7 戦士の死に場所 ①
王宮に併設された兵舎は、もとは馬房だった場所である。馬がいなくなった今、気軽に立ち寄れる憩いの場として兵士たちに重宝されていた。
いくつかの椅子と茶台が置かれ、壁際には武器を修理する道具の数々。板塀のすきまから月光が差し込み、舞い上がった埃がきらきら光る中で兵士たちが談笑している。銅片をつないだ鎖帷子を手にとり、黄櫨はうむむむと声を立てずに唸った。
加奈たちを追う部隊を任された牙羅が、出発しようとしている。自分も同行し、加奈たちに剣を向けることになるのか。眉根を寄せる黄櫨に牙羅が歩み寄った。
「老亥の所へ行け。話は通してある」
「は……」
老亥は、皇氏の元側近の中で最高齢の実力者である。加奈たちを捕縛する部隊からはずれ、別の実力者のもとに身を寄せろということか。願ってもない機会が突然訪れ、黄櫨は逆に身構えた。――これは、何かの罠か?
「俺は、裏切りは好まん。二度と俺の前に顔を出すな」
牙羅は、研ぎ澄まされた刃のような目で黄櫨を見た。険しく厳めしい顔にも、命令することに慣れた低く太い声にも、情けは微塵も感じられない。笑いさざめいていた兵士たちは口を閉ざし、興味深そうに成行きを見ている。
「……わかりました」
牙羅は出て行き、兵士たちが黄櫨をちらちら見ながら後を追う。殺風景な兵舎に一人残された黄櫨は、苦い思いを噛みしめた。
なぜ自分が牙羅に近づいたのか、牙羅には判っているのだろう。自分を老亥に預けるのは、シギ族を利用するのもシギの現状を変える一つの方法だと考えているからだ。消極的なやり方ではあるが、牙羅は自分に賛同してくれている。
それでも牙羅の言葉は、黄櫨の心を傷つけた。――二度と顔を出すな。裏切りは好まない。
味方を裏切れば蔑まれることは、分かっていたはずだ。謀略が、誇り高い戦士の生き方と相容れないことも。戦士の家に生まれ、清廉潔白であれと幼少の頃から教え込まれたことが、彼の傷口を広げた。
(俺は、卑怯な裏切り者になったのか……)
大きな手で両頬を叩き、今さら何を言っているのだと自分を叱った。大切なのは誇りではない。加奈を守ると約束したこと、そしてシギ。約束を守りシギを救えるなら、誇りなどいつでも捨ててやる。
(もう後戻りはできないぞ――――)
黄櫨は息を吸い、一気に吐き出した。
焔氏が目覚めた時、最初に目に入ったのは長椅子に腰かけた宝蘭だった。髪を結い上げ、宝玉で花をかたどった冠をかぶり、銀糸を織り込んだ青い衣と白い裳をまとっている。
「気がつかれましたか」
耳元で声がして、首を巡らせると宝蘭付きの若い女官が寝台のそばに立っていた。宝蘭が立ち上がり、裳裾を引きながら焔氏に歩み寄った。
「……ここで何をしている」
「あなた様の看護を。老亥どのに頼まれました」
「守礼を呼べ」
焔氏の冷たい言葉に、宝蘭の目が嘲笑うかのように瞬く。
「守礼はおりませぬ。生者の国の娘と共に逃げ、老亥どのがあなた様に代わり、牙羅を追っ手として差し向けました」
「守礼が、どこへ逃げたと言うのだ」
「龍宮方面に向かう姿を見た者がおりますが、確かなことはわかりませぬ」
「龍宮……」
なぜ守礼が龍宮に向かったのか、彼の脳裏でぴんと弾けるものがあった。――――獣杯。守礼は、勝算あって加奈の側についたのだろう。よくも裏切ったな……! 焔氏の顔が、怒りに歪んだ。
「私に触れるな」
起き上がる焔氏を助けようとした宝蘭の手が、ぴたりと止まる。彼は寝台に手をついて立ち上がり、立ちくらみを起こしよろめいた。とっさに支えた手を邪険に払いのけられ、宝蘭は唇を噛んだ。
「シギ族など重用するから今回のような騒動となったと言うに、まだそのような事を……。信じる相手を間違われますな、焔氏どの」
「おまえを信じることは永遠にない。はっきり言っておく。おまえを正妃にするつもりは、毛頭ない」
「私が生きた女だからか。焔氏どのは死んだ女がお好みじゃ。大陸におる時から」
「黙れ!」
焔氏のこめかみが引きつり、握った拳が震えている。彼の怒号にひるむことなく、宝蘭は勝ち誇ったように顎を上げた。
「生きた女は怖ろしいか? 死んだ女ならば安心して我が物とできるか。それゆえ火刑と称し、女を焼き殺すのであろう? 焔氏どのは死んだ女しか抱けぬ。まともな男でないおまえに嫁ぐ気など、とうに失せたわ。正妃など、こちらからお断りじゃ」
焔氏の拳が、宝蘭の顎をとらえた。殴られた彼女は壁際まで吹っ飛び、女官たちが金切声をあげる。焔氏はふらふらした足取りで廊下に出て、直立不動の姿勢をとる衛兵に命じた。
「部隊を招集せよ。私が直に反乱軍を叩く。裏切りは許さぬ」
焔氏の殺気立った気配に衛兵は青ざめ、命令を果たすべく慌てふためいて駆け出した。
「何だよ、あれ」
加奈たちは尾根に立ち、下方を見渡していた。山はそれほど高くなく、平地に広がる草原が真下に見える。月と星に煌めく草地を埋め尽くすように、黒い獣の群れがやって来る。獣はハイエナに似て、40匹から50匹ほどいるだろうか。8人の人間に率いられ、地面を嗅ぎ回りながらついて行く。
「東胡の獣だ。東胡がくたばった後、焔氏が牙羅に貸し与えたんだろう。……ほらよ」
烏流は外套に手を入れ、革帯の背中部分から銅剣を2本引っ張り出し、緑青に投げた。1本は長剣、もう1本は短剣である。
「いいのか? おまえのはあるのか?」
「俺は剣は使わない。俺の武器は、これだ」
顔の前に掲げた烏流の指先から、凄まじい速さで爪が伸びる。あっと言う間に1m近く伸びた爪を見上げ、加奈も緑青も呆気にとられた。触れると爪とは思えないほど硬く、叩くとカンカンと乾いた音がして、まるで金属である。
「自分の手で殺らないと、殺ってる実感がないからな」
陰惨な微笑を浮かべる烏流に、加奈はかける言葉もなかった。殺人は罪なのよ――――悠長にそんなことが言える世界でないことは、身にしみて知っている。殺さなければ、自分が死ぬ。生存をかけた闘いの世界である。
「ここにいろ。加奈を守ってやれ。俺は、おまえらを守らないからな」
素っ気なく言い、烏流は地面を蹴った。背中に黒い翼が生え出し、ゆっくりと羽ばたく。烏流が追っ手の部隊に向かって飛び、先頭を行く牙羅の正面に降りるなり兵士たちが剣を抜き、背後にいたハイエナが低く唸りながら近づいて来る。
「いつか殺したいと思ってたぜ」
烏流は両腕を横に広げ、月光に照り映える鋼色の爪をカチリと鳴らした。牙羅の顔に、嘲るような薄笑いが浮かぶ。
「増長するな、小僧」
「ごたくはいいから。とっととくたばれよ、おっさん」
空から雨あられの如く黒いカラスが降り、ハイエナの群れに突入する。
下から振り上げた烏流の爪は、牙羅の大剣に阻まれた。すかさず牙羅の顎を蹴り上げ、切りかかって来た兵士に爪を向ける。鋭い爪は抜身の剣のように兵士の胸を深々と切り裂き、絶叫が響き渡った。
「うおおお――っっ!」
6人の兵士が、一斉に剣を振りおろす。三つ編みの美少年はひらりと飛び上がるや、10本の爪を器用に操り、兵士を上から串刺しにした。目にも留まらぬ速さで鎖帷子を切り刻み、腹を貫き、指を曲げるように爪の先端を曲げ、内臓を引きずり出す。
「こうしておけば、しばらく動けないだろ。隆氏の犬だったおまえが、焔氏に媚を売るとはな。落ちたもんだ」
「勘違いするな。焔氏のために来たのではない」
「ほう? 誰のため?」
「黙れ」
胸や腹を切り裂かれ、のた打ち回る兵士たちを牙羅は冷ややかに一瞥し、首を右に左に傾け、ぽきっと骨を鳴らす。右手に戦斧、左手に大剣。わずかに口角を上げるや、烏流めがけ渾身の力をこめて戦斧を打ち下ろし、水平に剣を送り込んだ。
重なった5本の爪が戦斧を受け止め、残り5本の爪がことごとく切り落とされる。爪を弾き飛ばした大剣が脇腹深くまで埋まり、烏流は「ぐふっ」と呻きながら、牙羅の腹部を蹴り込んだ。戦斧を押し返し、瞬時に生え揃った新たな爪で牙羅の首を狙う。
凄惨な戦闘を尾根から見おろし、加奈は息を呑んだ。死闘を続ける烏流と牙羅の向こうで、カラスの大軍とハイエナの群れが喰い合っている。
「烏流……」
たった一人で闘う烏流。短剣を握る手に力をこめ、わたしも闘わなければと下方に視線を走らせ、下る道を探した。足手まといになるとか剣がうまく使えないとか、無理とか出来ないとか、そんなことを言ってる場合じゃない。
「鷲だ!」
上空に鷲の群れが現れ、カラスめがけて一斉に降下する。ここに来る途中で見た2羽の鷲のうち、1羽は焔氏への伝達のため、もう1羽は仲間を呼び寄せるために飛んでいたのだと加奈は悟った。
おびただしい数の鷲につつかれ爪で切り裂かれ、カラスが次々と地面に落ちていく。羽ばたきながら草地を逃げ回るカラスを、ハイエナが捕えて止めを刺す。
加奈の視界の端から、大きな熊が1頭飛び出した。見覚えのある熊は、両手を振り回してハイエナを薙ぎ倒し、肉に食いついた。
「わたし達も行きましょう! 仲間を助けなきゃ」
「そうしたいけど、回り道をしないと下りられない。烏流みたいに空を飛べたらなあ」
滑り降りられないかと崖をのぞき込む加奈の背後で、緑青が空を見上げ、「加奈!」と叫んだ。鷲が数羽、急降下して来る。
緑青は狙いすましたように、翼を広げた大鷲を長剣で正確に貫いた。次から次へと降りて来る鷲に、加奈は短剣を振り回して応戦する。目の前が翼に覆われたと思った瞬間、尖った爪が鷲の背を引き裂き、動きを止めた鳥の向こうに狼の顔が見えた。
「青ちゃん!」
狼はふわりと飛び上がり、長い尻尾を鷲に叩きつける。尻尾から無数の棘が飛び出し、鋭く鷲を切り裂いた。
「青ちゃん、飛べるの? 飛べるなら、わたし達を下まで連れて行って」
加奈の声に狼は振り返り、逡巡するように草地を見やり、加奈を見る。
「お願いよ」
足を曲げて低い姿勢をとる狼に、加奈は飛びついた。足を反対側に回して背にまたがり、「ありがとう」とささやく。
「僕も乗せてくれるかな」
緑青が加奈の後ろに座り、狼は静かに大地を蹴った。崖の中腹にふわりと着地し、すぐさま飛び上がる。音もなく草地に降り、加奈は尾根からは見えなかった悲惨な光景に立ち竦んだ。
烏流の肩はざっくり割れ、白い骨が飛び出している。腱1本でつながった腕を不自由そうに動かし、長い爪で牙羅の腹部を貫く。
「俺を殺って、名誉挽回か。姑息だな」
「名誉は必要ない」
「じゃ、何が欲しいんだ」
「口数が多いぞ」
牙羅の首は半分まで切られ、肩の上で飛び跳ねている。腹部を貫く爪など気にも留めず、牙羅は戦斧と大剣を繰り出した。戦斧が爪を叩っ切り、烏流の腕に食い込む。取って返した剣が、太ももを貫いた。
熊とカラスがハイエナの肉を喰いちぎり、鷲を貪り食っている。1羽のカラスが長い紐状のものを引きずり、それが人間の腸だということに気づき、加奈は嘔吐をもよおし両手で口を覆った。
「カラスども! 敵兵を喰え!」
烏流が言い、緑青が大声をあげる。
「やめろ! 兵は、僕が引き受ける」
緑青は長剣を振りかざし、よろよろと立ち上がる兵士に向かって駆け出した。緑青の剣がうなる横で、カラスが兵士の体に群がり内臓を喰い破る。胃のあたりから上がってくるものを必死に押しとどめ、加奈は叫んだ。
「やめて! 殺さないで! 動けなくなるだけにして!」
カラスに食べられたら、この人たちは死んでしまう――――。加奈の悲痛な叫びを聞き流し、烏流の爪が牙羅の首を切り落とす。首は草地を転がり、視界を失った牙羅の体はやみくもに戦斧と剣を振り回した。
カラスが牙羅の頭部に殺到し、眼球をついばむ。苦痛に大きく開かれた牙羅の口が、最期の言葉をつぶやいた。
「隆氏さまに……栄光あれ……」
「やめて――っ!!」
加奈は全力で走り、烏流に飛びかかった。傷のない方の肩を揺さぶり、懸命に訴える。
「殺さないで。いつか味方になるかもしれないじゃない」
「邪魔するな!」
烏流は加奈を突き飛ばし、首のない牙羅の体を爪10本で串刺しにする。牙羅の胴体は痙攣し、爪を引き抜くなり仰向けに倒れた。それでもなお武器を離さない腕に、腹部に、カラスが群がる。加奈は立ち上がり、烏流にすがりついた。
「カラスに命令して! 殺させないで!」
「こいつらは、おまえを殺しに来たんだぞ。そんなに死にたいなら、俺がいつでも殺してやる!」
烏流は怒鳴り、元気な敵はいないかと壮絶な顔で草地を見回した。緑青が、弱った敵兵の止めを刺している。
「まだ殺し足りない。焔氏の野郎、兵を出し惜しみしやがって」
呻きながら地面を転がる兵に、烏流が歩み寄る。加奈は、烏流の前に走り出た。
「足りないなら、血でも見たら?」
目の前に突き出された、加奈の右腕。烏流の足が止まり、血走った目で彼女を見やる。
「血……だと?」
「ええ、血。少しくらいなら見てもいいよ」
加奈は腕を差し出したまま、目を閉じた。勢いで強く出たものの、怖ろしい光景が脳裏をよぎる。まさか……まさか腕を切り落とされたりしないよね? 酷い目に合ったりしないよね?
「できるだけ痛くないようにしてね……」
唇を震わせながら言うと、沈黙が漂った。一時が永遠に感じられ、ぎりっと音が鳴る。爪を向けた音? これから切られるの? それとも――――ぐさりと突き刺される? 想像すると泣き出しそうになり、固く目をつぶる。
「……厄介な女め」
烏流の声が聞こえ、加奈は恐る恐る目をあけた。彼が血走った眼で加奈を見つめ、がくりと上体を折り、両膝を力一杯つかむ。
「畜生……」
烏流の食いしばった歯の間から、呻き声が洩れた。彼は肩を震わせ、肉に食い込むほど強く膝をつかんでいる。耐えてる――――。加奈の目に烏流は、湧き起こる殺しの衝動と懸命に戦っているように見えた。
(どうしてこんなにも人を殺したいんだろう。壮絶な生き方をして来たに違いないけれど、何があったんだろう)
「烏流……」
伸ばした加奈の手は、いきなり起き上がった彼の体に弾かれる。烏流は加奈には分からない罵り言葉を連ね、殺気だった眼を彼女に向けた。
「焔氏を殺ったら、次は絶対におまえを殺すからな」
「その時は、僕のしかばねを越えて行け」
加奈の隣で、緑青が真剣な顔つきで烏流に剣先を向けている。
「猫野郎め。おまえらが甘チャンだから、俺は何度もこいつらと殺し合わなきゃならない。息を吹き返したら、追って来るだろうからな」
烏流はよろめきながら数歩歩き、戦闘の跡を見渡した。牙羅以外の兵士たちは意識を失ったらしく、草地に倒れぴくりとも動かない。カラスは、ハイエナと牙羅だけをついばんでいる。
「牙羅は、死に場所を求めてここに来たんだ」
カラスが群がる牙羅の頭部と胴体を見おろし、烏流はつぶやいた。




