4 龍宮 ⑤
加奈は、鈴姫と出会った話をキクリに聞かせた。
「鈴姫……可哀相に。死んだ後も彷徨ってるんだね」
「何か思い残したことがあるみたいなの。灰悠が鈴姫に結婚を申し込んで、でも鈴姫は守礼が好きだったから断ったって黄櫨と緑青から聞いたんだけど。そのあたりの事が関係してるんじゃないかと思って」
「結婚……うーん」
キクリは、困ったように首を傾ける。頭頂で結んだ癖のない黒髪が、褐色の顔から胸にはらりと落ちた。
「鈴姫は守礼が好きだったと思うけど、恋愛感情があったかどうかは疑問だなあ。あの2人は赤ん坊の頃から神殿で育てられたから、兄妹みたいなものだよ。守礼は神官になるための修行に忙しくて、女の子に関心はなかったみたいだし」
「鈴姫さんは、どんな人だった?」
「清楚で可愛い子だったよ。我儘なところもあったけど、人が振り返るほどの美少女だったな……」
「灰悠さんは、鈴姫さんが好きだったの?」
「そうだね……。灰悠はいい奴だったし、女の子に人気もあったけど、鈴姫しか目に入らないみたいだった……」
何となく、キクリは灰悠と鈴姫について話したくないように見える。でも聞いておかなければ。他に聞ける人はいそうもない。加奈は、居ずまいを正した。
「鈴姫さんと灰悠さんの結婚は、決まらなかったの?」
「うん。シギ族長――シギ7部族を統べる、灰悠の父親が2人の結婚に反対してさ。そうこうしているうちに、タリムが攻めて来たんだ」
「灰悠のお父さんは、なぜ反対したの?」
「灰悠の母親が強硬に反対してるから、と言う者もいたけど。族長夫人は隣国ギラの族長の娘で、灰悠の嫁には同国人を望んでいたらしい。族長だって息子の結婚がシギの利益になるなら、その方がいいと考えるだろう」
「灰悠に政略結婚をさせるために反対した……?」
時代や文化が違っても、人間の考えることに大差はない。鈴姫は、大人の政略のために涙を呑んだのだろうか。鈴姫のあの涙は、悲しい失恋のせい? だとしたら、翡翠にはどんな意味があるんだろう。
その後、生者の国での生活についてキクリに話したが、彼女が理解できるよう説明するのは難しかった。テレビや携帯電話について話すのはあきらめ、食事や衣服の話をしていると、向こう岸に伝令の男がやって来た。男はタルモイ族長が呼んでいると大声で伝え、加奈とキクリは腰を上げた。
「タルモイさんは病気なの?」
滑らかな岩を踏みしめ、さわさわと流れ行く川を渡りながら尋ねる。
「気力が衰えてるんだ。骨のしもべ特有の病気と言えば、そうかも知れない」
「命にかかわるの?」
「たぶん……。骨のしもべは、気力が衰えると骨に閉じこもってしまうんだよ。焔氏の呼び出しを受けても、気力が無ければ骨から出られない。爺ちゃん、気骨のある人なんだけど。年とったのかなあ……」
「気骨のあるところとか、キクリさんはお祖父ちゃん似なのね」
「やだ、キクリさんだなんて。キクリでいいよ」
キクリが微笑し、加奈も微笑み返した。2人はほぼ同じ背丈で、体型も似ている。目鼻立ちのはっきりとした加奈の愛らしい顔に対し、キクリの鋭い切れ長の目と引き結ばれた口元は、気性の強さを如実に表していた。
対岸に、金緑の淡い光が見える。伝令の男がヒカリゴケを植え込んだ小さな陶器を首に掛け、待っている。隣に立つ緑青は、嬉しそうに小さな子猫を抱いていた。
「やったよ、加奈。僕の獣だ」
「そんなちっぽけな奴、すぐ喰われちまう」
烏流が憮然として呟き、加奈の顔がほころぶ。何だかんだ言いながらも、烏流は緑青に獣の扱い方を教えたのだ。
「これから大きく育てるよ。数を増やしてもいい。その為にはこいつに餌をやらなきゃならないから、カラスを1匹くれ」
「ふざけるな」
「頼むよー、烏流ちゃーん」
「肩を撫でるなっ、気色の悪い」
「くれよー、1匹でいいからさー、くれよー」
「ほらよ」
烏流の黒い外套から、1匹のカラスが飛び出した。
「おおっ、ありがと。おまえ、いい奴だな」
緑青は喜び勇んで子猫を地面に下ろし、押しやる。急降下したカラスの口ばしが大きく裂け、子猫を一呑みにした。
「あああっっ!! ……く、喰われた……。猫が……僕の初めての獣が……喰われたぁぁっっ」
がっくり膝を突く緑青。満腹になったカラスは悠々と飛びながら烏流の体内に戻り、烏流は呆れ顔で緑青を見下ろした。
「言っただろ、すぐ喰われるって。こういう世界なんだから早く慣れろよ」
「何も喰わなくたって……喰わせてくれるんじゃなかったのかよっ」
「俺がそんなに親切なわけないだろ」
哀れなほどしょげ返った緑青を振り返り見て、加奈は溜め息を呑み込んだ。弱肉強食の世界――――。烏流が言うように、慣れて生きて行くしかないのかもしれない。
加奈一人がタルモイに呼ばれ、金緑に輝く族長の部屋に入る。彼は変わらない姿勢で大岩にもたれ、正面に座る彼女をじっと見つめた。岩場から差し込む月光と輝く苔が、闇に浮かぶ老人の焼け焦げた体を照らしている。
「わしが怖いか?」
タルモイに尋ねられ、加奈は正直に答えた。
「……少し」
怖いというより哀しい――――。人の体は、何て脆く傷つきやすいんだろう。
交通事故の後、両親に対面した時のことを彼女は思い出し、ぽつりぽつりと口にする。体に白いシーツが掛けられ、顔だけを見るようにと言われた。車は完璧に潰れていたから、両親の体はきっとひどい事になっていたのだろう。
2人の顔は綺麗だった。眠っているようなという言葉があるけれどそういう風でもなく、青白く生気がなく魂が抜けてしまったような、作り物のような顔だった。涙は一滴も出ず、パパとママはどこへ行ったのだろうとぼんやり考えた。
「シギでは、人は生まれ変わると信じられている」
はっとして加奈が顔を上げると、タルモイは穏やかに微笑んでいる。
「かつてシギでは、人の命は軽んじられていた。何度でも生まれ変わるのだから、一つの体に固執する必要はないと言われてね。敵を呪殺したり天候を占ったり神々に願望を届ける時、神官は何のためらいもなく人の命を使った。生贄を捧げるという形で。今ではそんな考えは改められ、一つ一つの人生を大切にしようとする風潮に変わったが」
「あなたも生まれ変わりを信じておられますか?」
「もちろんだ。前世の記憶はないが、幼い頃、一度だけ光の風を見たことがある。無数の命の光が風に乗り、朝焼けの空を東から西へと流れて行った。天の河に似ていたが、遥かに壮大で厳粛な眺めだったよ。そういう神秘体験をすると命や魂は崇高で貴重で、肉体のように簡単に傷ついたり失われたりするものではなく、永遠性を持つと信じられる」
「光の風ですか。……雨ではなく?」
加奈が大河での体験を話すと、老人は嬉しそうに目を細めた。
「あんたも体験したか。いいものだろう? あんたには、神官としての素養があるのかもしれんな。神官は天から降る光の雨、大地から立ち昇る光の陽炎、空を行く光の風を見る。光こそが命本来の姿だ。輝く命の世界にあるのは幸福感だけ。至福の歓びに包まれ、命は果てしない空を旅する。そして雨となって大地に降り、眠る。夢を見るために」
「夢……?」
「夢の中で人や動物や植物となり、様々な体験をする。夢の中で知る。幸福感以外のすべてを。幸福の対極にあるもの、不幸、哀しみ、あるいは死を。目覚めた時、夢は記憶となって命に刻まれる。命は再び至福の世界に戻り、旅を続ける」
加奈の頭の中で、解けないパズルがぐるぐる廻っていた。生きるとは夢を見ること、死とは目覚めることだと彼は言いたいのだろうか。両親の死後、確かにわたしは夢を見ている気分だけど……。
「信じられんかな? シギの神官は夢の中にありながら目覚めを体験し、至福の世界へと到達する。高い能力者でなければ為し得ず、わしは残念ながら能力が足りず体験できなかったが……。あんたの御両親は今頃、空を行く光になっておられるだろう」
そうであってほしいと、加奈は心から願った。光になった両親が風に乗り空を飛んでいる姿を思い浮かべると、心がなごむ。時にはわたしの事も思い出してくれているだろうか。
でも……。本当のことは、誰にもわからない。両親は亡くなり、どうしてわたしは生きているんだろう。死ぬ人と生き残る人の違いって何だろう。わたしは生き続けていいんだろうか。シギに連れて来られたのは、わたしへの罰なのかも。
「この国には、どうやって来たのかね?」
老人は、穏やかな視線を彼女に向けている。『桔梗の間』で鈴姫に出会い、守礼の舟でシギに来たことを加奈は手短に話した。
「姫神が、あんたを選んだ。だとすれば、わしらも敬意を尽くさねばなるまい」
タルモイは顎を撫で、まっすぐ加奈を見据える。
「この龍宮に一か所だけ、古の結界に守られた場所がある。まさかの時に『記憶の鏡』を保存できるよう、大昔の神官が作った場所だ。獣杯が隠されているとしたら、そこしか考えられんが、何度行っても見つけられなかった。獣に憑かれた者には穢れがあり、結界に妨げられるのかもしれん。行ってみるか?」
「はい」
加奈はうなずき、よろよろと立ち上がる老人に手を貸した。彼が怖いとも不気味とも思わなくなっていた。
「神々のご加護を」
「姫神様が、きっと守ってくださる」
人々の声を背に受けて、松明を手にしたキクリを先頭にタルモイ、黄櫨、加奈、緑青、烏流が縦に並び、鍾乳洞のさらに奥へと向かう。キクリは獣杯を探すことに不満な様子だが、族長の決定には逆らえずに無言で歩いている。
全員がヒカリゴケを植え込んだ陶器の首飾りを首に掛け、おぼろな光の中に白い洞窟が淡く浮かびあがる。冷たく静かな世界を進み、やがてドーム状の洞窟にたどり着いた。
丸みを帯びた天井の下で、高さ30cmほどの9本の案山子が地面に差し込まれ、円を描いている。ふっくらとした形に編まれた案山子は内部が空洞で、アシブ神殿の周囲にも人の背丈ほどの同じ案山子が立てられていたっけと加奈は思い出した。
「案山子が立っていますね……」
「わしらはギルと呼んでいる。葦で作られているからだ。大昔はギルの中に生きた人間を入れて焼き、神への捧げ物とした。今ではそんな風習は廃れ、形だけが残っている」
タルモイの説明に、加奈は青ざめた。
「神官や呪術師はギルに念をこめ、結界を作り、守り神とする」
「そんな事ができるのですか?」
念――――念力。人間の強い意志が結界を作る。まるで超能力か魔法だ。目を丸める加奈を、タルモイは笑った。
「生者の国では、念は廃れてしまったのか。不自由だな。いや、その方が安全かもしれん。人の念は万物を造り万物を破壊し、使い方を誤れば凶器となる。結界の中に入ってみてくれんか。わしには何も見えんが、あんたはどうだ?」
案山子の周囲を、皆がぐるりと囲む。わたしにも何も見えないけれどと思いながら、加奈は円の中央に立った。地面は土ではなく、平たく硬い岩で出来ている。掘り起こせそうな場所はないかと丹念に見て回ったが、冷たい岩場が広がっているばかりである。
ふいに足の裏がかつんと鳴り、何かを踏んだ気がした。しゃがんで滑らかな岩に触れると指先がぴりぴりと痛み、火花が飛び散る。岩から白い光が溢れ出し、加奈の手を包んだ。
「あっ……」
光に目が眩み、手が何かに触れる。杯――――。薄れゆく光の中に、古く黒ずんだ陶製の杯が現れた。緩やかな曲線を描く縦長の形が、植木鉢か花瓶を思わせる。模様も飾りもなく、質素で何の変哲もない杯である。
「何と! 獣杯だ……」
タルモイが駆け寄り、素朴な陶器を持ち上げる。加奈は獣杯が現れた場所を手で探り、この岩のどこにどうやって杯が隠されていたんだろうと首をかしげた。




