6 蛇使い師 ①
焔氏の部屋に一歩足を踏み入れ、東胡はぎょっとした。もともと暗い部屋だということは、百も承知している。黒灰色の硝子窓は月光を僅かに呼び入れるに過ぎず、いつもなら幾つものランプがかろうじて闇を遠ざけていた。
だが今、ランプは灯されていない。真っ暗な部屋の中で壁際に配された炉の火だけが赤々と燃え、長椅子に黒い影が薄ぼんやりと浮かびあがる。
「卜占をするそうだな。蛇眼の火刑の是非を神に問うのか。それにしても暗い。ランプをつけてはどうだ」
カラ元気をみなぎらせ、東胡は大股で室内に踏み込んだ。黒い影が無言で炉に近づき、赤い炎が焔氏の真紅の髪と険しい横顔を照らしている。
焔氏は薄く削がれた鹿の骨を床に置き、金はさみを手にとった。骨は掌ほどの大きさで、小さな穴があいている。炉で熱せられた銅の箸が穴に突き入れられるのを、東胡は上から見下ろした。ボクっとくぐもった音がして、横一直線の割れ模様が骨の表面を走る。
「吉兆だな」
東胡は、つめていた息を吐き出した。詳細な占断は呪術師の仕事だが、明確な直線が吉兆であることはタリム族の誰もが知っている。
「兄のことはあきらめた。残念だが、王の決定には逆らえない」
「そうか? では大人しくしていろよ」
焔氏が薄く笑う。灰色の瞳が禍々しく瞬き、東胡は一歩退いた。
「占ったのは、蛇眼の火刑ではない。……おまえの処刑だ」
東胡の背後で、影が揺れる。闇の中から巨大な頭が突き出し、振り返った彼の眼前で大きな口が開かれた。びっしりと生え揃った鋭い歯。薄桃色の口蓋。――――それが東胡が最期に見たものだった。
加奈は寝台の板に横たわり、溜め息をついた。眠れない上、小さなランプに照らされただけの部屋は暗く、怖ろしい。
一人でじっとしていると、不安な思いばかりが募る。とりあえず火あぶりは延期されたようだけど、尋問とか調査とかが終わったら、やっぱり火あぶりになるんだろうか。そう思うと胸のあたりが落ち着きなく震え、両手で胸を押さえた。
シギに来てからどのくらいの時間が経ったのか、見当もつかない。お祖母ちゃんは心配しているだろうか。失踪、家出、誘拐――――。そう思われて、もしかしたら警察が家に来ているかもしれない。静かな村が大騒ぎになっているかも。お祖母ちゃんは、手当たり次第に電話をかけているだろうか。友達の家にも……。
お通夜にも葬儀にも来てくれた、3人の友達。引っ越しの朝も顔を見せてくれ、いつでも使えるようバッグに入れておいてとメモ用紙を渡された。メール・アドレスと携帯番号が書いてあったけれど、一度も連絡を取っていない。
母親の教育方針で携帯電話を持っていないし、家族共用だったパソコンは引っ越しのダンボールに入ったまま。何て不義理なことをしたんだろう。もしもこのまま帰れなかったら――――。せめて元気な声で、電話ぐらいすれば良かった。「少し落ち着いたよ。ありがとう。夏休みに遊びに来て」ぐらい言えば良かった……。
見るともなく見ていたランプの炎が消え、ぎくりとした。深い闇が訪れ、恐る恐る起き上がる。部屋は小さな換気用の窓が天井近くにあるだけで、光が殆ど差さない造りになっている。王宮の周囲にある家々やアシブ集落を思い出してみても、シギには窓から光を取り込むという考え方が無いらしい。
座ったまま、彼女は両手を体に巻きつけた。闇から何かが飛び出して来そうで、立ち上がるにも勇気がいる。1,2,3、と掛け声と共に両手を突き出し、扉に向かって歩き出した。
手探りで扉を探し当て、そっと開くと月光が眩く射し込み、目をぱちぱちさせた。半分ほど扉を開き、月光を頼りにランプを調べてみる。油がきれてしまったのか、故障なのか。灯りの消えた原因が分からず諦めかけた時、遠くから走って来る足音が聞こえた。
「加奈さん!!」
扉が激しく押し開かれ、加奈は飛び上がった。
「守礼。どうしたの?」
戸口に立つ長身の影が、力が抜けたように壁にもたれかかる。
「灯りが消えて、扉が開いていたので、もしや……あなたが……」
守礼は、ふうっと息を吐き出した。
「良かった……無事で」
加奈は、不可思議なものを見る目で彼を見上げた。守礼の視線がしばし彼女の顔を漂い、あきらめたような吐息が彼の唇から洩れる。
「散歩しませんか? 王宮内では、あまり見るべきものはありませんが。部屋に閉じこもっているよりいいでしょう」
「はい」
守礼に促され、彼女は部屋を出た。不思議な中庭を抜け王宮に入ると、獅子門から見知らぬ男達がやって来る。貫頭衣を着て革の帯をしめ、腰に青銅の剣を吊るしている。
壮年の男達の間にあって、一人だけ二十代半ばに見える男がいた。顔も体もいかつい彼にじっとりと見つめられ、その底知れない不気味な目に加奈はぞっとした。男は視線を逸らし、守礼に声をかける。
「焔氏様にお会いしたい。重要な用件だ」
「ご案内します。……あなたも一緒に来てください」
守礼に言われ、加奈は一行に混じって階段を上がった。顔立ちからタリム族だと分かる男達の視線が、彼女に突き刺さる。
5階まで上がると彼らは焔氏の部屋に入って行き、加奈は守礼に連れられ廊下を逆の方向に進んだ。突き当りの扉から外に出て、石畳の通路を行く。
「あの人たちは、タリム族?」
「はい。皇氏様の側近だった方々です」
「あなたに話しかけた人も?」
「牙羅様のことでしょうか。牙羅様は、焔氏様の兄君であられる隆氏様の側近だった方です」
「前は偉い人の側近だったけど今は違う方々が、何をしに来たの?」
守礼は、横目で彼女を見て仄かに笑った。
「おそらく、蛇眼様の火刑に異議を唱えに来られたのでしょう。これまでタリム族が火刑に処せられたことは、一度としてありません。蛇眼様が最初ということになりますが、同族を見世物にするのかと反対する声が多いのです」
「中止になりそうですか? 火刑……」
「どうでしょう」
難しい表情の守礼の肩越しに、月と星に照らされた人工池が煌々と浮かび上がる。池の端でゆっくりと回る水車に、加奈の目は吸い寄せられた。地下より上がって来た水車の筒から、雨どいに似た水路に水が落ち、静かに渦巻きながら池に流れ込む。
「ここが、光が降る池? 綺麗……」
池の水面に月が映り、水流に合わせて揺れながら煌めいている。静かで神秘的な夜の池を眺める加奈を、守礼は微笑みながら見つめた。
「この水は、何に使われるのですか? 飲み水とか、お茶用とか?」
「それもあります。一部は王宮周辺の各戸に送られていますが、最も多く使われるのは王宮の3階です。以前は3階には水車の動力室があったのですが、今は後宮の方々の浴場に作り変えられています」
「浴場……?」
後宮の「方々」が使うのだから、きっと大浴場なのだろうと加奈は想像した。わたしも使うことになるんだろうか。水面をいくつもの小さな光が飛び交い、彼女ははっとした。
「あれは……命の光?」
「そのようですね。池に落ちた命は、眠っていることが多いのですが。強い命に惹かれ、出て来たのでしょう。強い命――あなたのことですよ」
「わたし?」
「命の光は互いに惹かれ合い、集団を作ります。あのように」
水面すれすれを飛んでいた光が、まるで家族のように群れを作り、広がったり集まったりしながら池の上を移動する。水辺に立つ加奈の足もとまでやって来た光に、彼女は手を伸ばした。
加奈の手が、淡く白く輝く。指先から小さな宝石のような光が溢れ出し、ぽろぽろと池にこぼれ落ちる。守礼が彼女の腕をつかみ、後ろに下がらせた。
「あなたにとって良くない場所に連れて来てしまったようです。申し訳ありません」
「良くない場所?」
「あなたの中にある大量の命が、池の上を飛ぶ命に惹かれて出て来たのです」
命が、別の命に惹かれて出て来る――――。そんな事があり得るんだろうかと、加奈は唇をきゅっとすぼめた。わたしは生きているんだから、体内に命は存在するだろうけれど。――――大量に?
「命は、一つしかないでしょう?」
「いいえ。人の体の中には、無数の命がありますよ」
加奈は、首をかしげた。命は一つではなく、無数にある。細胞の一つ一つに小さな命が宿っているんだろうかと想像した。それが指先から出て来る……?
「その命が全部外に出てしまったら、わたしはどうなるの? ……死ぬの?」
「わかりません。そのような死を迎えた者はいませんし、かつて神官の意見は2つに分かれていました。死ぬだろうと予測する者と、そうなる前に流出が止まるだろうと言う者と」
「血だって、空気に触れると固まるもの。人間の体には、命の危機を防ぐ仕組みがいくつもあるそうよ」
微かに光る指先を見つめ、加奈は不安な気持ちを抑えつけた。池の上では光が舞いながら絡まり合い、光の織物を織り上げている。
「命って何でしょうか。どこにでも大量にあるものなの?」
「世界に存在するのは命の光のみ、と説いた神官が過去にいました。彼によれば、命の光以外のものはすべて幻なのだそうですよ」
「そう言えば……中学の理科の先生が言ってた。物質はすべて幻で、わたし達はみんな脳に騙されてるって」
変わり者として有名だった理科教師は、物質はすべて脳が見せる幻だと言っていた。目がとらえた光の屈折を、人間の脳が物質として認識する。硬さ、重さ、香り、音――――すべての感覚は脳が作り出したものである。脳を失った時、人は真実に気付くだろう。物質は存在せず、すべてが幻であったことを。真面目な顔で教師は語り、生徒はわけが判らずぽかんとしていた。
「先生が言うには、美人やイケメンが目の前に現れても騙されちゃいけないんですって。どんなに美人でも、ただの振動する原子なんですって」
だからあいつ、嫁が来ないんだよ――――。加奈を含め生徒達は、彼にあだ名をつけた。『ドク』――――もちろん、『独身』の『独』である。
「面白い考え方ですねえ。原子――――という部分がよく判りませんが」
守礼は興味深そうに瞳を瞬かせ、この人も幻なんだろうかと加奈は彼の神秘的な顔を見上げた。親切そうだけれど、冷たい面がある。忠実そうで、反骨心もありそうだ。何を考えているのかよく判らない点が、彼をさらに幻想的に見せている。
「守礼様。焔氏様がお呼びです」
背後から声が聞こえ、振り返ると通路から焔氏の衛兵が顔を出していた。
戻りかけた加奈と守礼の前に、焔氏その人が現れた。藍色の空の下、紅蓮の髪が風もないのに大きく揺れ、全身が黒い層に覆われている。地下にいた男の衣に似ていると思い出しながら、加奈は以前にも増して禍々しい彼の姿に体をこわばらせた。
「父に会いに行く。霊廟まで一緒に来い」
守礼は鋭く息を吸い、無言で頭を下げる。焔氏の紅い唇が三日月形に曲がって笑みを作り、灰色の眼が妖しくゆらめきながら、加奈に向けられた。




