5 キシルラ王宮 ④
「……加奈さん。行きましょうか」
黒衣の男は加奈と守礼のやりとりには興味無さそうに書き物を始め、守礼は優雅な仕草で加奈を導く。藍色の瞳が、隣を歩く彼女をとらえた。
「さぞ私を恨んでいることでしょうね」
「当然でしょう」
守礼は何か言いたそうに唇を開き、すぐに閉じる。今までと同じく何も話さないつもりなのだと、加奈は意地になった。こちらからは、聞かないから。聞いたって無駄なんだもん、何も聞くもんですか。
彼の持つランプの灯りが、巨大な歯車を照らしている。数十人もの亡霊が、白い骨の手で持ち手を押し、水平に置かれた歯車を回す。彼らは何をしているのと尋ねかけ口元を引き結ぶ加奈を、守礼はそっと見やった。
「地下水を汲み上げているのです。水は、5階まで運ばれます」
歯車の回転が、垂直に立てられた別の歯車を通して、縦長で楕円形の水車に伝えられる。地下水を湛えた筒が天井を越え遥か上方の闇に消えて行き、空になって戻って来るのを加奈は下から見上げた。
「5階には、焔氏様の部屋の他に大きな貯水池があります。焔氏様の部屋は元は祭祀場で、姫神様が池に降った光を祀る儀式をされた場所でした。命の光は水に引き寄せられますから、池や壺などに降り落ちてくるのです」
「そうなの?」
思わず口に出し、加奈は慌てて黙った。守礼は微笑し、静かにうなずいている。
入って来た時とは別の扉から出て、彼女は外の空気を思いっきり吸い込んだ。湿った夜の気配が肺に入り、怒りと恐怖で熱くなった心を鎮める。冷静を取り戻し、どうにかして逃げ出さなければと周囲を見回す彼女を、守礼は王宮の中庭へと連れ出した。
狂ったように咲き乱れる四季折々の花。濃い緑の葉をつけた灌木。飾り岩にうっすらと積もった雪。奇妙な光景に加奈の目が丸くなり、守礼は白い椿にそっと触れた。
「シギは住人の記憶が作り上げた世界だと、私は思っています。この庭は、その象徴のようなものです」
「そう言えば、アシブから峠に行く道がなくなっていたけど……」
「あの辺りは滅多に人が通りませんでしたから、住人の記憶があやふやなのでしょう。神の手違いで消えてしまったと言われる場所は、他にもあります。神の手違いではなく、人々の記憶が薄いせいだと思うのですが」
「この国の人たちは、その事に気づいてないの?」
「何かがおかしいと、心のどこかで分かっていると思います。でも、認めたくないのでしょう。自分が死んだことを」
長い睫毛を伏せた守礼の顔が、加奈の目に悲しく映る。彼は、何も言わずただ人々を見つめ続けて来たのだろうか。何を想って……? 彼は何を望んでいるのだろう。
「あなたは、何を待っているの?」
「待つ……?」
「そう見えるんだけど」
「奇跡……でしょうか」
守礼は、寂しく微笑した。石塀に沿って建ち並ぶ木造の長屋へと彼女を連れて行き、裏門に近い部屋の扉をあけ、どうぞと指し示した。
加奈が恐る恐る足を踏み入れると中は薄暗く、粗末な板の壁に囲まれた殺風景な部屋である。狭い室内の半分を寝台らしい物が占めているが、布団も毛布もなく、板が剥き出しになっている。他には茶器を乗せた盆と、その下に小さな櫃が一つ置かれているだけ。
「ここは、私の部屋です。どうぞ座ってください」
加奈は、戸惑いながら寝台に腰かけた。守礼の部屋――――ここが? 彼の優雅な雰囲気と部屋の様子が、まるで合わない。何度も室内を見回す彼女に、彼は生徒手帳を差し出した。
「お返しします。呪いを解いて欲しいと持って来た女官から、あなたが地下へ遣られたと聞いたのです。女官に頼んでおいた茶器が届いているようですから、座っていてくださいね」
「あの、焔氏が呼んでいるというのは……?」
「嘘ですよ」
嘘――――。すると彼は、わたしを助けるために地下まで来てくれたんだろうか。
目をぱちくりさせる加奈の前で、守礼は櫃の上にランプを置き、盆に乗せられた瑠璃色の茶器にお茶を注ぐ。
「あなたの部屋は、他にもあるの?」
「いいえ。……ああ、部屋が質素なので驚いておられるのですね。ここには滅多に戻らないのです。使わない部屋を飾る必要はありませんからね」
茶器を2つ乗せた盆を加奈のそばに置き、彼は寝台の端に腰かけた。ランプに照らされた長い髪が、茶器と同じ瑠璃色に輝いている。光の届かない瞳が、黒い影のように彼女を見る。
冷たく美しい顔で見つめられると居心地が悪くなり、加奈は「いただきます」と茶器に手を伸ばした。湯気の立つ薄黄色の液体は見た目も香りもお茶そのものだが、一口含むと普段飲んでいるものとは違う、何とも言えない甘味が舌の上を広がっていく。
「……美味しい」
「よかった。シギの甘茶があなたの口に合うかどうか、心配だったのですよ」
彼がじっと見つめていたのは、わたしが満足するかどうか気にしていたから――? 彼の唇が笑みの形にほころび、全身から漂い出す温もりが彼女の心に沁み通っていく。
守礼はいい人かもしれないなんて考えちゃ駄目よと、加奈は心の中で自分を戒めた。気を引き締めないと、また騙される。黄櫨だって……。黄櫨を思うと気分が暗く沈み、うなだれた加奈の顔を守礼が心配そうに覗き込む。
「焔氏様は、あなたについて知りたいご様子です。その為に後宮に住まわせようとなさったのですが、宝蘭様はそれがお気に召さないようです。宝蘭様のお立場を考えると、当然ですが」
彼は、長い指でもう1つの茶器を盆から持ち上げた。
「焔氏は、わたしを処刑するつもりでしょう? 彼自身がそう言っていたもの」
「いずれは骨のしもべにしたいと考えておられるでしょう。しかしシギの住人とは違い、あなたは火刑の後どうなるか判りません。元に戻らないかもしれないし、消えてしまうかもしれない。生者の国について話を聞き、獣に憑依されたことのないあなたの能力について調べる。すべき事は、数多くあります」
「ということは……」
加奈は、きょとんとした表情を守礼に向けた。
「わたし、すぐには処刑されないの?」
「はい」
「黄櫨と緑青は?」
「残念ながら……。緑青は、近いうちに火刑に処せられるでしょう。黄櫨は今のところ東胡様に預けられていますが、いずれ骨のしもべにされると思います」
そうはさせるものですかと、加奈は強く拳を握った。黄櫨は裏切り者だけど、火あぶりになるところは見たくない。緑青も黄櫨も助けたい。そのためには、守礼から出来るだけ多くの情報を引き出さなければ。
でも何を尋ねればいいんだろう。焔氏の弱点とか? ここから逃げ出すにはどうしたらいいのとか? ……答えてくれるわけがない。
視線を上げると、藍色の目とぶつかった。大人びた優雅さと冷たさをまとい、優しく包み込むような目で見る守礼に加奈はどきりとし、思わず目を伏せる。盗み見るように視線を上げると、音を立てずにお茶を飲んでいた彼の目が、流れるように彼女に戻って来た。
「お尋ねになりたいことがあるのでしょう? 答えられることなら、答えますよ」
「あなたは本当に獣杯から獣を解き放ったの?」
守礼は手にした茶器に視線を落とし、黙り込んだ。暫しの沈黙の後、静かな声が響く。
「……タリムがシギに攻め入った時、最前線の部隊を焔氏様が率いておられました。シギは主力部隊を左翼に展開し、焔氏様の兄上であられる隆氏様を討ち取ったのですが、シギの攻勢はそこまででした。シギの戦士は勇猛ですが、騎馬部隊を持つタリムの機動力には遠く及びません。シギ族長が戦死した後、シギ族は都を捨てアシブに立てこもり――――そして獣が放たれた。私がしたことです」
「何のために? 復讐のためとか、出世のためとかって言う人もいるけど」
「どちらでもあり、どちらでもありませんよ。アシブに押し寄せるタリムの大軍を前にして、冷静な判断はできませんでした。若気の至り……と言うべきでしょうか」
平然と応える守礼の睫毛が微かに震えている。真実を答えているのだろうか。それともやっぱり、嘘? 見極めることが出来なくて、加奈は困惑した。
「そろそろ私は失礼します。もう暫くここにいてください。ここには誰も来ませんし、扉を叩く者がいたら聞き流してくださって結構です」
彼は茶器を盆に戻し、軽い仕草で立ち上がる。聞きたいことがまだたくさんあるのにと、加奈は慌てた。
「どうして焔氏に仕えるの? シギ族のために働こうとは思わないの?」
扉に向かって歩きかけた守礼が、青い裳をひるがえして振り返る。表情を消した彼の顔は、人形のようだ。逡巡しながら唇を開き、痛ましい声で呟いた。
「焔氏様に仕えているのではありません。焔氏様の中にいる獣を守っているのです」
「獣……? どうして獣を守るの? 蓮婆はあなたが獣と取引きをしたと言っていたけど、そうなの?」
彼は答えないまま、加奈に向かって一礼する。扉が静かに閉じられ、彼女は大きく溜め息をついた。結局、知りたいことは何一つ知ることが出来なかった。守礼に、うまくはぐらかされた気がして仕方がない。
獣を守る――――何のために? その見返りに、彼は何を得たのだろう。あらためて部屋を見回し、見返りがこれなのかと思う。清潔そうではあるけれど、質素で粗末な部屋である。財や物ではなく、他の何かを得たんだろうか。
若気の至りで獣を放ったと言っていた。冷静そうに見えるけれど、頭の中が真っ白になって正常な判断ができなくなることが彼にもあるんだろうか。泣き叫びたくなったり、手足をばたばたさせて暴れたくなったり。地下室でのわたしのように――――。
お茶を飲み干し、加奈は寝台の上でぼんやりと座っていた。眠気はまったくなく、お腹も空かない。わたし、どうなってしまったんだろう。まさか――――死んだ? そんなこと有り得ないと首を振り、溜め息まじりに天井を見上げた。




