6 蛇使い師 ②
草木もまばらな王宮の裏庭。忘れ去られた霊廟に月光が落ち、松明を手にした一行が静かに進む。焔氏と元側近の男たちの後ろを、加奈は守礼と並んで歩いた。
白曜石を積み上げた小さな平屋はわびしく、青銅製の扉を開けると地下に下る階段がある。石段をおりる足音が闇にひびき、壁一面に広がった影がのしかかる。空気が重く冷たく感じられ、加奈は小きざみに呼吸をくり返した。
階段をおりた先は、さほど広くない地下室である。壁ぎわの棚に白い骨がむきだしのまま整然と並べられ、部屋の中央には青銅製の台が据えられている。台に置かれた黄金の箱に、男たちは膝を折って敬意を表し、加奈は守礼と共に後ろで立ったまま頭を垂れた。
「さあ、父上。皆にあいさつを」
焔氏が、宝石箱にも見える骨壺の蓋をあけた。中にあったのは、1本の黒ずんだ骨である。それを指でつまみ上げ、ひざまずいた男たちの足もとに投げる。微かな異臭を放ち、骨は石の床を転がった。
冷たい気配が立ち昇り、骨から長い触角が現れ、胴体が這い出てくる。虫――――。人の身長ほどの、足のない虫。男たちは青ざめ、息を呑んだ。
守礼が言っていた骨のしもべ以下の存在とはこのことかと、加奈は両こぶしを口に押し当て悲鳴をかみ殺した。骨に閉じ込められ、退化した人間は虫になる――――。息が苦しくなり、彼女は口を開いて呼吸した。長い沈黙の後、壮年の元側近が言葉を吐き出した。
「……よくも。……よくも我らが王を――――っ!」
「やめろ!」
怒りにまかせ焔氏に飛びかかろうとした男を、他の男たちが押さえる。
「これが死者に対する仕打ちか! 殺しただけでは飽き足らず、このような辱めを与え、自分の父親だろう!」
「父親と思ったことなど一度もないわ。縁もゆかりも無いその男の息子に、たまたま生まれただけだ。私が、この世に生を得るために」
焔氏の顔に浮かぶ邪悪な笑みと、紅い唇から洩れ出る静かな声が男たちを凍りつかせる。
「前王が恋しいならば、おまえ達も骨に棲むがよい。虫となった後どこまで退化するか、その身で伝えたい者は一歩前に出よ」
無言の男たちの顔を順に眺め、焔氏は勝ち誇ったように笑った。
王宮近くの大通りに、烏流が立っている。黒い外套。琥珀色の鋭い目で周囲を見回す。金茶色の三つ編みを背に流し、緑青の首輪につながる革紐を、まるで飼い犬を散歩させるかのように引いている。巻き衣姿の緑青は腰に手を当て、鼠に似た獣に飛びかかる子猫を目で追っていた。
「おおおおっ! やったぁっ!! 僕の猫が……初めて餌を喰ったあっ!」
緑青は、こぶしを振った。黒い獣を一呑みにした子猫は誇らしく頭を上げ、悠々と戻って来る。「よくやった」と子猫の頭を撫でる緑青を、烏流があきれ顔で見おろした。
「おまえな、自分の姿をよく見ろよ。餌どころじゃないだろ」
「何で?」
「家畜のように、首輪をはめられてるんだぞ。おまえには誇りも自尊心もないのか」
「ないけど?」
烏流の口がぽかんと開き、すぐに閉じる。
「それじゃ、つまんねんだよ。もっと怒って暴れて、シギの戦士を舐めんなとか何とか罵って抵抗しろよ。そしたら俺は力づくで押さえつけて、俺の方が強いって見せつけて笑えるんだからさ」
「こうでもしないと、僕を牢屋から出せなかったんだろ? 色々考えてくれて感謝してるよ」
「感謝――――つまんね」
烏流は、しかめっ面でそっぽを向いた。
「嘘つけ。照れてるだろ」
「照れてねえっ」
「感謝されて嬉しいって正直に言えよー」
「嬉しいわけないだろっっ」
「素直じゃないなあ」
牙を剥いた獣のような烏流の顔を見ながら、緑青は朗らかに笑った。
同じ頃、黄櫨は東胡邸の一室に監禁され、見張りの兵士を殴り倒していた。床に崩れ落ちた兵士を見下ろし、衣服と剣を奪おうかどうしようかと知恵を巡らせる。東胡が殺されたことは耳にしたが、それが事実なら逃亡して加奈と緑青を助けるか、新たな雇い主を探すか、今すぐ決めなければならない。
「せっかく東胡に取り入ったのに……まったく」
東胡に嘘の情報を吹き込み、加奈だけでも生者の国に送り返そうとしたものの上手くいかず、自分の身すら危なくなって来たのである。
龍宮で彼の裏切りを知った時の加奈の悲痛な表情と叫びを思い出し、彼は肩まで伸びた金髪を乱暴に掻きむしった。あんな外道を見るような目で見られるのは心外だし、戦士の誇りが許さない。
加奈と緑青に真実を話そう。そして元の仲間に戻ろう。逃亡するには兵士の衣装を着た方がよかろうと床にのびた男に手を伸ばし、思いとどまった。
狭いシギの中を逃げ回ってもいずれ捕まり、3人とも火刑に処せられる。加奈と緑青を助けシギを救うには、焔氏を王位から引きずりおろす必要がある。幸いにも、焔氏に反感を持つタリム族は多い。東胡に代わるタリムの有力者を説得し、反焔氏勢力を結集できれば、あるいは――――。
彼は決心し、廊下に出た。人影はなく、蓮婆がいるはずの客間に向かう。運が良ければ、蓮婆に口利きを頼めるかもしれない。運が悪ければ――――そのへんにいる奴を人質にとり、逃亡をはかるまでだ。よし、行くぞっ!
凄まじい形相で駆けて来る黄櫨に、客間の前に立つ兵士の顔が引きつった。
「お、おまえ……何だ!」
「何だとは何だ。俺は黄櫨だ。見ればわかるだろ。蓮婆に話がある。どけ!」
「うわっ」
扉から引きはがされた兵士の体が、足をすべらせて廊下を転がる。扉が開き、蓮婆が顔をのぞかせた。
「何事じゃ。ありゃ……裏切り者の黄櫨か」
「話がある」
「おまえなんぞと話したくはないわ。……大丈夫か」
蓮婆の視線は歯を食いしばる黄櫨を素通りし、怒りの形相で立ち上がった兵士に注がれる。
「おまえさんも大変じゃのう。東胡は気の毒じゃったが、東胡の兵士も哀れじゃ。山奥の鉱山に送られるらしいな。白曜石を掘り出すのはシギ族の仕事じゃが、見張りの兵士の待遇はひどいと聞いておる」
「山奥の鉱山……?! 誰から聞いたのだ」
兵士の顔が、さっと青ざめた。
「王宮で噂になっとる。亡き東胡の命令に忠実なのは立派じゃが、悠長にかまえておる場合ではないぞ。皆と相談して、新しい主を探すことじゃ。急がんと鉱山に送られるぞ」
「でたらめを言うな!」
「王宮に行き、聞いて来るがよい。わしも王宮に戻るゆえ、見張り役の兵士を呼んでくれ。黄櫨は、わしが見張る。たとえ逃げても、責任は黄櫨の見張り役にある。おまえさんのせいではない」
兵士は蓮婆を睨んだが、明らかに動揺している。額に汗を滲ませ、視線を泳がせた。
「部屋に入れ。戻るまで一歩も出るな」
蓮婆と黄櫨は、部屋に押しやられた。扉が閉められるなり、「話とは何じゃ」と蓮婆が尋ねる。長椅子にどさりと座る呪術師を、黄櫨は胡散臭そうに見やった。
「本当なのか。……ここの連中が鉱山に送られるというのは」
「そういう噂を聞いたような気がする」
「なるほど」
彼は、こほんと咳払いした。
「東胡の代わりになりそうな奴を紹介してほしい。俺は、タリムの内情に詳しくない。今の俺では、加奈も緑青もシギも救えない」
蓮婆は片方の眉を上げ、訝しげな視線を彼に向ける。
「本気で言っているのか」
「ああ。本気だ」
にやりと笑った蓮婆の不気味な顔に、黄櫨は身構えた。
霊廟を出た後、元側近の男たちは無言で帰って行き、蛇眼の火刑に反対する言葉を加奈が聞くことはなかった。最年長者と思われる男が、蓮婆や守礼のようなシギ族をあまり重用しないようにと助言したのみである。
加奈は焔氏に連れられ、彼の私室に入った。甘い香りがたちこめ、ランプが1つ灯されている。薄暗い部屋の中で、家具の放つ金色の輝きが目に痛い。
「座れ」
焔氏に命じられ、長椅子に腰かけた。部屋は冷え冷えとして、青銅の椅子が硬く冷たく感じられる。
焔氏はゆったりとした仕草で加奈の向かいに座り、足を組んだ。唇が、まるで人を喰ったように艶やかに紅い。本当に人を食べたんじゃないのと想像し、加奈は怖気を奮った。
真紅の長い髪を背に払い、鋭い視線を彼女に向ける焔氏に、怖ろしさとは別の奇妙な感覚を覚える。しぐさは女性的なのに、視線は男そのものである。声も言葉も男性的なのに、全体的に両性具有的な印象を受ける。
「翡翠はどこにある」
「……何のことですか」
険悪な灰色の瞳が突き刺さり、彼女は震える両手を握りしめた。焔氏が尋ねるということは、烏流が翡翠を守ってくれているということだ。何としてもこの場を切り抜け、烏流と翡翠を守らなければ。
「わたしは……持っていません」
「知っている」
持ち物を調べた女官が、焔氏に知らせたのだろう。どう答えればいいのと、加奈は言葉に窮した。人の名前を出せば、その人が調べられる。場所を言えば、そこが調査される。焔氏があきらめるような答――――あきらめて探そうとはしない場所――――そうだ!
「……家に置いて来ました」
「家? 生者の国のか」
「はい」
生者の国なら焔氏も手を出せない。あきらめるに違いないと、上目使いに彼の顔を伺い見る。切り込むような視線が送り込まれ、加奈は必死に見返した。
「刺傷、打撲傷、裂傷、火傷……。傷にも色々あるが、どれが最も痛むと思う?」
突然話が変わり、加奈は戸惑った。これは脅しだろうか、只の質問だろうか。それとも何かの試験?
「……火傷、ですか?」
「そう思うか。比べたことなど無いだろうに」
彼が衣の袖をめくると、上腕から肘にかけて黒く引きつれた皮膚が現れた。火傷――――。それだけではない。肘から手首にかけて裂傷の跡が走り、反対側の腕にはいくつもの刺し傷の跡が残っている。
「成人儀礼を通過した証しだ。11歳になったばかりの時、腕に傷をつけられ、納屋に閉じ込められた。どれほど痛もうとも、声を立てれば王子として認めないと父に言われてな。3日3晩耐え忍び、4日目の朝、どの傷が最も痛かったかと尋ねられた」
「あなたは何と……?」
「火傷のじわじわ沁み込むような痛みが、最も苦痛だったと答えた。父はいい経験をしたなと笑い、焔氏の名を私に与えた。焔氏には、炎という意味がある」
「お兄様も、同じ成人儀礼を受けたんですか?」
焔氏の顔色がさっと変わり、加奈は口を閉ざした。話を弾ませようと思ったのだけれど、余計なことを聞いてしまったらしい。
「隆氏は、甘やかされていたのだ。私が認められるには、苦痛を乗り越える必要があった」
兄弟に対する父親の態度に差があったということ……? 加奈は、霊廟で見た光景を思い出した。虫と化した父親を見下ろす、焔氏のあの高笑い。この人は父親を憎んでいるのだろうかと、冷酷そうな顔を見つめる。
「甘やかされた兄は戦死し、私は王となった。苦痛を乗り越えた者が、最後に勝つのだ。おまえは近々、全身に火傷を負うことになる。腕1本であれほど痛むのだから、全身ならば想像を絶する痛みだろう。すぐには絶命せず、時間をかけて死に向かう。苦痛を乗り越えろ。生者を焼くのは初めてだ。楽しみにしている」
「わたしは、死んだら消えてしまうかもしれません。守礼が……そう言ってました」
足もとから上がってくる震えを抑えつつ、加奈は唇を震わせた。
「かまわない。炎の中で苦悶に身もだえする、おまえが見たい。誇りを見せてくれ。無様な真似はするな。醜態を晒せば骨に閉じ込める。骨から出られないしもべがどうなるか、その目で見ただろう」
「どうして焼くんですか? 後宮の女性を増やしたいなら、焼かなくたって……」
焔氏が立ち上がり、加奈は言葉を呑んだ。たった二歩で加奈の前に立ち、両手で肩を押さえつける。紅い髪が加奈の膝に落ち、彼は灰色の眼で彼女を見下ろした。
「どうして? 苦悶に耐え、乗り越える姿が見たいからだ。強く誇り高い者が膝をつき、私に忠誠を誓う姿が見たい。しもべも女も価値ある者でなければならない。火刑ごときで駄目になる者など、いらぬ」
ごとき……? 火刑ごとき? 狂ってる――――この人は狂人だ。加奈は彼の手を振りほどき、長椅子から逃げ出した。怒りの混じった焔氏の視線から逃れるように後ずさり、懸命に頭を働かせた。
扉に鍵は掛かっていないだろうけれど、廊下には衛兵が立っているはず。逃げられない――――。とにかく焔氏をなだめなければ。話を火刑から逸らさなければ。
「あの……教えてください。どうして海を渡って来られたんですか? 大陸の王子でいらっしゃったと聞きましたけど」
「父が、くだらない伝説を信じたからだ」
「伝説……?」
話を逸らされ興をそがれたらしい焔氏は、銅像のように冷たい顔になった。
「タリム族は元々、大陸の西の彼方に住んでいたと言い伝えられている。長い時間をかけ、さまざまな国を征服しながら東の海までやって来た。白く輝く神の国が東の海に浮かんでいるという古い伝説を父は信じ、その国を我が物にせんと考えたのだ」
「そうだったんですか。……シギ族の伝説の中にも、似た話がありますね。姫神様が、白く輝く恵みの地を預言されたとか」
焔氏が一歩前に出て、加奈の体が硬直する。
「海路と陸路の違いはあれ、タリムもシギも西からやって来た種族だ。大陸のどこかで、同じ伝説を聞きかじったのだろう」
「白く輝く国は、本当にありましたね」
彼が、ゆっくりと歩み寄って来る。こわばった彼女の体に右手を伸ばし、セーラー服の襟もとを広げた。白く美しい顔を肩に寄せ、唇と舌を這わせる。その冷たく湿った感触に加奈の体ががくがく震え、悲鳴が咽喉からほとばしった。
「きゃああああ――っ!」
扉を叩く音がして、一気に開かれる。入って来たのは、守礼である。
「失礼致します。蛇眼様の火刑の準備が整いました。タリムの民が、広場に集まっております」
頭を垂れながら、藍色の目は焔氏に向けられている。その冷たい目に加奈ははっとした。焔氏を見上げると、彼もまた切りつけるように守礼を見ている。
2人の男たちの間に漂う殺伐とした気配。この2人はどういう関係なんだろう。主としもべ――――それだけだろうか。2人が睨み合う理由がわからず、加奈はただ怯えた。




