4 龍宮 ⑥
「宝玉が失われておるな……」
タルモイは獣杯を回しながらつぶさに眺め、丸い穴の開いた箇所を指さした。
「わしの記憶では、ここに翡翠があったはずだ」
もしかしたら――――。加奈は、胸ポケットから翡翠を取り出した。獣杯の穴に翠の宝玉がぴたりと収まった途端、洞窟の気温が一気に下がる。ぐるるる……と地の底から這い上がるような獣の唸り声が響き、不穏な気配が漂った。タルモイが翡翠をつかみ出すと唸り声は唐突に止み、冷たい空気だけが残る。
「この翡翠を、どこから手に入れたのだ」
「鈴姫さんから預かったんです。……翡翠が獣を呼ぶんでしょうか?」
「ただの飾りでない事は確かだな。わしも詳しくはないが、灰悠は翡翠を取りはずすことで獣の流出を止めたのかもしれん」
老人は翡翠をためつすがめつし、加奈の手に戻す。翡翠がスイッチの役割を果たしているのかもしれないと、加奈は想像した。
「話は後だ。獣杯をもとに戻せ。焔氏の手下どもが山道を登って来る。外にいる俺のカラスが騒いでいる」
烏流が微かな気配を探るように首を傾け、鋭い視線をタルモイに向けた。
「戻すことはできん。戻すには、結界を作り直す必要がある。わしにそのような力はない」
「隠れる場所はない? 入り口を通らずに、ここから逃げ出す方法は?」
緑青の問いかけに、族長は首を横に振る。
「どこに隠れようとも獣に見つけられてしまう。龍宮の出入り口は一つしかない」
「なら、手段は一つだ。入り口から出よう」
烏流が言い、一行は慌てて龍宮の入り口に向かった。松明を持ったキクリを先頭に、来た道を戻って行く。
「間に合いそうにないな。焔氏の手下どもは、入り口近くまで来ている」
烏流が言い、加奈は必死に考えた。獣杯が焔氏の手に渡ったら、シギの住民は救われない。何としても焔氏に渡してはならない。
「獣杯に似た陶器はない? すり替えて、本物をどこかに隠したらどう?」
「陶器ならあるよ。獣杯には似てないけど、焔氏の手下どもは獣杯を見たことがないはずだから、誤魔化せるかもしれない」
キクリが言い、烏流が言葉をつなぐ。
「その間に俺が、蓮婆のところへ持って行こう」
「駄目だ。蓮婆はシギの覇者になる気だ。そんな邪な者に獣杯は渡せん」
タルモイの言葉に、烏流の目が危険な色に染まった。細められた琥珀の目が、タルモイの抱える獣杯に注がれる。
「ならどうする? おまえが獣杯を所有するつもりか」
「わしが蓮婆と話し合おう。すまんが烏流、蓮婆をここに連れて来てくれ」
「俺を使い走りにする気か!」
「やめろよ。獣杯より加奈の身の安全だ。加奈をここから逃がすには、どうすればいい?」
緑青が言い、先頭を進むキクリが振り返る。
「入り口近くの洞窟に隠れればいい。あたしが口実を作って、焔氏の手下どもを鍾乳洞の奥に誘い込むから、その隙に外へ出ろ」
「そうするしかないのかな」
緑青は渋い顔つきで応え、翡翠をどうすればいいだろうと加奈は考えた。もしも捕えられたら、翡翠は取り上げられてしまう。自分が持っているより、誰かに預けた方が安全かもしれない。でも誰に預ければいい?
翡翠のことが耳に入ったら、タルモイやキクリも調べられるに違いない。所持品検査をされる可能性が最も低いのは烏流だけれど、彼を信用していいんだろうか。
「俺と緑青と加奈の心配は無用だ。族長たちは獣杯を頼む。焔氏の手下どもをうまく騙してくれ」
黄櫨が言い、族長の部屋近くでキクリが立ち止まる。
「では、ここでお別れだ。上手に隠れろよ。無事でな」
加奈は心を決め、烏流に歩み寄った。翡翠を差し出すと、彼は戸惑いの表情を見せる。
「あなたに預けます。今度会う時まで、大切に持っていて」
「馬鹿言うな。俺は、おまえと一緒に行く。おまえを殺す楽しみを、他の男どもに横取りされてたまるか」
「烏流は、にせの獣杯を焔氏の手下に渡す役だ。族長やキクリより、烏流の言葉を連中は信じるだろう。だが加奈、翡翠を渡すことに俺は賛成できん。成行きはどうあれ、烏流はタリムの一員だ」
「わたし達がもし捕まったら、持ち物を調べられるでしょう。烏流は焔氏の家来だから、調べられないと思うの。翡翠を託せる人はあなただけなのよ、烏流」
烏流は瞬きもせずに加奈を見つめ、詰めていた息をゆっくり吐き出し、彼女の掌から翡翠をつまみ上げた。
「……しょーがないな」
「お願いします。獣杯と翡翠を守って」
またお願いかよと、彼は呟いた。
入り口の方角から、騒がしい声が聞こえる。加奈たち3人は、扇状に広がった鍾乳洞の隅にある小さな洞窟に身を隠し、兵士たちが通り過ぎるのを待っていた。
「俺に考えがある。おまえらは、ここにいろ」
黄櫨は一人洞窟から出て行き、加奈の耳元で緑青が囁く。
「心配いらないよ、加奈。僕が命に代えても君を守るから」
「ありがとう……」
気持ちは嬉しいけれど――――。緑青がいつ猫に変化するか分からないことを思うと、彼に頼る気にはなれない。カラスに一呑みにされた子猫を思い出し、わたしが緑青を守らなければと腰に差した短剣の柄を握った。
複数の兵士らしい足音が近づいて来て、彼女の体が硬直する。緑青が、守るように彼女の前に立った。
きっとキクリが、うまく彼らを鍾乳洞の奥へいざなってくれる。彼らは隠れているわたし達に気づかず、通り過ぎて行くはずだ。そう信じる加奈の近くで足音は止まり、聞き覚えのある声が響く。
「ここだ。ここに生者の国の娘と緑青が隠れている」
えっ、まさか――――黄櫨の声? 似ているけれどそんなはずはないと、加奈は体をこわばらせた。
「いたぞ!」
兵士が声を上げる。加奈を守ろうと緑青が剣を抜いて切りかかり、兵士2人に羽交い絞めにされ足を振り上げて暴れた。
「加奈に触れるな! 黄櫨、これは何だ。おまえ、どういうつもりだ」
加奈は、松明を持った兵士たちに腕をつかまれ引きずり出された。煌めく乳白色の岩肌に男たちの影が揺れ、彼女の前に蓮婆が立っている。蓮婆の隣には、身なりと体格のいい男がふんぞり返っていた。
「他にも色々と、東胡様のお耳に入れたい貴重な情報があります」
男にうやうやしく頭を下げる黄櫨の姿に、加奈は目を見開く。黄櫨は、どうしてしまったのだろう。
「情報とは何だ」
「お人払いを。皆に聞かれては、貴重な情報ではなくなります」
緑青と蓮婆までが白い眼で黄櫨を見やったが、黄櫨は素知らぬ顔で東胡に自分を売り込んでいる。まさか――――まさか。心臓がどくどく嫌な感じに拍動し、加奈は兵士につかまれた腕を振りほどいた。
「黄櫨。……わたし達を裏切るの?」
「生き延びるためだ。悪く思うな」
「おまえ、そんな奴じゃないだろ!」
緑青の悲痛な叫びにも、黄櫨は平然としている。
「二度と死にたくないんだ。あんな思いは二度と御免だ。焔氏に燃やされるのも御免こうむる」
「その情報とやら、わしには話せんのか」
金髪の若者は、蓮婆に向き直った。
「東胡様だけに話す」
「得た情報は焔氏に伝えねばならんのだから、いずれおまえの耳にも入るだろう」
腕を組んだ東胡は奥まった小さな目を蓮婆に向け、蓮婆は嘲笑うように彼を見返した。
「どうだかな」
蓮婆が何故ここにいるんだろうと、加奈は東胡と蓮婆を交互に見た。2人は共謀して、獣杯を手に入れるつもりなんだろうか。仲良しには見えないけれど……。
黄櫨は何を考えているんだろうと、ひたすら東胡にすり寄る大柄な若者に視線を向けた。生き延びるために友達を売るような人だったんだと思うと、泣きたくなってくる。洞窟の奥から龍宮の住人達が列をなして現れ、タルモイとキクリと烏流が東胡に目礼した。
「獣杯は見つかったのか」
「獣杯……なぜです?」
東胡の詰問に、タルモイは大袈裟に狼狽した様子を見せた。
「話は蓮婆から聞いておる。生者の国の娘を使い、結界をくぐり抜けたのだろう。獣杯はあったのか。嘘をつくと、ためにならんぞ」
「これが獣杯だ。受け取れ」
背後にいた龍宮の住人の手から杯を取り上げ、烏流が前に出る。東胡に向かい、杯を突き出した。
(にせもの……)
加奈は、ごくりと唾を呑み込んだ。本物の獣杯と大きさは同じくらいだが、色も形も違う。薄茶色の、所々が欠けた粗末な代物である。東胡はともかく、蓮婆なら見分けがつくのでは……。
そっと伺い見ると、蓮婆は犬頭の杖を弄んでいる。烏流から杯を受け取った東胡は眉をひそめ、上から下から不審そうに眺めた。
「ずいぶん薄汚いな。本当にこれで獣を呼び出せるのか」
「それだけでは駄目じゃ。翡翠がいる」
蓮婆がつまらなそうに言い、加奈ははっとした。杯がにせものだという事に、蓮婆は気づいてないの? それとも気づいていない振りをしてるのかも……。
「翡翠? 聞いておらんぞ」
「わしらは、翡翠も含めて獣杯と呼んでおる。翡翠がなければただの杯、役には立たん」
「翡翠は、どこにある」
東胡に尋ねられ、烏流は肩を竦めた。
「見つかったのは杯だけだ」
「本当だろうな」
東胡の疑うような視線に晒され、烏流の気配が危険なものに変わる。腰に片手を置き、下から東胡を睨み上げた。
「俺が信用できないなら、自分で探せ」
「口を慎め、身の程知らずめが。タルモイ、わしに隠し事をしてはいまいな。この杯、どうも汚らしく見える。わしに嘘や偽りを言ってはいまいな?」
「そのような事は、致しておりません」
タルモイは慇懃に答え、東胡の隣で黄櫨が不気味な笑顔を作っている。
加奈たちは、引っ立てられるように龍宮の外に出た。龍宮の住人たちが入口に立ち、加奈たちを見送りながら口々に言う。
「神々のご加護がありますように」
「ご無事で。きっと姫神様が助けてくださる」
「あきらめるんじゃないぞ、加奈」
キクリの声がひときわ大きく響き、住人たちは兵士に小突かれながら鍾乳洞の中へ戻って行った。
火刑に処せられ苦しんでいるはずなのに、それでも他者を思いやることのできる人たち――――加奈の胸がじんと熱くなる。
月と星と白夜に見下ろされた山は黒く、細い一本道が闇に向かって続いている。これから何が起こるんだろう。わたしは、どうなるんだろう。シギの人々のため、わたしに何ができるだろう。
不安と恐怖が胸のあたりでとぐろを巻き、ひやりとしたものが咽喉までせり上がってくる。泣くまいと、加奈は歯を食いしばった。




