く者は、緑青たちが守ってくれるだろう。残った者は、わしが全力で守る。この程度しか決められんわしを、どうか許してくれ」
タルモイが頭を下げると、住人たちは困惑の表情で顔を見合わせた。キクリが、祖父の手を握る。
「爺ちゃんが残るなら、あたしも残る」
「駄目だ。わしのためでなくシギのため、自分に何ができるかを考えて決めてくれ。それが、わしのためになる。……頼り甲斐のない爺ちゃんですまん、キクリ」
キクリは涙ぐんで首を振り、住人の一人が厳かに言う。
「ここにいる誰一人として獣杯を焔氏に渡そうとしなかったことを、わしは誇りに思う。その時点で、進むべき道は決まった。今、我々にできることは二つ。大人しく骨に閉じ込められるか、戦うかだ。どうだろう、腹をくくって皆で剣を取り、シギ族の意地を見せてやろうではないか」
「しかし……」
「俺たちがいつまでもタリムに従っていると思ったら、大間違いだ。骨の中というのも、案外暮らしやすいかもしれんし」
「馬鹿言え。焔氏を倒し、新しい国を造るんだ」
「久しぶりに、ひと暴れしてやるか」
焼け爛れた笑顔を向け合う人々の間で、反対意見は影をひそめていった。「残る者は?」とタルモイが尋ねた時、女性を含め、手を上げる者は一人もいなかった。




