1 夜、川を渡る ①
この作品には、残酷な描写やグロテスクな表現があります。
ヒロインを除く作中の人名は、すべて当て字です。シュレイ(守礼)、コーロ(黄櫨)、ロクショウ(緑青)、ダガン(蛇眼)、リンキ(鈴姫)、エンシ(焔氏)などなど。物語の雰囲気上(というより作者の好みで)、現代漢字を使っています。
少女は、小舟に乗っていた。
藤崎加奈、16歳。セーラー服を着て、艶やかな黒髪を肩に垂らしている。愛らしい顔立ちだが、夜の川面を見つめる黒い瞳にはどこか寂しげな影がある。
小舟は船首と船尾が反り返った形をして、中央に立つ一本の柱にランプが吊るされている。青年が舟べりに立ち、長い銀色の櫂で水をかく。月光に照らされた水面に波紋が広がり、舟は音もなく進んで行く。
加奈は、舟を操る青年を見上げた。彼の瞳と長い髪は、光を帯びた海のような色。灯火に照らされた横顔が、幻のように美しい。
くるぶしまである青い長衣の上に黒い短衣を重ねた装いは、彼女の目には日本神話に出て来る女性の衣装にも見える。
若者の姿だけれど老成した目をし、生きた人間にしては神秘的だ。舟に乗せてくれた手は温かく、呼吸もしている。なのに亡くなった両親に会わせてくれると言う。
彼女は不思議な思いで、彼の白く長い指やきらきら光る衣服を見やった。何者だろうと思う。信頼できる人だと信じ舟に乗ったけれど、本当に信頼していいんだろうか。……今さら遅いけど。
年は幾つくらいだろうと、優美な顔を見つめた。17、8歳くらい? もう少し上?
「どうされました?」
青年――――守礼は、流れる視線を彼女に向けた。
「いえ、あの……」
彼の顔を穴があくほど見つめていたことに気づき、彼女は赤くなった。
「ごめんなさい。あなたは……死者なの?」
残酷な質問を投げかけてしまったと、尋ねた途端に後悔する。死者――。哀しく怖ろしい言葉を平気で口にできる自分も不思議だが、微笑を浮かべた彼はもっと不思議だ。
守礼は櫂を小舟に引き上げ、彼女のそばで膝をつき、空を見上げた。
「雨が降りそうですよ」
「雨……?」
雲一つない夜空に、丸い月が浮かんでいる。雨が降る気配はないけれどと思う彼女の上に、輝く雨粒が落ちて来た。
水滴ではない。光が大粒の雨の如く天から降り、おぼろに煌めきながら彼女の体を通り抜けて行く。手を上げると、掌で蛍のように光が舞う。
「生きてるみたい……」
「生きていますよ。この光はすべて、命ですから」
守礼は、夢幻の微笑を彼女に注いだ。
「死者の魂は月に住み、雨となって地上に降ります。地上に落ちた魂は植物に宿り、動物に食べられ、人間に宿る。やがて死期を迎えた魂は月に戻り、その繰り返しです。……信じていないでしょう、私の言葉」
「そんなことありません」
加奈は、むきになって首を振った。今、目の前で光が降っている。これをどう説明すればいいのだろう。
「川に降った命は、どうなるのですか? どこかに流されて植物に宿るの? この辺りに植物は見当たりませんけど」
「川は、すべての世界につながっています。あなた方の世界にも、死者の世界にも。……どちらでもない世界にも」
守礼の藍色の瞳に僅かな苦悩が走り、彼は長い睫毛を伏せた。
「どちらでもない……?」
「自分が死んだと認められない者の世界です。死者の世界にも行けず、生者の世界には戻れない、行き場のない者たちの国。それが、シギです」
光の雨は勢いを弱め、雪のように儚く舞ったかと思うと、唐突に止んだ。川面を覆った光の雨粒が、浮き沈みしながら月光を乱反射する。風がそよぎ、光の饗宴は川岸に向かって流れゆき、白い靄が立ちのぼって幽玄の光景をもたらす。
「わたしの両親も、死んだと認めていないんですか?」
「どうでしょう……」
守礼は、視線を水面から彼女に移した。
「翡翠を見せて頂けませんか?」
加奈はスカートのポケットから、ハンカチに包まれた宝玉を取り出した。大きさは小指の先ぐらい。月光に照らされ、深みのある翠の煌めきを放っている。彼は翡翠を手に取り、じっと見つめた。
「見覚えはありませんか?」
「ありませんよ」
守礼は微笑して石を返し、視線を彼女の背後に流した途端、表情を変える。これまでの優雅な雰囲気とは打って変わった冷たく厳しい表情に、加奈ははっとした。
振り返ると、川を泳ぎ舟を追いかけて来るものがいる。2匹の獣――狐と猫だ。金色に煌めく毛並と黒い頭が水面に見え隠れし、彼女はあっと小さく叫んだ。白い靄の間で、狐と猫は苦しそうにもがいている。
「乗せてやってください。溺れかけています」
「申し訳ありませんが、乗せることは出来ません」
守礼は、立ち上がった。
「彼らの心配なら無用です。彼らは死なない。死んだ動物霊なんですから」
その1ヶ月前、加奈は両親を交通事故で失くし、山里に一人住む祖母に引き取られた。15年余り住んだ家を朝早く出て、電車とバスを乗り継ぎ、祖母の家に着いたのは柔らかな春の夕暮れのこと。
都心から遠く離れた志希村は、文明に取り残されたように穏やかで、ぽっかり穴の空いた彼女の心を静かに受け入れた。
バス停で降り、幼い頃に何度か訪れた記憶を頼りに歩き出す。道路脇にも畑にも菜の花が一面に咲いていたけれど、何の意味もない景色として彼女の前を通り過ぎて行く。
昔は庄屋だったという祖母の家は広く、朽ちかけていた。傾いた屋根の所々で瓦が抜け落ち、苔がこんもりと張り付いて、はがれた土壁は格子状の竹とほころびた藁がむき出しになっている。
無口な祖母は何も言わず、ただ微笑んで彼女を迎え、新しい暮らしが始まった。
屋敷には部屋が20あるというが、殆ど使われていない。
「桔梗の間」だけは入ってはいけないと祖母に何度も念を押され、何があるんだろうと思ったけれど、尋ねる気にはならなかった。
何事にも興味が湧かず、転入した地元の高校も休みがちで、一日中部屋にこもる日々が続いたある日、祖母がぽつりと言った。
「舟石様の掃除を頼まれてくれんか?」
舟石様とは、村のはずれにある祠のことである。舟の形をした大きな石を覆うように木祠が立てられ、舟石様と水神様が一緒に祀られている。
桧の大木と新緑に埋もれた小道をバケツを片手に歩き、加奈は祠の前までやって来た。雲間から注ぐ光が木々をたゆたい、古ぼけた屋根にこぼれ落ちる。
扉を開け放ち、白っぽい舟石をせっせとブラシで磨く間も、思い浮かぶのはあの日のこと。あの日の朝、両親は届いたばかりの新車でドライブに出かけると言い出した。
「へえ。新婚さんみたい」
軽口を叩く加奈を軽く睨み、母親は言ったのである。
「帰って来たら、いい話があるから」
「何? 気になるじゃない。今言ってよ」
「帰ってから。ね、パパ」
いい話は、永遠に聞くことはなかった。その時見た両親の笑顔が、目に焼き付いて離れない。
久しぶりに汗だくになり心地いい疲労感を抱いて家に帰り、早めに布団に入るや眠気が襲って来る。珍しく寝つきがいいと思ったら、真夜中に目が覚めた。
窓から差し込む光に照らされた壁で、黒い影が踊っている。悲鳴をあげそうになり、風に吹かれる庭木の影だということに気づき、大きく息を吐き出した。
耳を澄ませると、風の唸る音に混じって女性の声がする。
「お願い……お願い……」
泣いているようなか細い声が聞こえ、加奈は頭から布団を被った。
哀願する声は途切れることなく頭に響き、眠れない。ベッドから這い出し、勇気を出して廊下に出た。カーテンの掛かっていないガラス窓から、仄かな明かりが差している。
隣の部屋の襖をそっと開くと、祖母が寝息を立てていた。静かに歩いているつもりでも木の廊下の軋む音が夜のしじまに響き、抜き足差し足で歩く。
声は、屋敷の奥の間あたりから聞こえる気がした。奥の間――――あの「桔梗の間」の周辺だ。嫌な予感は的中し、「桔梗の間」の引き戸の前で彼女は震えた。
引き戸には釘が打たれ、開け閉めできないようになっていたはずだ。その釘が抜け落ち、月明かりに照らされた廊下に散らばっている。誰が抜いたのだろう。祖母がそんな事をするとは思えない。
引き戸の向こうで物音がし、加奈は飛び上がった。何かを探しているような音だ。まさか――――泥棒?
こんな平和な村に泥棒がいるだろうか。いや平和な村だからこそ、都会からやって来る泥棒の餌場になる。
村の他の家と同様、祖母の家でも厳重に戸締りするということをしない。平和に慣れきった用心の悪さが、都会の泥棒を引き寄せるのだ。
加奈は気を引き締めて台所に向かい、祖母が使っている麺棒を手に取った。何もないよりはましだろうと麺棒を握りしめ、桔梗の間に取って返す。
奥歯を噛みしめ、震える胸をなだめながら、そっと引き戸を開けた。六畳一間の和室。家具はなく四方を土壁に囲まれ、小さな窓に厚いカーテンが引かれている。
部屋の中央に、闇に浮かぶ灯篭のように、少女が一人座っていた。