1 夜、川を渡る ③
加奈が祖母の屋敷に住むようになり、ひと月が経った。
高校からの帰り道。バスを降り、家に向かう坂をのぼる頃には夕焼けが西の空を染め、家々の軒下や藪に宵闇が落ちる。
何気なく桧の林を振り返り、彼女の足が止まった。いた――――あの幽霊。薄暗い木陰でほんのり輝きながら、姫君が立っている。
風もないのに白い巻き衣がなびき、赤だと思っていた薄絹は朱色である。冠についた金の飾りが、カラカラと音を立てて揺れている。幽霊は手招きし、彼女の先に立って歩き出した。
(ついて来てと言ってるの?)
彼女は躊躇した。ついて行ったらどうなるんだろう。恐怖心がお腹の底からせり上がり、胃のあたりが苦しくなる。
動こうとしない彼女を見て少女は悲しい顔をし、加奈は覚悟を決めた。幽霊が何をして貰いたがっているのか、行けばわかるかも。そう思い、少女の後を歩く。
夕暮れの道は行き交う人もなく、ふわふわ舞うように歩く少女は朱色の薄絹をちらめかせ、まっすぐ舟石様の祠に向かった。
村はずれから桧の大木の間を抜けるように小道が続き、何度も掃除に訪れた木祠につながっている。
少女は祠の扉を指さして消え、加奈はいよいよ追い詰められた。開けたら最後、とり殺されるかもしれない。
扉を見つめ、幽霊の無念の理由が判るかもしれないと取っ手に手をかけたものの、そのまま立ち往生した。
やっぱり無理だ。どんなに人助けだと思っても、怖いものは怖い。
ふと脳裏に両親の顔が浮かび、パパとママは今頃どうしているだろうと思う。両親の死以来、絶えず彼女の心を訪れた思いが蘇る。
死は、すぐそばにある。いつ訪れるか分からない日常的な現象だ。すべての人間は常に死と背中合わせで暮らしているのに、誰も気に留めない空気のようなものだ。
死んだ後、人はどうなるのだろう。あの少女のように幽霊になるんだろうか。あの世はあるのだろうか。天国や地獄のような場所だろうか。パパとママは、どこでどうやって暮らしているんだろう。
いきなり死を迎えたら、思いが残っても不思議じゃない。もしかしたら両親は、あの少女のように彷徨っているかもしれない。「いい話」って何だったんだろう。両親も自分のように「いい話」が気になり、伝えられなかったことを悔やんでいるかもしれない。
幽霊の少女は、なぜ扉を指さしたんだろう。もしかすると――――もしかすると自分と両親の思いを汲み取り、引き合せようとしてくれているのでは。
目の前の観音扉を開けたら両親に会えるかもしれない。扉の向こうに両親が立っているかもしれない。そんな希望を持つと扉は怖ろしいものではなくなり、誘惑の塊となった。
扉の向こうに何があるのだろう。もしかしたら――――もしかしたら。期待と希望に背中を押され、彼女は静かに取っ手を引いた。
ぎしぎしと錆びた音を立てながら扉は大きく開かれ、中は夕焼けの光を浴びても仄暗い。誰かいる――――。
闇に目を凝らし、舟石に腰かけていた誰かが立ち上がる気配を感じた。黒い影がゆっくり近づいて来るのに、体が竦んで動かない。光の下に現れたのは、古めかしい衣裳に身を包んだ背の高い青年だった。
髪も目も黒っぽいけれど、光に照らされた部分が青く見える。優しい顔立ちは品が良く、悪人には見えない。青年は彼女の前まで来ると胸に右手を当て、深々と頭を下げた。
「守礼と申します」
深みのある声が耳に聞こえるというより、頭に響く。加奈は目をぱちくりさせ、青年の切れ長の美しい目を見つめた。
「中にお入りになりませんか。私はどうやら、ここから先には行けないようです」
祠から出られないという意味だろうか。戸惑う彼女に守礼は澄んだ目を向け、唇を開く。
「どなたかに会いたいのではありませんか。その方は死者なのでは? わたしは死後の川を巡り、死者と死者を引き合せる事をなりわいとしています。普段は生者に会うことはないのですが、あなたの強い思いに引かれ、ここまでやって来たのです」
「強い思い……ですか」
加奈は、魅せられたように守礼の神秘的な姿に見入った。死後の川を巡っているという言葉がすんなり受け入れられるほど、彼の姿は神々しく幻想的で、唇が不思議な動きをする。
日本語の動きとは違うのに、日本語が聞こえるように感じられる。加奈は彼の唇を見つめ、首を振った。今はそんなことよりも――――。
「……両親に会えますか?」
扉の向こうは、やぱりパパとママに至る道だった。そんな思いを強くし期待を込めて尋ねると、彼は優しく微笑んだ。
「御案内します。あなたを、御両親様のもとへ」
「本当に? あの、わたしの両親は亡くなってるんですけど……」
守礼は僅かに首をかしげ、藍色の目で彼女を見つめた。
彼の大人びた雰囲気を前にすると、自分が子供っぽく思えて来る。彼は死者に会わせる仕事をしていると言ったのに、わたしときたら、彼に同じことを何度言わせるつもりなんだろう。
「すみません。……夢を見ているみたいで。状況がうまく頭に入って来なくて」
「そうでしょうね。こういう事に慣れている人はいません。あなたが戸惑うのも無理ありませんよ。人は、死んだら終わりではないのです。死んだ後の方が長い。それについてはシギの国で、御両親様からお聞きになった方が納得できると思いますが」
「シギ?」
「川向こうにある国です。シギに行けば、御両親様に会えますよ。それほど遠くはありません。そう、御両親様に会い、戻って来るまで一晩あれば充分でしょう」
一晩だけ……。それなら祖母に心配をかけることもない。でも……どうしよう。
「あのお姫様も、シギの国の方なんですか?」
怪訝そうな守礼の顔を見て、彼女は幽霊の少女について話した。翡翠を受け取ったことも。少女がここまで連れて来たのだから、守礼と少女は知り合いだろうと考えたのである。
「そのような方は存じ上げませんが」
守礼が静かに答える。彼の目に一瞬だけ動揺が走ったように見えたのは、見間違いだったのかと加奈は首を捻った。
「私たちを引き合せてくれたのですから、その方に礼を言わねばなりませんね。いずれそうするつもりですが、その前にあなたの返事を頂きたい。御両親様に会いに行かれますか、それとも伝言だけお伝えしましょうか」
会いたい――――。せつないほどの思いが溢れ出て、彼女の迷いを消した。今会わなければ、永遠に会えない。こんな機会が巡って来るなんて、わたしは幸運だとすら思う。
「一緒に行きます。夜まで待って頂けますか? 祖母が寝てしまってからでもいいですか?」
「もちろんですよ。ここでお待ちしています。ああ、そうだ。翡翠をシギの王にお見せになっては如何でしょう。王は物知りですから、その姫君について何か知っているかもしれません」
守礼は再び胸に手を当て、深く頭を垂れた。顔を上げた彼は微笑み、加奈の胸にほっとした温もりが宿る。この人は信頼できる――――。根拠はないけれど、そんな気がした。
もしも帰りが遅くなったら着替える時間はないかも知れないと思い、彼女は高校の制服を着て夜の祠に向かった。守礼は夕刻会った時と同様に、舟石に腰かけて待っていた。
「手を出してください」
そう言われ差し出した手を守礼が軽く握り、その手の温もりに驚く。両親の所へ連れて行ってくれるのだから彼は死者だろう、手は冷たいだろうと勝手に想像していたのである。
守礼に手を引かれ一歩前に出ると、景色ががらりと変わった。薄暗い祠の中にいたはずなのに、目の前にあるのは大河だ。砂地の岸に一艘の小舟が置かれ、中央に立つ柱に吊り下げられたランプが、夜空を背景に輝いている。
「いい香りがしますね」
彼の手を借りて舟に乗り込み、加奈は大きく息を吸った。爽やかな木の香りが漂っている。
「舟は、杉の木でできています。心が落ち着く香りでしょう?」
「はい」
加奈はにっこり微笑み、守礼の操る舟に揺られ、見知らぬシギの国に向かった。
狐のシーザーと黒猫のココア。寂しい心を暖めてくれた2匹の奇妙な動物霊が追いかけて来る姿を見て、加奈の目の奥が熱くなる。
守礼に動物霊は乗せられないと言われ、そういう決まりなら仕方がないけれど、2匹が無事に戻れますようにと心の中で祈った。
帆のない小舟は風に吹かれ、音も振動もなく、流れるように大河の中州に到着した。河岸を覆う白灰色の靄の向こうに、切り立った崖が見える。
守礼に手を取られ舟から降りた加奈を、5人の男たちが取り囲んだ。
まとう衣服も雰囲気も、守礼とは違う。大きな一枚布を体に巻きつけ腹部で結び、古びた革の兜をかぶり腰に剣を吊るし、粗野で乱暴そうな気配がある。
肌は浅黒く彫りの深い顔立ちで、日本人に似た守礼とは種族が違うように見える。男たちの一人が前に出て、加奈の頭のてっぺんから足先まで無遠慮に眺めた。
「新しい骨のしもべか。焔氏様が、さぞお喜びになることだろう」
「骨のしもべ……?」
悪い予感がぞくりと背筋を這い上がり、加奈は守礼に向き直った。
「わたしの両親は、どちらに?」
「お亡くなりになったのでしたら、おそらく死者の国におられるでしょう。ここにはおられません」
「いない……? でも、両親に会わせると……あなたは……」
「嘘をついたのです。焔氏様が、新しいしもべを御所望でしたから」
悪い予感は実感となり、悪寒と吐き気を伴って彼女を攻め立てた。騙されたの――――? そんな、まさか。守礼が優美な顔つきで、静かに言う。
「申し遅れました。私はシギ国の王、焔氏様の忠実な家来にして、焔氏様の下僕探しを職務とする者。生者であれ死者であれ、簡単にさらえる者をこの国に連れて来るのが仕事です」
「さらう……」
簡単にさらわれてしまったのだ。両親の話を鵜呑みにして。どうして守礼を信用してしまったのだろう。自分の馬鹿さ加減に茫然としながら、乗って来た小舟に視線を馳せた。
舟は、男たちの手で岸に引き上げられている。彼らは兵士のような風情で獰猛そうで、走って逃げてもすぐに追いつかれそうだ。第一、どこに逃げればいいのだろう。白い靄が濃く立ち込め、辺りには岸辺と崖しか見当たらない。
守礼が戻れませんよと言いたげに首を横に降り、川岸に目を向けた。白い靄の合間から、男たちに引っ立てられるように2人の全裸の若者が現れ、加奈は目を丸めて顔をそむけた。
「だ、か、ら、先に服をよこせ。話は後だ」
声だけが彼女の耳に飛び込んで来る。1人は金髪もう1人は黒髪に見えたけれど、確かめる気にならない。
「その2人を牢に放り込んでおけ」
守礼が冷たく言い、加奈の背中を軽く押した。
「おい、俺の憑代をどこへ連れて行く気だ」
「こいつら、タリム族だろう。おまえ、いつから裏切り者になったんだ」
若者たちの言葉に耳を傾ける気配もなく、守礼は加奈に歩くよう促した。