5 キシルラ王宮 ③
女官が厚い樫の扉を開くと、地下に向かう石段が闇に浮かんだ。背中を押され一歩前に出た加奈の背後で、扉が大きな音を立てて閉じられる。真っ暗闇のなか何一つ見えなくなり、加奈は扉にすがりついた。
「開けて! 開けてったら!」
ギリッ、ギリッと石の擦れる音が聞こえ、背後がぼんやり明るくなる。震えながら振り返ると、教壇に似た机の上で小さなランプが灯り、男が一人机に向かって座っている。
「こっちへおいで……」
男は骸骨を思わせる顔で加奈を見、手招きした。咽喉にこみ上げる悲鳴を必死に押しとどめ、彼女は扉を力一杯押したが、ぴくりとも動かない。歯をカタカタ鳴らしながら振り返り、再び男を見る。
「中からは、開けられないよ……」
男のか細い声が響き、加奈は噛み合わない歯を持て余しながら周囲を見渡した。彼女と男の間には海のような闇が広がり、ギリッ、ギリッと音だけが聞こえる。扉は閉ざされたままで、前に踏み出す決心がつかない。加奈は、泣きたくなった。
「あきらめて、早くこっちへおいで……」
男が青白い手を振り、彼女は奥歯を噛みしめた。泣いたって何も変わらない。冷静に考えなければ。背後が閉じられたら、前に進むしかない。あきらめて震えの止まらない体を動かし、足で探りながら石段を下りた。
両手を前に突き出し、石畳のような硬い感触を足裏で感じながら、男に歩み寄る。骸骨に似た顔にも関わらず体が肥って見えるのは、厚い衣服を何十枚も重ね着しているせいだと、男のそばまで来て気がついた。
「名前は……?」
尋ねられ、正直に答えようかどうしようかと迷った。名前を知られたら奴隷にされるような話を、映画か何かで見たことがある。偽名を使った方がいいだろうか。でも嘘だとバレた時、不正直さを責められ、もっと酷い目にあうかも。
「……加奈です」
正直に言うと、男は机に広げた帳面に見たこともない絵文字を書きつけ、視線を虚空に彷徨わせた。
「私が考えている通りの文字なら、君の名は『広がり続ける果樹園』の宿命を持っているね……」
「宿命……悪い名前なんですか?」
「いいか悪いかは、君しだいだ」
眼窩の窪んだ男の目が不気味に光り、加奈の胸の辺りが冷たくなる。文字の話になると、男は自信たっぷりに言い切った。
「広がり続けるならば、いい人生を送ることができる。広がり続けるとは、豊かさを求めるということだ。心の豊かさ、財産、子孫。すべてにおいて豊かであろうとするなら、名を表す文字は君を助けるだろう。もしも君が豊かさを拒絶すれば、君は破滅する」
「えっ?!」
名前の持つ宿命――――破滅? こんな目に合うのは名前のせいなのかと、加奈の恐怖心がますます膨らんだ。
両親は、宿命なんて考えていなかっただろう。加奈の名は、カナリヤから貰ったと言っていた。自分の名の宿命を考えながら生きてる人なんて、いないんじゃないの。
「文字には力がある。対象物に宿命を与え、生きる道筋を決め、道から逸脱する者を罰する。王に相応しくない名を持つ者が王になろうとすれば、死を迎える。亜夷の名は王に相応しくなかったのに奴は王となり、他国に攻められ処刑された……」
男の青黒い口元に笑みが浮かび、悪鬼のような表情を形作る。
「将希という男がいた。王の書記という私の仕事を奪い、狡賢く生きた。文字の残念な所は、善悪の区別をつけない点だ。将希は罰せられてしかるべきだったのに、文字の力を利用し出世した。畜生……」
ますます悪鬼じみた形相に変わっていく男から、加奈は後ずさった。この人は、悪霊か何かだろうか。素早く周囲を見回したが逃げ場は見当たらず、加奈は凍りついたまま男を見つめた。
「ああ、やっと思い出した。将希に媚を売っていた小男の名を。私の悪口を王に吹き込み、私を失脚させた。奴に永遠の苦しみを与え給え」
机の下から古い帳面を取り出し、筆で絵文字を書きつける。男の黒い衣がもごもごとうごめき、書き終わると治まった。
「私が貞淑な妻として生きた時、夫だった男に天誅を与え給え。奴は他の女と逃げ、私は食べる物もなく病死した。憎んでも憎みきれない……」
「妻……?」
どこから見ても男性にしか見えないけれど……。目を丸める加奈に、男はちらりと目をくれた。
「人は何度も生まれ変わる。常識だ」
言い終わるや否や、呪いの言葉を帳面に綴る。何重にも重なった男の衣の外側に黒い層が現れ、ふわりと彼の体を包んだ。加奈はそっと男の背後に回り、机の下にびっしりと積み上げられた帳面と彼の衣を交互に見る。
「い、いつもそうやって何かを書いているんですか?」
「忘れないためにね。ぼんやりしていると忘れてしまうからね。私の母親にも天罰を。あの女が病死したせいで、幼かった私は餓死した……」
餓死……。次第に声が小さくなり、ぶつぶつ独り言を呟く男に加奈は痛ましい目を向けた。どんな悲惨な人生を重ねたのだろう。昔、人間の寿命は短かったそうだけれど……。
それでも病で亡くなったお母さんを恨むなんて。男が悪意のこもった絵文字を書き連ねるごとに、衣が厚くなっていく。着ぶくれた彼は背を丸め、今にも服に押し潰されそうだ。
「……あなたは死者なの?」
「そうだよ。ここにいる者は皆、大河を彷徨っているうちに守礼に拾われた迷い人だ」
皆――――? 男の視線をたどり、加奈は闇に目を凝らした。ギリッギリッと音を立てながら、巨大な石臼が回っている。円筒を二つ重ねた形で、上の円筒がゆっくり回りながら茶色い実を挽いている。油の臭いがし、加奈は鼻をひくひくさせた。
「……油ですか?」
「麻の実を搾り、灯り用の油を作っている」
回る臼には、木製の持ち手が取りつけられている。白い骨が持ち手を握っているのが薄ぼんやりと見え、加奈は「ひっ」と悲鳴を洩らした。骨の手の先には、人の姿をした青白い影がある。闇に慣れてきた加奈の目に、石臼を挽く十人ほどの亡霊が映った。
「あ、あなたは、薄ぼんやりとしていませんね。亡霊じゃないみたいな……」
男は怪訝そうな顔をし、すぐさま得心したようにうなずく。
「ああ……私と彼らは違う。さあ、働いてもらおうか」
「働くって……何をすればいいの」
石臼を挽くんだろうかと、加奈は持ち手を握る骨の手をちらちら見やった。耳を澄ませると他の音も聞こえるが、闇に遮られ正体が分からない。
「油を搾れ」
「あ、あの……」
亡霊と一緒に働くなんて嫌だ。何とか逃れられないだろうか。話を続ければ――――でもこの悪霊のような人と、これ以上喋りたくない。骨の方がマシかもしれないとあきらめ、石臼に近づいた。
青白い亡霊は透き通り、向こう側が透けて見える。白い手の骨だけが、持ち手をしっかりと掴んでいる。
「……こんにちは」
勇気を出し挨拶したが返事はなく、亡霊たちはじっと前を見つめ、ひたすら持ち手を押し続ける。
「そいつらに話しかけても無駄だよ……。そいつらに出来ることはただ一つ、石臼を挽くことだけ。他のことは何一つできない……」
「どうして?」
ゆっくりと回る亡霊たちから、囁くように話す男に視線を移した。
「つい先だって来た死者が、小難しい言い方をしていたな。……残留思念。死者が舟で死者の国へと渡る時、思いを大河に捨てて行くんだ……。それらが死者の似姿で大河を漂い、やがて川底に沈んでいく。沈む前の残留思念を守礼が拾い、別の思念に作り変えて使っているというわけだ……」
「作り変える……どうやって?」
「一定方向に向けられた思念を、守礼が念を使って別の方向に向けるらしい……。死者が最期まで抱いていた思いを、石臼を挽くことに向ける。私には心も魂もあるが、そこにいる連中にはないんだ。ただ石臼を挽く。残留思念は徐々に薄くなり、やがて消える……」
シギ国では、死者が残した思いをエネルギーとして使っている――――ということか。加奈は、口をすぼめた。まるで超能力か魔法だ。人の念は万物を創造し、万物を破壊するとタルモイ族長は言っていたけれど……。
「あなたは死者の国に渡らないの?」
「渡ろうとしたんだがね……。途中で降ろされた。私の衣服が重くて舟が沈みそうだと言われてね。大河には、水面から突き出た岩場がいくつもある。そのうちの一つに置き去りにされて途方に暮れていた時、守礼に拾われた。その後ずっとここで働いているんだが、ここは過去を思い出すにはいい場所だ」
男は言い終わるなり、顎で石臼を指し示す。早く働けと言わんばかりである。残留思念と言われても、幽霊か亡霊にしか見えない。薄気味悪い幽霊と一緒に働く……。加奈は唾を呑み込み、大きく深呼吸した。
仕方がない。ただ木の持ち手を押すだけだ。押しながら、これから先の事を考えよう。そう思い、青白い幽霊の隣に立った。ひやりと冷たい持ち手を握り、ゆっくりと押す。石臼と一緒に回っているうちに、眩暈に襲われた。目と頭の中がぐるぐる回り、吐き気までして、よろめきながらしゃがみ込む。
「何をしている。怠惰は罰に値するぞ」
そんなこと言われても――――。生きた人間なんだから、回り続けたら目が回るに決まってる。彼女はしゃがんだまま、握った拳をぶるぶる震わせた。
もう、嫌だ。何もかも、嫌だ。理性と忍耐がぷつんと音を立てて切れ、大声で叫び手足をばたばたさせ大暴れしたくなった。もう限界だと叫ぶつもりで息を吸い込んだ時、微かな足音が聞こえた。深い闇の中にランプがもう一つ現れ、揺れながら近づいて来る。
「加奈さん。お迎えにあがりました」
聞き紛うことなき守礼の声。加奈は目を見開き、ランプをかざす藍色の髪の美青年を見上げた。
「守礼か……。宝蘭姫から娘を働かせるようにと言われたのだが」
「焔氏様が彼女を呼んでおられます。連れて行きますよ」
焔氏が呼んでいる――――。もしかして――――とうとう火あぶり? こんな国に連れて来られて、我慢に我慢を重ねたのに幽霊と一緒に働かされて、その挙句に火あぶり? 彼女は、よろめきながら立ち上がった。
どうしてこんな目に合うの? わたしが何をしたって言うの? 怒りが業火の如く一気に燃え上がり、彼女は守礼に歩み寄る。
何もかもあなたののせいよ! 彼の典雅な顔を張り倒そうとして手を上げ、止めた。引っぱたいたって気がすまない。そんなんじゃ足りない。目をぱちぱちさせてこみ上げる涙を押しとどめ、守礼に背を向けた。
「加奈さん……」
小刻みに震える彼女の背中を見つめながら、守礼は言葉を失った。差し出そうとした手を、暫しためらって引き戻す。つめていた息を少し吐き、彼はかすれた声を発した。




