3 姫神の里 ⑤
翡翠を胸ポケットに収める加奈を、緑青が横たわったまま心配そうに見上げる。
「加奈、おなかは空いてない? こっちに来てから結構な時間が経ったと思うんだけど、眠くない?」
「ううん、全然」
真夜中に家を出たはずなのに眠くなく、空腹も感じない。空と同じように自分の体内時計も止まってしまったんだろうかと思いながら、加奈はハンカチで緑青の顔に付いた泥を拭った。
緑青は、くっきりとしたオセアニア系の顔立ちをして、目が大きい。北方の血も混じっているのだろうか。きめ細やかな肌は抜けるように白く、緑の瞳が生き生きと輝いている。顔だけを見ると綺麗な女の子のようだけれど、じっと加奈を見つめる視線は女の子のものとは違う。
「……優しいんだね」
彼は嬉しそうに目を細め、ゆっくりと起き上がった。
「寝てなきゃ駄目よ」
「いいんだ。君と2人で話がしたい。黄櫨はいい奴だけど、あいつがいるところでは話せなくて」
緑青の緑の瞳が、しっとりとした光を帯びている。加奈の心臓がどきんと跳ね、目の前で真剣なものに変わっていく彼の顔を見つめた。
「加奈。好きだよ」
「え……?」
好き……? 好きにも色々ある。友達として、仲間として、恋人として。一度だけ、面と向かって「好き」と男の子に言われたことがあるけれど。……相手も自分も幼稚園児だった。
「ずっと好きだったんだ」
「ずっと猫だったじゃない? 話したこともないのに」
「話さなくても好きになることはあるよ。君は暖かくて居心地がよくて、心惹かれるものをたくさん持ってる。僕はずっと君と一緒にいたい。君のそばで、ぬくぬくしていたい」
暖かいとか居心地がいいとか、女の子を褒める言葉としてどうなんだろう。ぬくぬくだなんて、告白というより猫の願望だ。頭の中が猫のまんまじゃないのと言いかけ、ぎょっとした。
彼の視線が、唇に向けられている。緑青の唇が間近に迫り、加奈は後ろに下がろうとして尻餅をついた。
「ちょ、っと、待って」
「待てない。もう充分過ぎるくらい待ったよ?」
言った瞬間、緑青は消えた。
「フギャアッ!! フギャアアッッ!!」
膝の上に、彼が着ていた衣服が広がっている。黒猫が立ち上がり、無念そうに口惜しそうに彼女の胸を引っ掻いている。
「緑青……猫になっちゃったの? 元に戻れる?」
猫はうなずき、緑の瞳で彼女を見上げながら何かを懸命に訴えた。両脇に手を入れて持ち上げ、
「何をして欲しいの? もしかして……キス?」
加奈が尋ねると猫はぱっと目を輝かせ、ちぎれんばかりに首をぶんぶん縦に振る。
「猫になっても言葉が分かるの?」
再び首を振る猫に、加奈は堪えきれずに笑い出した。
「これはきっと天罰……あ、いえ、怪我をしてる時はおとなしくしてなさいという神様の思し召しね。おとなしく寝ていてね」
全力で首を横に振る猫を、そっと地面に置く。周囲を見回すとカラスは綺麗にいなくなり、自分と猫だけが山道に座り込んでいる。
黒猫は膝に這い戻り、甘えるように口角を上げて彼女を見た。彼女がよく知っている黒猫のココア――――。頭を撫でようとして、猫じゃないことを思い出し、手を止めた。
膝に乗っているのは、猫じゃない。男子だ。真実を知ってしまったら、今までのように撫でられない。何も知らずに布団に入れていたことを思い出し、熱くなった加奈の顔を猫は恨めしそうに見上げている。
「そんな顔をしても駄目」
金輪際、緑青を猫扱いするのはやめよう。どんなに猫の姿が可愛くても可愛がったりするまいと思う彼女の気持ちを知ってか知らずか、彼は加奈の膝の上で小さく丸まり横たわる。加奈は溜め息をつき、膝の上の衣服をたたみ始めた。
木立ちの間から黄櫨が戻って来て、猫を見下ろしにやりと笑う。
「おお? 怪我をしたのは尻だったかな」
尻尾をつかんで持ち上げ、ぶらぶら揺さぶる。猫は、血相を変えて暴れた。
「フギャアアッ!!」
「おい、引っ掻くのはやめろ」
黒猫を地面に仰向けに寝かせ、黄櫨は手にした草の葉を揉み、葉汁を胸の傷に滴らせた。
「包帯はないから、しばらくじっとしていろ。……これ。食べやすいだろうと思ってな」
黄櫨が加奈に差し出したのは、金柑ほどの大きさの蜜柑である。ほどよく熟した金色の果実から、爽やかな柑橘の香りが漂って来る。
「食べた方がいいぞ。必要なら、狩りもできるが?」
「ありがとう。これだけで充分よ」
皮をむき、小さな蜜柑を口に放り込んだ。噛むと甘酸っぱい果汁が舌の上を広がり、最後に何かを食べたのがずっと昔のことのように思える。ごくんと呑み込むと全身に力が行き渡った気さえして、食欲はなくても体は食事を求めていたんだなと思う。
「他に傷はないか?」
黄櫨は緑青と加奈に尋ね、自分の傷に葉汁を塗布した後、緑青の衣服を背負い袋に詰め込んだ。2人分の袋を背負い、黒猫を肩に乗せ、彼は立ち上がる。
「出発しよう。峠まで行けば、川岸を見下ろせるはずだ」
「うん……」
灯りがなくても歩けるほど山道は明るいが、陽光にはかなわない。昼間なら木々の間から遠くの景色が見えるのに、と加奈は鬱蒼と茂る森を見やり、隣を歩く黄櫨をちらっと見る。
大男と言ってもいい彼の立派な体格は、肩から膝まで黒っぽい布で覆われ、体が引き締まっているせいか細身に見える。筋肉の盛り上がった両腕が巻き衣から飛び出し、ごつごつした手は大きい。
彫りの深い顔立ちには、美男子の顔を岩から彫り出したような荒々しさと力強さがある。金髪と相まって黄櫨の顔は北欧人みたいだけれど、と加奈は首をかしげた。
タリム族は浅黒い肌を持ち、アラブ系の顔つきをしている。守礼はアジア系に見えるけれど、緑青はオセアニア系の顔立ちに白い肌と緑の目だ。そして黄櫨は北欧系?
シギは、どこにあった国なんだろう――――。
翡翠が光ったことや熊が消えたことを黄櫨に話すと、彼は記憶をたどるように首を傾けた。
「熊と言えば、思い浮かぶのはコタン族だが」
シギ族はシギ、コタン、ウガル、ミシャ等の7つの部族で構成され、各部族に固有のトーテムがあると彼は言う。コタン族は南方からシギに入った部族で、熊を部族霊にしている。
「各家にも、それぞれ守護神がいるんだ。タリムが攻め入った時の族長の家は、熊を守護神にしていた。ちなみに俺の家の守護神は、ケヤキだ。ケヤキは弓矢などの武具を作る、戦士にとって大切な木だ」
弓矢。トーテム――部族霊。シギの文化が、加奈には古めかしく感じられた。シギが生者の国から弾き出されたのは、いつ頃のことなんだろう。乏しい歴史の知識とこれまで見たシギの文化を照らし合わせても、年代を決められるような事物は思い当たらない。考え込む加奈を、黄櫨が横目で見る。
「年、いくつだ?」
「16よ。あなたは?」
「タリムとの戦が始まった時、18だった」
「緑青も?」
黄櫨の肩にこじんまりとうずくまる猫が、みいぃ~と鳴いて微笑を誘う。
「そうだ。俺が生まれた年は『子宝の年』と呼ばれ、多くの子供が生まれた。灰悠、守礼、睡蓮、君が見たというキクリもだ」
「鈴姫は?」
「大人名に変わってそれほど経っていなかったから、14ぐらいかな」
14歳……。小学生に見えたのは華奢で小柄だったからかと、彼女は美少女に思いを馳せた。
「鈴姫が姫神になった時、お母さんの李姫さんは引退されたの?」
「いや。李姫が亡くなったから、鈴姫が姫神に選ばれたんだ。あの年はナムタルが暴れ、鈴姫の真価が発揮された年だった。ナムタルというのは人間を滅ぼす力を持つ大悪霊のことで、病で大勢の人間がばたばたと死んで行った。周辺ではナムタルのせいで滅びた国もあったが、シギは鈴姫のお蔭で滅びをまぬがれた」
ナムタルとは、コレラやチフスのような伝染病のことだろうかと加奈は想像した。
「鈴姫はごく小さい頃から『記憶の鏡』を読み解き、その力は歴代の姫神たちをしのぐと言われた。ナムタルに対抗する方法を『記憶の鏡』から得て、鈴姫はシギを救った。が、すべての民が救われたわけじゃない。大勢の民がナムタルによって死者の国に連れて行かれ、その中には『子宝の年』の子供たちや李姫も含まれていた。……俺の母親も」
影が走る黄櫨の横顔を、彼女は痛ましい思いで見上げた。肉親を失くす辛さは、自分もよく知っている。
「ナムタルに代償を支払い、死をまぬがれた者もいた。歩けなくなった者、寿命を縮めた者。蓮婆は俺のお袋や李姫と同い年で30代だったが、ナムタルに支払った代償のせいで髪が白くなった」
蓮婆は60代に見えるのにと加奈は思った。後遺症のせいで、若さを失ってしまったのだろうか。
「ナムタルは一旦去ったものの、タリム族を連れて戻って来た。結局シギは、滅びる運命にあったのだろう。族長と長老たちが鈴姫を新しい姫神に選んだのは、タリムが来る2年前のことだ。通常は天兆を経るものだが、非常時ということもあったし、鈴姫の力はシギ族の誰もが認めるものだった」
「天兆って?」
「姫神が死去したら、その日のうちに女神官の中から次の姫神候補が選ばれる。候補者は7日間のうち1日を選び、正午に広場に立つ。シギ族の全住民が見守る中、神官たちが光の差し方、雲の形、風の吹き方などで天神の声を聞くんだ。天の兆し――天兆が強く現れた者が、姫神となる。俺が生まれる前の話だが、先々代が亡くなり、当時十代の娘だった李姫と蓮婆が候補に選ばれた。李姫が広場に立った時、雲の間から光が差したと聞いている。これは、吉兆なんだ。雨も吉兆とされている。蓮婆が立った時、空は曇り光も雨もなく風も吹かなかった。天神は声を出さず、肯定も否定もしなかった。天神は李姫を選んだという事になった」
「そうだったの……」
偶然に左右される選び方だなと加奈は思った。でも天の声なら誰も反対できないし、日を選ぶ以外に策を弄することも出来ないから、公平と言えるかもしれない。
「世襲制じゃないのね。姫神の娘だから、鈴姫は姫神になったんだと思ってた」
「世襲……という考え方は、シギにはないな。外敵が多かったし数多くの問題を抱えていたから、優れた者を指導者として選ぶ必要があった。族長も長老たちが選ぶんだ。タリム族は世襲の王を崇めているが、シギは何事も話し合いで決める。能力があれば族長までのぼりつめる事ができるというのは、俺たちのような若者にとって励みになる」
「族長になりたいの?」
黄櫨は、にやりと笑った。
「いや、俺に欲はない。ただシギに危機が迫り、俺でなければ出来ないとなれば、何でもやるだろうな」
「立派ね。あなたは弁も立つし、腕っぷしも強いし、指導者に向いてると思う。色々説明してもらったけど、すごく分かりやすかった。黄櫨はいい奴だって緑青も言ってたよ」
こちらの質問に全く答えない守礼なんかとは大違いだと、加奈は2人を比べた。
「緑青がそんなことを言ったのか。困ったものだ」
まんざらでもなさそうに、ほくほくと笑う黄櫨の顔を、黒猫が呆れた様子で見上げていた。




