5 キシルラ王宮 ①
大陸の中原に、容赦のない太陽が照りつける。
目のまわりを黒く塗った呪術師たちが、太鼓を打ち鳴らし呪詛を唱え、ときの声と共に両陣営はぶつかった。斧や剣を手にした男たちが、汗と血にまみれて戦う。怒声。断末魔の叫び。血みどろの戦場から、金茶色の髪の少年が走り出た。血まみれの少年を背負った彼は、木立ちを目ざし一目散に駆けていく。
「水が欲しい。水……」
少年――留心のかすれた声が、烏流の背に響く。林に駆け込み瀕死の少年をそっと草の上に横たえ、烏流は辺りを見回した。
「ごめん。水はない」
全身に傷を負った留心の姿が、霞んで見える。
烏流も留心も、大夏族の出身である。共に10歳で戦闘奴隷の印である五芒星の刺青を額に刻まれ、12歳で戦場に出た。
白鼠部隊――通称「16部隊」。12歳から15歳の、タリム族が征服した様々な部族の少年たちによって構成される、呪い受け部隊である。どの部族でも戦闘に先立ち、呪術師が敵方に呪いをかけ悪霊を放つ。悪霊は若年者を好むと信じられていたため、16部隊は常に最前線に置かれた。
タリム族が征服を続ける限り、少年の代わりはいくらでもいる。16になれば正式な戦士として取り立てられるが、その歳まで生き延びた者はいない。逃亡すれば家族が処刑される。逃げ道のない少年たちが一人また一人と命を失っていくなか、烏流と留心は半年間生き長らえて来たのである。
「水だ……」
留心は放心したように目を空に向けたまま、肘に口をつけた。肘から先は切り落とされ、傷口から血が噴き出ている。
「留心、それは水じゃない……」
肩に手を置く烏流に、少年は血をすすりながら笑顔を向けた。
「水。美味しいね」
烏流は咽喉を詰まらせ、言葉を絞り出す。
「……ああ。美味いだろ」
「……うん」
笑顔のまま、留心は息絶えた。烏流にとって、たった一人の心許せる友だった。彼は友に問う。楽しい一生だったか?
動かなくなった留心のそばに座り、首を傾けた。血にまみれた金茶色の髪が、はらりと肩に落ちる。戦場の喧騒も絶叫も彼の世界から消え、楽しいことだけを一心に考えようとしたが、何も思い浮かばない。戦闘奴隷になる前のことは、何も思い出せない。
脳裏に浮かぶのは、初めて敵を――――人間を殺した時のこと。衝撃と恐怖に思考が麻痺し、頭の中で呪文のように繰り返した。殺せば俺は生きられる、殺さなければ俺は生きられない。生きたい――生きたい――そのために殺す――殺さなければ生きられない――生きたい――殺したい。
背後に足音が聞こえ、敵兵の声が忍び寄る。
「逃げ遅れたな、ガキ。お味方は退却したぜ」
烏流は留心の剣を握り、振り向きざま敵兵の胸を貫いた。血飛沫が彼の顔に吹きつけ、口を大きく開けて受け止める。
「水だ……留心。美味い水だ」
茫然と見下ろす敵兵の斧を奪い取り、切りかかる別の男の首めがけ振り上げた。斧は男の首に食い込み、血が円を描いて噴き上がる。
「あっははー、水浴びだあ。殺しは楽しいなあ、留心」
どうと倒れた2人の男に順にまたがり、短剣で切り刻む。刃が肉に食い込むたびに鮮血が吹き出し、烏流は狂ったように笑い声をあげた。動かなくなった敵兵から離れ、友の胸に剣を突き立て、心臓をえぐり出す。
「俺と生きろ。おまえを楽しませてやる。一緒に楽しもうぜ」
心臓をぺろりと舐めた。留心が最期に味わったであろう味が、舌先から伝わって来る。温かい留心の心臓に歯を立て、烏流は一気に貪った。一緒に生きよう留心、と唱えながら。
「聞こえているのか」
焔氏の低い声が耳をかすめ、烏流は瞬きした。青銅の長椅子に腰かけた焔氏が、酷薄そうな灰色の目で見つめている。こいつを殺したい――――。 腹の底から湧き上がる衝動に、烏流の体が震えた。どんな死に顔だろう。泣き喚くか。それとも自分が死にかけているとは信じられず、茫然と阿呆面を晒すか。
焔氏の正面に座っていた東胡が、咳払いした。
「黄櫨に尋ねた方がよかろう。生者の国にいた時から、娘と行動を共にしていたのだからな。黄櫨によると、加奈とかいう娘は翡翠を鈴姫から預かり、生者の国に置いて来たらしい。娘に命じ、生者の国へ翡翠を取りに行かせる。緑青と仲がいいようだから、言う通りにしなければ緑青を殺すと脅せば、翡翠を持って戻って来るのではないか」
焔氏の顔に薄笑いが浮かんだ。烏流と黄櫨の目が一瞬だけ合い、すぐさま離れていく。
「本気で言っているのか。娘と緑青がどれほどの仲かは知らぬが、戻って来るわけがない」
「まあ、確かにな。他にもある。獣杯を見つけたことから考えて、娘には不思議な力があるのではないか。例えば、娘と共に舟に乗れば他国へ渡れるというような。火刑にする前に確かめてみても面白かろう、とも考えてみたのだが」
焔氏は、無言で獣杯を手に取った。東胡が怒りの視線を黄櫨に向け、黄櫨が大丈夫ですよと言いたげにうなずく。
「……これは本物か? 貴重な杯にしては薄汚れているが」
「無論、本物だ」
答える東胡から、焔氏の視線は烏流の隣に立つ守礼へと移った。藍色の目が焔氏と東胡の間をたゆたい、伏せられる。
「そうか。本物か。蓮婆はどうした?」
「獣杯が見つかった場所で、翡翠を探すと言っていた。もちろん見張りは付けてある。今頃はこちらに向かっているだろう」
「蓮婆が翡翠を見つけられなければ、獣杯は諦めよう。無くて困る物でもない。蛇眼の火刑の準備をしておけ」
「承知しました」
守礼は優雅な所作で軽く頭を下げ、蛇眼の火刑と聞くなり東胡の顔が凍りつく。
守礼一人を残し皆が退室すると、部屋は冷ややかな空気に閉ざされた。古ぼけた陶器を持ち上げ、焔氏が尋ねた。
「……にせ物だろう?」
焔氏のそばに立つ守礼は逡巡し、答える。
「……はい」
「東胡の無能ぶりには、愛想が尽きた」
にせの獣杯は壁に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
キシルラ王宮とアシブ神殿は、外観は似ているが内部構造が異なっている。1階から4階まで石が積まれたアシブ神殿に対し、キシルラ王宮は内部が空洞で、住居や仕事部屋として使われている。
黄櫨はいそいそと東胡について行き、緑青は加奈とは別の場所に連れて行かれた。烏流はいつの間にか姿を消し、女官に連れられ加奈が向かった先は王宮の4階である。5階には焔氏の部屋があり、4階は後宮だと言う。小部屋で加奈の持ち物を調べていた女官が、生徒手帳を広げ目を見開いた。
「これは……文字ですか?」
「はい」
「文字を扱えるということは、あなたは神官なのですか?」
加奈は、短く瞬きした。
「それとも呪術師ですか? もしやこれは……呪いの書?」
スカートの長さだの髪は黒か紺のゴムや紐で結べだの、やたら細かい服装規定が記された生徒手帳は、女子高生に対する呪いの書には違いない。
「はい」
自信を持ってうなずくと、女官は「ひゃあ」と叫び手帳を放り出す。満月のような顔が恐怖に引きつり、怖ろしそうに加奈を見た。
「の、呪い……どのような?! 王宮に異国の呪いを持ちこむなど許しませんよ!」
「持ちこんでませんけど」
女官の華やかな黄色の裳をちらっと見て、加奈は生徒手帳を拾い上げる。
「呪いの書を、そこに置きなさい。蛇眼様……は牢におられるから駄目ね。焔氏様に……無理ね、お忙しい方だし。とにかく誰かに呪いを消して貰いますから、そこに置いておきなさい」
木のテーブルに手帳を置き、振り返ると女官はぎくりと体をこわばらせる。
加奈は、懸命に頭を働かせた。そういえば国語の時間に、漢字の元は絵文字だったと教わったっけ。太古の人間は、文字の一つ一つに力が秘められていると考えていたらしい。
シギでも、そう考えられているのかも知れない。だから文字を扱うのは、神官か呪術師だけなのかも。その辺りのことを利用して、ここから逃げ出せないだろうか。
黄櫨も緑青もいなくなり、烏流が仲間だったのは期間限定のことで、頼れるのは自分だけになってしまった。
とにかく、火あぶりだけは避けないと。最低限、それだけは自力でやってのけなければ。そのためなら、嘘八百、ごますり、褒め殺し、おべっか、何だってやってのけよう。何でもやらなきゃ自分を守れない。
「実を言うと呪いよりも、そのう、そう、祝福を与える方が得意なんです。運勢を良くするとか、美しい人をもっと美しくするとか、頭が良くなるおまじないとか」
そんなおまじないがあればとっくに使ってるわと思いながら、加奈は必死に出まかせを並べた。女官を味方に引き入れられたら幸運、駄目でもともとだ。ふくよかな女官は疑わしそうに加奈を見つめ、生徒手帳を見やり、視線を泳がせ、再び彼女を見る。
「異国の者など信用できません。これより宝蘭様のもとへ参ります。宝蘭様はタリム族の女性の中で最高位におられる方で、後宮の責任者です。くれぐれも無礼なきように」
がっかりした加奈の前に立ち、女官は歩き出した。廊下は迷路のように入り組み、天井近くにある細長い窓から仄かな月明かりが差し込んでいる。目が慣れたせいか、加奈はさほど暗いとは思わなくなっていた。石壁に木の扉が並び、加奈と女官が通り過ぎると静かに開かれる。
「……新入りが来たよ」
「見かけない子だけど、誰?」
ひそひそ声が聞こえ、部屋の中にいる少女たちが扉の僅かな隙間から覗き見る。
暫し歩くと、ひときわ大きな木の扉が現れた。アーチを描く二枚扉には植物の図象が彫られ、中央に青銅の輪が付いている。女官が輪を持ち上げ、手を止めた。
「……痩せられる?」
「え?」
輪を握ったまま、丸顔の女官は加奈を振り返り見た。
「今すぐ手っ取り早く、痩せる呪文をかけられる?」
「え、……ええ」
いきなり言われても――――何の呪文も思いつかない。そうだ、歌なら――! 流行りの曲は軽快過ぎて、呪文には相応しくない気がする――――。加奈は焦りをひた隠し、真っ先に思いついた軽快でない歌を低音で重々しく歌った。
「さくら~、さくら~、やよいの空は~」
何やってんの、わたし。しかも、空は~の後が思い出せない。どうか疑われませんように。バレませんように。
音階を伴った呪文はどうやら受け入れられたようで、女官は真剣な面持ちで聞いている。加奈は心中を露ほども出さず真面目な顔を取りつくろい、威厳をもってうなずいた。
「終わりました。あなたはきっと美しく痩せられます」
「ありがとう……。奉納品は……ないんですけど」
急にモジモジし始めた女官の様子が可愛らしく、信じてもらえた安堵感もあって、加奈は微笑した。
「いいんです。あなたがさらに美しくなってくれたら、わたしも嬉しいから」
女官は二十歳ぐらいに見え、顔を赤らめている。好きな男性がいるんじゃないかなと思いながら、加奈は本心から彼女の想いが叶いますようにと願った。……さくらさくらで痩せられる望みは、かなり薄いけど。
女官が青銅の輪で、コツコツと扉を叩く。痩せて顔色の悪い別の女官が顔を出し、加奈だけが室内に押しやられた。
 




