4 龍宮 ③
心の底で澱んでいた負の感情が、涙と共に流れ落ちていく。
加奈が顔を上げると、黄櫨と緑青が並んで膝を突き、心配そうな表情で見ていた。泣きやむまで待ってくれたんだと思うとまた泣きそうになり、彼女は目を拭う。
いつまでも泣いてはいられない。泣いている女の子なんか、さぞ面倒だろう。文句一つ言わずに思いっきり泣かせてくれた2人に、感謝の気持ちと同時に熱い思いがふつふつと湧き上がる。
2人は大切な友達だ――――。闘う気力が湧いて来て、加奈は立ち上がり、烏流と対峙した。
「お願いがあるの。緑青や黄櫨と喧嘩しないで」
自分のためだけじゃない。黄櫨と緑青の命がかかっている。加奈の必死な視線を受け、烏流は片頬を上げて苦笑した。
「何を突然。俺に指図する気か」
「いいえ、警告です。あなたは強い獣を持ってるんだから、緑青や黄櫨を殺すことだって出来るでしょう? でもそんな事をしたら、わたしの血を全部どこかその辺で捨てます」
息を呑む音が背後から聞こえ、黄櫨か緑青が驚いているのだと思ったけれど、加奈はかまわず烏流を見据えた。
「どうやって」
「方法なんて何とでもする。心臓を切りつけるとか、首を切るとか……」
言いながら、自分の言葉に背筋を震わせた。緑青が、焦った口調で言葉を挟む。
「加奈、ちょっと待って。君に死なれたら、僕や黄櫨の立場がないよ」
「緑青も黄櫨も、二度と烏流と喧嘩しないで。ただの喧嘩ではすまないんだから」
「確かに、次は喧嘩ではすまなくなるな。俺の獣は、人間を喰いたがってる」
さり気なく言い放ち、烏流は加奈に鋭い視線を送る。
「血を勝手に捨てるなど、俺が許さない」
「いやよ。血飛沫が好きとか、わたしを殺したいとか言ってたけど、あなたには一滴もあげないし、どうしても死ななきゃならない時は一人でこっそり死にます。喧嘩しないと約束してくれるなら、考え直してもいい」
「おまえは一度しか死ねないんだぞ。その貴重な一度を、捨てるだの自死だのと。おまえを殺すのは俺だ。俺は殺したい時に殺したい相手を殺す。今すぐ切り刻まれたいか?」
「あなたは賢い人だから、そんな事はしない。わたしに獣杯を探させる間は、わたしを傷つけない」
烏流はやれやれと首を振り、凄みのある美しい顔を彼女に向けた。
「とにかく、獣杯を探してもらおうか」
「約束が先よ」
「俺がそんな約束を守ると思っているのか」
「守らないなら、わたしは自分の血を他の男にあげます。あなたみたいに血が大好きな男は、他にもいるんじゃない?」
大切な友達を守りたい。唯一の武器が自分の命なら、それを利用するまでだ。加奈は、瞬きもせずに烏流を見つめた。
「他の男だと……ふざけるなっ!!」
烏流は怒鳴り、目で彼女を殺せそうな勢いで睨み返す。緑青がぷっと吹き出し、烏流と目が合い、慌てて顔を逸らした。
「何がおかしい」
「どう考えても、おまえの方が分が悪い」
にこりともせずに、黄櫨が言う。
「シギにいる者の中で、獣に憑依されていないのは加奈だけなんだろう? 獣杯の結界をくぐり抜けられる可能性があるのは、加奈だけ。獣杯が見つかるまで、おまえは加奈を殺せない。そのうえ血を流せるのも加奈だけ。おまえは加奈に頭を下げるしかない」
「必ず俺に殺させると約束してもらおうか」
烏流は牙を剥いた獣のような表情を加奈に向け、彼女は首を振る。
「できません。野原で血をまき散らさないこと、他の男の人に殺させないこと。約束できるのはそこまで。それ以上は、今後のあなたの態度しだいよ」
緑青が、こらえきれずに笑い出した。
「あきらめろよ、カラス。決定権は加奈にある。女の子に決定権があるのは世の常だ」
「決定権は力の強い者にある。俺はおまえら全員を殺すことが出来るってことを、忘れるな」
「でもあなたは獣杯を手に入れ焔氏を倒すまで、わたし達を殺さない。わたしが勝手なことをしないよう、わたしの頼みを聞いてくれる。目的を達成するためなら、多少の我慢はする人でしょ?」
烏流はぐっと咽喉を鳴らして黙り込み、悪鬼のような顔で加奈を睨みつつ、奥歯をぎりぎり噛みしめた。
「約束してくれる?」
彼女が言うと、額に五芒星を持つ美少年の噛みしめた歯の奥から、途切れ途切れに言葉が吐き出される。
「……期限を決める。焔氏がくたばるまでだ」
「一度口にしたことは守ってね」
期間限定でもかまわない。当面、命の取り合いがないなら良しとしよう。加奈がにっこり微笑むと、烏流は「ちっ」と舌打ちして目を逸らした。緑青が笑いながら言う。
「おまえから獣の操り方を教わるけど、もしも加奈に手をかけたら、おまえを八つ裂きにする。教えてくれた親切な奴を殺るのは心苦しいが、加奈を守ると誓った以上やむを得ないな」
「俺がいつ教えると言った? 八つ当たりとへつらいの後に脅迫が来て、今度はどうしようもない勘違いか」
「僕との殺し合いを楽しめよ」
「死なない奴と殺し合っても、少しも楽しくないんだよっ」
烏流は加奈たちに背を向け、激怒を地面に叩きつけながら大股で歩き出した。無言のまま3人は山道を登り切り、洞窟の前にたどり着く。人一人が屈んでやっと入れるほどの穴が、岩肌にぽっかりとあいている。加奈は、周囲を見回した。
「見張りはいないのね」
「いるさ」
烏流が指さした洞窟上部の岩場に、鷲が1羽とまっている。烏流の体からカラスが飛び出し、近くの木に降り立った。黄櫨が背負い袋から火打石を取り出し、松明に火を点ける。
「ここが龍宮? 龍が棲んでいたりするの?」
「大昔はいたらしいよ。翼の生えた龍が、姫神のお手伝いをしたっていう伝説が残ってる」
「今はいないの? 残念」
加奈は説明してくれた緑青に肩をすくめて見せ、洞窟の中を覗いた。真っ暗で何も見えない。押し寄せる冷気と共に苦しげな呻き声が聞こえて来て、ぞわっと鳥肌が立つ。底なしの闇は底なしの恐怖を呼び、後ずさる彼女の背を烏流が押した。
「獣杯探しの始まりだ。まずは、骨のしもべの燃えがらどもに挨拶だ」
「待って。青ちゃんも一緒に……」
「狼のこと? あいつなら、さっき消えたよ。狼の青ちゃんかぁ……」
緑青がくすりと笑い、狼を探す加奈を見て表情を引き締める。
「また現れるよ。今までだって、加奈が危機に陥ると出て来たんだから」
加奈はうなずきながら、諦めきれずに今一度振り返った。狼の温もりがどれほど自分を支えてくれたか、いなくなってみるとよく分かる。自分に鞭打ちつつ、彼女は悄然と歩き出した。
漆黒の闇の中を、1本の松明を頼りに奥へと進む。灯りだけが恐怖心を追い払ってくれるのだと、加奈は黄櫨にぴったりと密着した。黄櫨が不審そうに彼女を見下ろし、松明を掲げると光に揺らめく幻想的な光景が現れた。
高い天井から白い鍾乳石がつららのように垂れ下がり、金色に煌めく石灰岩が無数の柱の如く立っている。闇を背景に、透明に近い乳白色の壁が神秘の輝きを放つ。奥へ行くにつれ洞窟は広くなり、美し過ぎて怖ろしい眺めが延々と続き、やがて異様な気配が押し寄せた。
前方から、何体もの黒い体がやって来る。焼死した人間たち――――加奈にはそう見え、逃げ出したい衝動を必死に堪えた。扇状に広がった鍾乳洞の真ん中で、30人ほどの黒焦げの体が立ち並び、加奈たちを威圧する。
「何の用?」
美しい少女が前に進み出て、加奈は瞠目した。見覚えがある――――火刑に処せられた少女だ。
「よう、キクリ。久しぶりだな」
「挨拶をかわすような仲じゃないだろ。さっさと用件を言いな」
キクリと呼ばれた少女は龍宮の住人たちを背後に従え、烏流を見据えた。中背でほっそりとした体を灰色の巻き衣で包み、突き出した細い腕が炭のように黒く焦げている。褐色の顔だけは焼けておらず、きりりとした顔立ちが美しい。長い黒髪を頭頂で結び背に垂らし、きびきびした動作と口調は勇猛そうだが、組んだ腕が震えている。
無理をしてる――――。加奈は、とっさに悟った。震える腕を固く組み胸を反らし、少女は龍宮の住人を守ろうと必死に闘っている。
「獣杯を探しに来たんだ」
烏流が言い、キクリは「はっ!」と息を吐き出した。
「またか。無い物は、何度探しても無い。とっとと帰って、いい加減あきらめろと焔氏に伝えな」
「おまえ、そんな調子だから二度も焼かれるんだよ。タルモイを呼べ。おまえじゃ話にならない」
「爺ちゃんなら奥で寝込んでるよ。ここんところ具合が悪くてさ」
烏流の顔に剣呑な気配が浮かび、加奈は慌てて言葉を挟んだ。
「タルモイさんというのは……?」
「コタン族の族長だよ。キクリのお祖父さんでもある。久しぶり、キクリ」
緑青が言うと、キクリは黄櫨が持つ松明に近づき目を丸めた。
「緑青だったのか。黄櫨も。戻って来たんだね」
「ああ。タルモイに会わせてくれ。挨拶がしたい」
黄櫨を見上げ、キクリは大きくうなずく。
「いいとも。爺ちゃんも喜ぶだろう。……あんたは?」
「加奈と言います」
「加奈は、生者の国の住人だよ。僕らは生者の国から来たんだ」
緑青の言葉に、龍宮の人々がざわめいた。黒く炭化した顔の中で黒い瞳と白目がぱっと見開かれ、黄櫨の言葉と共に萎える。
「言っておくが、生者の国に渡るには守礼の舟を使うしかない。言いかえれば、渡る方法はないということだ」
「相変わらず人を喜ばせない男だな。希望はある、ぐらい言いなよ」
キクリの顔に呆れた表情が浮かび、黄櫨は咳払いした。
「舟は駄目だが、獣杯を使って焔氏を葬る方法がある。それについて、タルモイと話がしたい」
「どんな方法?」
「ここでは話せない」
「ふーん」
キクリは言いながら、ぴんと背筋を伸ばした加奈の周囲をぐるりと回る。黒い瞳に、好奇心がありありと浮かんでいる。
「生者の国の娘――加奈だっけ? 黄櫨、緑青。これら3名をコタン族長のもとへ案内する。だが烏流、おまえは駄目だ。爺ちゃんの具合が悪くなる」
烏流の顔に、薄笑いが浮かんだ。
「獣杯を使って焔氏を葬る話は、蓮婆から出た。蓮婆から直接話を聞いたのは、俺だけだ」
「蓮婆……? 蓮婆が何で焔氏を裏切るのさ」
「焔氏が邪魔なんだろ。それ以上のことは本人に聞け」
「あんたは? 何で焔氏を裏切るの?」
キクリの問いに、烏流はにやりとする。
「刺激が欲しいんだ。焔氏を殺せると思うと、楽しくてぞくぞくするよ」
「ふん。いいだろう、話だけは聞いてやろう。何かの策略だと分かったら、生皮ひん剥くからね」
キクリに従い、加奈たちは扇状に広がる鍾乳洞を突っ切った。奥まで行くといくつもの別の洞窟があり、その一つに入って行く。キクリ、黄櫨、加奈、緑青、烏流の順に狭い通路を歩き、龍宮の住人たちがぞろぞろとついて来る。
「足もとに気をつけて。ここら辺り、滑るから」
キクリが言い、加奈は慎重に歩いた。黄櫨が松明で足もとを照らしてくれ、危ない箇所に来ると教えてくれた。洞窟の至る所に崖や穴があり、加奈の足が竦みそうになる。煌めく鍾乳石の壁に加奈たちの影が揺らめき、龍宮の住人たちの胸元が金緑色に光っている。
松明の赤い炎と首飾りの金緑の光に守られ、少しずつ下降する道を地獄に向かって下る気分で進んだ。時折ひゅうと冷たい風が吹き、その都度加奈の心臓が止まりそうになる。
岩肌を静かに水が流れる場所まで来て、小さな洞窟に入った。どこからか外気が流れ込んでいるのだろうか、空気の流れが感じられる。天井近くに生えた苔が金緑色に光り、白い鍾乳石の壁を照らしている。
「ここで待ってて。族長に話を通して来るから」
狭い通路を曲り、キクリの姿は見えなくなった。




