3 姫神の里 ③
神殿地下にある通路は真っ暗で、ひび割れた石壁から地下水が沁み出ている。
「足もとに気をつけて」
松明を手に先頭を歩く睡蓮が言った。石畳のところどころに水溜りがあり、歩くとぴちゃぴちゃと水を弾く音がする。運動靴を履いて来て良かった、不幸のさなかでも探せば幸運はあるものだと加奈は思う。
松明の灯りだけが頼りの地下道を暫し歩くと、不意に睡蓮が立ち止まり、声を震わせる。
「……お願いが……」
「どうしたの?」
すぐ後ろを歩いていた緑青が、聞き返した。
「……伯母様に獣杯を渡さないで。理由は聞かないで。……お願い」
前を向いたままの睡蓮の声には、苦悩が混じっている。緑青は加奈と目を見合わせ、最後尾を行く黄櫨を見た。
「獣杯があれば、獣どもを封印できると蓮婆は言ったが。あれは嘘なのか」
「嘘だとは……いいえ、そう思ってくださってもいい。ただ、渡さないで」
黄櫨の言葉に振り返ることなく答え、睡蓮は松明をかざす。前方から足音が聞こえ、複数の人影がやって来る。
「あなた方、ここで何を……?」
「こんな事ではないかと待っていたんだ。やはり地下道からこっそり逃がすのか。俺たちには何も知らせずに」
「話を聞かせてほしい。舟はあるのか、ここから脱出できるのか。大事な話を蓮婆が独り占めするのは、許さんぞ」
アシブの住人が十三人、暗闇の中で立っている。一人は中年女性で、睨みつけるように加奈たちを見た。
「舟はないんだ。加奈は守礼にさらわれて、守礼の舟でこの地にやって来た。僕らは泳いで来たんだ。もう一度泳いで生者の国に戻れるかどうかは、分からない。戻れないかもしれない」
「何とかならないのか。方策はないのか」
「ない」
険しい顔つきでつめ寄る人々を、長身の黄櫨が見下ろす。
「何とかするのは俺たちではなく蓮婆の役目だろう。獣杯を持ち帰ってほしいと、蓮婆に頼まれたが」
「蓮婆に……獣杯だって?」
住人たちは奇妙な目つきで顔を見合わせ、うなずき合っている。
「何か問題でも?」
緑青はぱっちりとした目を細め、住人の一人が睡蓮をちらっと見て苦渋の表情で口を開いた。
「シギは、獣に支配されている。最も強く最も多くの獣を従えた奴が焔氏の体を乗っ取り、シギの王となった。蛇眼と東胡は焔氏の叔父だが、それぞれ大量の獣を持っている。その次の地位にいるのが、蓮婆だ。だが蓮婆が持っている獣は、俺たちに憑依した獣なんだ」
「つまり……?」
黄櫨が首をかしげ、中年女性が前に進み出る。
「獣にも、強い奴から弱い奴まで色々いる。あたし達に憑依した獣は、さほど強くなくて、蓮婆の獣に屈服したんだ。あたし達は、蓮婆に獣を取り上げられた。皆の獣を取り上げて、蓮婆は焔氏と取引きした。アシブを焔氏の為に治める代わりに、地位を保証しろと。焔氏は自分に絶対服従するという条件付きで、蓮婆をアシブの長にした」
「蓮婆はみんなを守ってくれないの? 獣を取り上げられたということは、今みんなは憑依されてないってことだろ? それは、いい事なんじゃないの?」
「とんでもない!」
別の住人が、緑青に反論する。
「焔氏に憑依した獣は人間を燃やすのが大好きだが、同じ獣を燃やすことは好まない。獣を持たない俺たちは、いつ燃やされ骨のしもべにされるかも分からない。蓮婆はいつでも焔氏に差し出してやるぞと俺たちを脅し、君臨している。この国じゃ獣を持たない者は、自分を守ることすら出来ない。こんなところから抜け出したい。せっかく生き残ったのに、これでは意味がない」
「守礼の舟を盗んで逃げることは考えなかったのか」
黄櫨が渋い声で言い、
「考えたさ」
と住人の男が吐き捨てた。
「あの舟は、俺たちの力じゃ動かせない。それに舟の周囲には獣がうろついていて、近づく者を喰ってしまう」
「おまえ達に期待したのに。ここから出る方法を知っていると思ったのに。いずれ俺たちは全員、焔氏に燃やされる。あの化け物のお楽しみのために」
男は涙を流し、加奈の胸がちくりと痛んだ。出来ることなら何とかしたい。でも――――どうすればいいんだろう。
「まいったな」
緑青は髪をかき上げ、黄櫨は無言で口を引き結んでいる。睡蓮が、低い声を響かせた。
「この人たちを行かせるしかないわ。止めれば、あなた方は伯母様か焔氏に罰せられる。皆がここに来たことは、誰にも言いません。だから騒ぎを起こさず、伯母様にも外にいるはずの鷲にも気づかれないうちに、この人たちを行かせて」
「そして3人とも焔氏に捕まる。逃げ出せる機会が訪れたと思ったのに。やっと逃げ出せると思ったのに」
男は人目もはばからず泣き声をあげ、加奈は唇を震わせた。何かをしなければ。このままでは人々は救われず、自分の身も危ない。炎に包まれたキクリの姿が脳裏に浮かび、咽喉元に何とも言えない不快な塊がせり上がってくる。でも、何をすればいいんだろう。
「道を開けて」
睡蓮の強い口調に、十三人の住人たちは左右に分かれた。中央を松明を持った睡蓮が進み、緑青、加奈、黄櫨が続く。
「助けてくれ。頼む」
哀願する声を背中で聞きながら、加奈たちは後ろ髪引かれる思いで地下道の出口に向かった。出口につながる階段の下で、睡蓮が呟く。
「伯母様はきっと、獣杯から獣を呼ぼうとなさる。獣を封じるのではなく、ご自分の獣を増やそうとなさる。だから……これ以上、獣を増やさないで」
「そんな……。もし獣杯を見つけたら、どうすればいいんですか?」
加奈が声をひそめて尋ねると、睡蓮は一つ目を痛ましく彼女に向けた。
「粉々に砕いて。二度と誰の手にも渡らないように。……お見送りはここまでよ。外に出たら焔氏の鷲に姿を見られてしまうから。さようなら」
――――さようなら。睡蓮の声が冷たく響くなか、加奈たちは水に濡れた階段を上がる。
黄櫨が天井を持ち上げると、丸い形に石の蓋が開いた。白夜の明るい光が差し込み、両腕を突っ張り外に出た彼は、加奈と緑青を引っ張り上げた。藪に囲まれた草地が広がり、木々の間からアシブ神殿が遠くに見える。
「どう思う?」
周囲を見回しながら緑青が尋ね、黄櫨は藪の切れ目を指さして口元を曲げた。
「一つ。シギに舟が一艘しかないという話が本当なら、タリムの奴らは守礼の舟近くで待ち伏せしているだろう。守礼以外の誰も動かせないなら、危険を冒してまで舟を手に入れる価値はない」
歩きながら、黄櫨は考え込むように視線を落とす。
「二つ。蓮婆が俺たちにとって味方なのか敵なのか、今の段階では分からん。昔っから、何を考えているのかさっぱり分からん婆さんだった。とはいえ獣杯は、手に入れる価値がある。使う使わないは別として、焔氏との交渉の役に立つだろう。三つ。智照は戦場の俺から少し離れた場所で、脳天に斧を食らった。頭蓋が割れ、中のものが飛び散るのを俺は見た。生きているはずがない」
「つまり……ここじゃ、死体が元気に動いているわけか」
「俺たちは皆、死んでる」
「それにしては心臓が動いて呼吸もしてるって、おかしくないか?」
「暖かいし……」
加奈は言いかけ、狐と猫を撫でたことを思い出し顔を赤らめた。
「自分じゃ分からないから、触ってみて」
緑青が手を差し出し、加奈が触れると生きた人間のような温もりがある。黄櫨も同じで、彼女は首をかしげた。
「2人とも、生きているように見えるけど?」
「しかし、記憶がなあ……」
「その記憶は、蓮婆が言うように夢だったんだよ。僕はだんだん自分が生きているような気がして来たよ」
緑青は目を輝かせ、目鼻立ちのはっきりとした顔に笑みを浮かべた。
「智照のことは、生死の境で黄櫨が見た幻だった。智照も僕も黄櫨も生きてるんだよ」
「うーむ」
納得できない黄櫨を尻目に、緑青は幸せそうな様子である。
誰だって自分が死んだとは信じたくないだろうと、加奈は思った。生きていると思いたい。死んだとは思いたくない。そんな気持ちが、シギを作っているのかもしれない。
黄櫨は困惑した表情で、空を見上げている。変わらない夜空を、1羽の鷲が大きな羽を広げ旋回していた。
「鷲が飛んでいるな」
「焔氏の鷲とかいう奴だろう。僕ら、完全に見張られてるよ。奴らの監視のもと、どこへ行く?」
「今のわたし達に出来ることと言ったら……舟を手に入れるか、隠れるか、獣杯を探すか、よね?」
「舟は欲しいなあ。本当に僕らでは動かせないのかどうか、試してみたいなあ」
「隠れる場所といったら龍宮ぐらいしか思いつかんが、今の龍宮は黒焦げの人間だらけ……」
黄櫨は言いかけ、加奈の顔を見て咳払いする。
「すまん」
「いいの」
加奈は、黄櫨に微笑を向けた。
「加奈を逃がすことが最優先だ。シギは僕と黄櫨の故国だけど、加奈は巻き込まれただけなんだから」
「そうだな。まずは守礼の舟近辺の様子を探ってみよう。本当に他の舟がないのかどうかも確かめる必要があるな。王宮に戻り、誰かを締め上げるか」
わたしを逃がす――――? 彼女は、首をかしげた。
「あなた方は? 一緒に逃げないの?」
「ここに残るよ。やっと故国に帰れたんだから」
「この憂うべきシギの現状を何とかせねばならん」
笑顔の2人を見ながら、加奈の心が暗く落ち込んでいく。正直に言ってしまえば、こんな所から早く抜け出したい。家に帰りたい。
でも自分だけが助かっても喜べない。無事に戻れたらその時はきっとホッとするだろうけれど、緑青と黄櫨は無事だろうか、自分に出来ることは本当に何も無かったんだろうかと一生悔やむことになる。
それに、あの少女。鈴姫は何を望んだのだろう。彼女の涙を思い出すと、いたたまれない。アシブの住人が流した涙を思うと、胸が痛くなる。わたし一人が助かって、シギの人々はどうなるんだろう。
でももしもシギに残ったら――――わたしに何が出来るだろう。短剣すら使えないんだから、黄櫨と緑青の足手まといになるだけだ。これまで悲惨な道ばかりを選んで来たせいか、自分の道を自分で選ぶことすら怖ろしい。また最悪の道を選びかねないと、加奈は重くふさぐ気持ちを持て余した。
桧の大木を縫うように登りゆく山道の脇に、白い岩がある。真ん中あたりが窪み、形が舟石様に似ているなと思いながら、通り過ぎた。森に挟まれた一本道は月と星に照らされ、金色に輝きながら遥か彼方まで続いている。永遠に続く夜。永遠の夜空。ひと時眺めるだけなら美しいけれど、そろそろ陽の光が恋しくなって来た。
「ここでは、太陽は出ないの?」
「どうだろ」
加奈につられ、緑青は空を見上げた。変わらない満月、変わらない満天の星と白夜。その煌めきと美しさが不安を助長する。
「生者の国に比べると、ここの方が僕には明るく感じられるけど……」
「おい、誰かいるぞ」
緑青の言葉は黄櫨にさえぎられ、加奈と緑青は黄櫨が見ている木の枝を見上げた。太い枝に、黒い衣服を着た男が立っている。男はひらりと地面に降り立ち、月光の下に姿を現した。
金茶色の長い髪を一つに束ね、三つ編みにして背中に垂らしている。琥珀色の目は涼やかで、額に五芒星の刺青を入れている。
美少年である。黒一色の外套をまとった彼は山道の真ん中に立ち、唇をぺろりと舐めた。
「美味しそうな血の匂いがする」
「ふざけるなよ」
黄櫨と緑青が、青銅の剣を抜く。少年が外套をめくるや黒いカラスの群れが吹き出し、黄櫨と緑青に突っ込んだ。2人は大木の樹幹に叩きつけられ、地面を転がって呻く。駆け寄ろうとする加奈の前に少年が立ち塞がり、言った。
「名前、加奈で合ってる? 俺は、烏流。無傷で連れて来いと言われてるけど、1回だけ殺らせてくれ」
羽ばたくカラスを衣のようにまとった美少年は、甘やかで凄惨な微笑を浮かべた。




