↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

孤児護り、アリーハック

作者: 音喜多子平
掲載日:2026/10/16

 初めは遠雷かと思った。


 斧を振り下ろした瞬間、樫の薪が中央から乾いた音を立てて小気味良く割れ、その裂ける音の向こうで、ずっと遠くの空が低く鳴ったような気がした。


 私は斧を薪台へ食い込ませたまま、顔を上げ、額の汗を拭った。


 庭の上には薄い雲がかかっていたが、雷を孕むほど黒くはない。反対に雲の隙間からは陽射しがあり、少なくとも空が荒れるような気配はなかった。加えて風は穏やかで、木々の梢もときおり気の抜けたように揺れるだけだった。


「聞き違いか……?」


 雨の心配はない。むしろ洗濯には絶好の日だ。


 そう思って庭の端を見る。


 桶の中に、昨日から水と洗剤に漬けっぱなしの服が沈んでいた。


「……今日こそ洗う」


 誓いか、呪いか、戒めか。


 口にしてみたが、どれほど効力があるかは定かでない。


 足元には先ほどから割った薪が十数本ほど積まれている。その向こうには、これから割る予定の丸太が三十本近く転がっていた。


 本来は朝食を食べる前には全部終わらせるつもりだったのだが、今の時刻は正午を過ぎている。


 そもそも起きた時点ですでに日はそれなりに高く、そのうえ昨日の豆煮込みを火へ掛けている間に本を開いてしまった。ほんの数頁だけ読むつもりが、章の途中で止めるのも気持ちが悪く、気づけば鍋底が焦げかけていた。


 どうにかしてそれを食べたあとに食器を洗おうとして、昼にも同じ皿を使うのだから二度洗う必要はない、と考え直した。


 食事の最中、洗濯と薪割りの仕事を天秤にかけると、結局は火のことを優先して斧を取ったのだ。


 いや、実際には天秤の皿に乗せなければならない仕事は他にもある。


 小屋の北側では外れかけた雨樋が壁へ斜めに垂れている。先日の雨で台所の窓辺が濡れたため直さねばならないのだが、それも三日前からそのままだった。畑では雑草が薬草より威勢よく伸び、窓の桟には指で字が書ける程度の埃が積もっている。寝台の毛布は朝に蹴飛ばした形のまま、片側だけ床へ落ちているはずだ。


 見るべきではなかった。


「……」


 私は丸太へ視線を戻した。


 そう言っても、気ままな一人暮らしだ。家事をさぼったからといって誰に叱られるわけでもない。


 今日できなければ明日やればいい。雨樋だって雨が降らなければ壊れたままでも問題はないし、埃で人はそう簡単には死なない。洗濯物も、水から上げて干しさえすればまだ間に合うだろう。たぶん。


 というよりも、こういう暮らしがしたくて私は実家を出て森へ来たのだ。


 朝起きる時刻も、食べるものも、服も、予定も、誰かに決められない生活。


 生家では、何をするにも理由が必要だった。


 魔貴族の娘だから。

 魔王様に仕える由緒正しき家の生まれだから。

 令嬢だから。

 将来は誰それの妻になるから。


 森へ来てからは、そんな束縛はない。薪を今日割ろうが明日割ろうが、誰にも説明する必要がない。


 すると、この地に来てできた数少ない知人との会話が頭に蘇った。謳歌している自由の素晴らしさを説いた時、あのハゲは、


『それは自由ではなく怠惰と言うんじゃないのか』


 と真顔で返してきた。


 余計なことを言う男である。


 私は斧を引き抜き、新しい薪を台へ立てた。これを割ったら、一旦は小休止と行こう。


 そう思って斧を持ち上げた時、再び音が聞こえた。今度は手が止まるほどにはっきりとした音で、先ほどより長く、そして低く、幹から幹へ染み込むように響いてくる。


 空から落ちてくる雷鳴ではない。


 そこでようやく気がついた。


 土と木の間を這ってくるような響き。これは音というよりも「声」だった。


「……アイツか」


 私は斧を振り下ろして薪を一撃で両断する。斧はその勢いのまま、台へ突き刺さっていた。


 手に自由を与えた私は、声の出どころと思しき北の方角へ視線を送る。


 声の主には心当たりがある。


 北の岩峰に近い谷。そこを縄張りにしている一頭の竜だ。


 竜という生き物は、世間が思っているほど騒がしくない。獅子や虎がそうであるように、強者は悠然と構えるものだ。


 少なくとも、アイツはそうだった。


 森の上を飛んでも翼が風を切る音の方が先に聞こえるくらいで、理由もなく吠えることはほとんどない。縄張りの縁へ鹿が入ろうが熊が入ろうが、いちいち声を上げるほど暇でもないらしい。


 そんな竜が啼くのは、大抵何かを伝える必要があるときだ。


 そこから先へ来るな。自分はここにいる。すぐに立ち去れ。


 とまあ、自分の存在を教えて無駄な争いを避ける場合だな。


 馬鹿な商人か、あるいは暇を持て余した腕自慢、もしくは経験不足の狩人にでも近づかれたのだろう。誰かが縄張りへ入り込んだだけなら、あの竜が自分で追い払うか食い殺すはずだ。


 別に助けに行こうとは思わない。私は斧へ手を戻した。


 そういうものは森では毎日起きる。自然の摂理という奴だ。


 鹿の縄張りへ別の雄が入り、鳥が巣を奪い合い、狼が熊の食べ残しを狙う。それと同じことだ。まして魔界生まれの私にとっては、人間の生き死になどなおさら関係がない。


 さあ、薪割りを再開しよう。早々に終わらせなければならない。その後は洗濯と皿洗い、それから昼飯に雨樋の修理もある。いや、皿を洗うのは昼飯を食べてからの方が一度で済むか。


 などと考えていると、三度目の咆哮が森を裂いた。


 今度は鼓膜を通り抜け、胸の奥まで響いた。


 私は動けなくなる。


 声の最後が濁ったからだ。太く伸びるはずの音が途中で折れ、喉の奥へ押し潰されたように消えていった。


 怒っているのとは少し違う。


 何というか…こう、苦しみ、痛がっている。さらに言えば、助けを求めている。


 そんな声だった。


 三度目の咆哮に感化されたのは私だけではなかった。


 庭の向こう側で木々が騒ぐと、それまで枝陰にいた鳥たちが一斉に飛び立った。黒い鳥も、灰色の小鳥も、青い尾を持つものも、普段なら互いに追い回している種類まで同じ方向へ羽ばたいていく。枝がしなり、葉が落ち、空へ無数の影が散っていった。


 次に茂みが大きく揺れ、一匹の角兎が飛び出した。その後から二匹、三匹と数が増え、続いて小鹿や尾長猫、野鼠、猪、果ては熊まで現れた。


 ありとあらゆる獣たちが私の姿など存在しないように庭を横切り、南へ逃げていった。


 何かが起きている。この様を見せつけられては如何せん、仕事が手につかない。


「……面倒だな」


 自分で自分の言葉を聞き流し、庭へ目をやる。


 薪はまだ山ほど残っているし、洗濯物は桶の中に沈んだまま、皿は流しに積まれ、床は汚く、雨樋は壊れ、畑も草だらけだ。今日やるべきことなら、いくらでもある。


 私は騎士ではない。


 森番《レンジャー》でも、正義の味方でも何でもない。


 誰かを助ける義務など一つもないのだ。


 しかし。


 聞かなければよかった。


 知らなければ、薪を割っていられた。


 だが、聞いてしまったものは仕方がない。このまま作業へ戻っても、一振りごとに北を見ることになる。洗濯を干しても、皿を洗っても、飯を食っても、次の声が聞こえるかどうかに耳を澄ませる。


 それなら見に行った方が早い。


 助けに行く、というほど大仰なものでもない。様子を見に行くだけだ。


 近隣の家で妙な音がすれば顔を出す。それは魔族でも人間でも変わりはしない。もしかすると、あの竜は今度はこちらにも降り掛かりかねない災難に見舞われているのかもしれない。


「言ってしまえば近所付き合いさ」


 私はぼやきながら小屋へ入ると、壁へ掛けていた長弓を取った。


 泥棒にでも入られたかのような住まいにあって、この弓だけが場違いなほど整然としている。


 床には昨日脱いだ服が転がり、流しには洗っていない皿が積まれ、窓辺にはいつ採ったのかも忘れた薬草が乾きすぎて茶色くなっているというのに、弓身には埃ひとつなく、弦には薄く油が引かれ、握り革にもほつれはない。


 指先で弦を弾くと、短く澄んだ音が返った。湿気もなく、張りも悪くない。昨夜寝る前に確認したばかりなのだから当然だった。


 皿は朝まで放っておける。洗濯物など二日くらい干し忘れても、洗い直せば済む。雨樋も、雨が降ってから困ればいい。


 だが弓は違う。


 この生活を始めてから今日まで、弓だけはとうとう手を抜くことができなかった。


 森では、獣も人もこちらが準備を終えるまで待ってはくれない。弦が湿っていた、矢羽根が曲がっていた、手入れを忘れていた――そんな言い訳を聞いてから襲ってくれるほど親切な相手には、まだ会ったことがない。


 私は矢筒を取り、一本ずつ指で確かめた。


「よし」


 矢筒を背負い、棚の革袋を腰へ付けていく。


 灰鷲の羽。

 追い狼の牙。

 夜蜘蛛の糸玉。

 洞熊の毛。

 そして、最後に森虎の爪。


 どれもこれも私の魔法に必要な触媒だ。竜の身に何かが起こった以上、用心し過ぎるということはないだろう。


 それに、戦いの道具だけでいいというわけでもない。薬箱、水袋、縄、短剣、外套と必要なものを揃えていくと、こうして並べている自分が少し可笑しくなった。


 寝台は朝の形のまま。洗濯物は水に沈み、流しには食器が積まれ、雨樋は直していない。昼に食べるものすら決めていないというのに、いざ森で何か起きたとなれば、弓も矢も触媒も薬も、考えるより先に必要なものが揃っていく。


 もっとも、好きで準備しているわけではない。


 備えを怠って死ぬのが嫌なだけだ。そして目の前で誰かが死にかけていると知りながら、準備不足を理由に何もできないのは…それ以上に後味が悪い。


 私は薬箱の留め具を確かめ、外套を肩へ掛けた。腰の革袋は歩いても邪魔にならない位置へずらし、短剣の柄が弓を引く動きを妨げないか、二度だけ腕を動かして確かめる。


 問題なし。


 鏡の前では髪を整える気にもならない女が、こういう時だけは妙に細かい。


「……優先順位の問題だ」


 今度は誰にも言い訳するつもりなく呟いた。


 そうして戸口へ向かうと、途中で何か柔らかなものを踏んだ感触があった。床へ落ちていた片方だけの靴下だった。


 一瞬だけ考え、器用に蹴飛ばして籠の中に入れる。それを片づけと呼ぶことにした。


 すると靴下の恨み節が聞こえたような気がした。


「……帰ってからだ」


 そう言って、私は家を出て北の森へ入った。


 ◇


 あの雌竜と初めて会ったのは、五年ほど前だった。


 北へ向かって森を歩いていると、そんな思い出が自然と蘇ってきた。


 森へ移り住んで、それほど経っていない頃だ。


 当時の私は、まだこの森のことを何も知らなかった。春になるとどの沢が増水するのか、冬にはどれほど雪深くなるのか。どこに毒草が群生し、どの獣道をどの動物が使うのか。そして、どこから先へ行くと人でない者の領分になるのか。


 毎日ひとつずつ、身体を使って覚えていた。


 そんなある日の夕方、森の奥から奇妙な音がした。


 金属が擦れる音。木の枝でも岩でも出さない、森の中では異質としか言えない音だった。


 ガチン、ガチンと繰り返される音を辿っていくと、谷と森の境目の岩山に一頭の雌竜がいた。


 後脚に巨大な投石器の綱や残骸が絡みついていた。


 恐らくは人魔戦争の最中の遺物だろう。耐火性の綱がまとわりつき、木材や石材の破片が鱗の隙間へ入り込み、その周りには乾いた血がこびりついていた。


 まだ森や獣の秩序と摂理などは考えもしなかった当時の私は、咄嗟に助けてやろうと要らぬ気を利かせた。


 ところが私を見つけた瞬間、竜は翼を広げて大口を開けてきた。


 馬も一口で飲み込める口だ。その喉の奥が徐々に赤くなっていく。


 竜の知識には疎いが、火を吐こうとしていることだけは容易に分かった。


 熱が頬まで届くと、私は立ち止まった。本能的に竜のセーフティラインがここまでだと悟ったのだ。


 互いに互いの目を見る。


 数十秒の見つめ合いの後、私は先に視線を逸らした。


「余計なことだったな」


 そう言って踵を返す。助けようとして焼き殺されるほど、私は物好きではない。


 だが、炎は飛んでこなかった。


 しばらく歩いたところで振り返ると、竜はまだ私を見ていた。口を閉じ、翼をたたみ、少々首を下げているようにも見えた。


「外してほしいのか」


 精一杯の声で問いかけるが返事はない。言葉を理解していないのは当然か。


 助けようが見捨てようがどちらでもよかったが、すでに関わってしまった負い目があった。


 再び踵を返して近づく。今度は威嚇されることはなかった。


 本当にあと少しというところまで来ると、竜の頭が私に寄ってきた。牙が擦れ、喉の奥の息遣いまで鮮明に聞こえる。


 竜はひくひくと鼻先を動かして、私の匂いを嗅いでいた。


「信用していないのはお互い様だ」


 私は弓を引くと魔法を使った。


 様々な獣の亡骸を触媒にして、矢に精霊を宿すというのが数少ない特技だった。


 虎の陰影を纏った矢は綱を噛み切り、投石器の残骸を打ち壊す。竜の脚や尾に刺さった木片や石を除いて持ち合わせの薬を塗ってやると、痛みからか少し鳴き、大きな頭を動かしてきた。


 私は短剣へ手を伸ばした。


 だが、竜は私を噛まなかった。


 鼻先を近づけ、髪の匂いを嗅ぎ、それだけで離れた。


「礼ならいらん」


 それがアイツとの馴れ初めであった。


 やがて近くに小屋を設け、森で暮らし始めたわけだが、時折その竜とは顔を合わせた。


 水を汲んでいると対岸へ降りてきたことがある。狩った鹿を解体していると、遠い岩棚から見ていたこともある。冬には小屋の近くに巨大な足跡が残っていたこともあったし、春には屋根の上を影が横切った。


 こちらから会いに行くことはなかったし、向こうもわざわざ寄ってくることはなかった。


 ただ森のどこかで互いを見つければ、視線だけで挨拶を飛ばした。それだけで十分だった。


 竜といがみ合う暮らしなど、金を積まれたって嫌だからな。


 そんな竜との付き合いだったわけだが、一度だけ小屋の近くへ訪ねてきたことがあった。


 視線か呼吸か、もしくは第六感か。私はアイツが薬草を欲しているような気がしてならなかった。


 特に困ってもいなかったので渡してやったが、翌日に庭へ大きな鹿の角が一本だけ置いてあった。


 礼だったのか。はたまた食べ残しだったのか。それは今でも分からない。


 処分する理由も見つからなかったその角は今となっては小屋の裏で、洗濯物を干す棒を支えている。


 友人と呼べるほど親しくないが、他人と言えるほど知らない間柄じゃない。


 そんな距離だった。


 私はそれが気に入っていた。


 森で暮らす者同士、必要なときだけ顔を見せ、必要以上には踏み込まない。人付き合いも、あれくらいなら楽なのだが。


 だから今日も、最初は様子を見るだけのつもりだった。


 怪我なら薬を置く。誰かが縄張りへ入ったなら…まあ追い返すのを手伝ってやらんこともない。


 それで帰れば今日が終わる。


 薪割り、洗濯、それから掃除は……できればする。明日になったって誤差の内だろう。




 ◇


 呑気にそんなことを考えていた。


 岩場に広がる夥しい量の血を見るまでは。


 ◇


 森と谷の境目辺りに大きな窪地がある。そこへ向かう道すがらに、赤黒い雫が落ちていた。


 一滴ではない。


 周囲の雑草や幹へ飛び散り、その下の土まで濡れていた。目を覆いたくなる惨劇だった。


 私はしゃがみ、指先へ血を付ける。


 まだ温かい。少し先には深い爪痕があり、樹木の根が抉られ、別の木は強引にへし折られている。


 そして血で濡れた土の上には、人間の靴跡がいくつも残っていた。


 一、二、三、四人……いや、五人分か。


 荷車の轍もある。


「迷い込んだ商人ではないな」


 足跡を追うと、森の香りの中に鉄と油の匂いが混じる。


 さらに進むと、その先の足元で何かが光った。


 太い鋲だった。


 長く、先端には返しがあり、黒い血が乾ききらず残っている。用途を考える必要もない。


 竜へ打ち込むものだ。


「……密猟者か」


 予想はしていたが、あまり認めたくはない結論を渋々言葉にする。


 それを理解した途端、歩調が速くなった。


 やがて木々の向こうから、かすかな気配が伝わってきた。


 竜のものではない。複数の人間が潜んでいる気配だ。


 私は灰鷲の羽を取り出した。


 指先に力を込めて魔法を行使すると、羽が灰へ変わって風に流される。残った魔力を矢に移し、空に向かって射る。


「見てこい」


 放った矢が鳥の陰影へと姿を変えると、私と矢の視界が繋がった。


 谷。道。窪地。


 荷車。檻。鎖。鉄鋲。


 血。


 五人の密猟者。


 そして…。


 見るも無残な姿となった竜。


 無意識に舌打ちしていた。


「……馬鹿が」


 私は弓を握り直した。


 ◇


 やがて窪地へ辿り着くと、その中央に竜がいた。


 伏せているというより、押さえつけられていた。


 翼を左右へ広げられ、骨の間へ太い鋲が打ち込まれている。そこから伸びた鎖が岩へ固定され、少しでも身体を動かせば、鋲が肉の中でさらに沈む。


 肩や腿、翼の付け根から流れた血は鱗の隙間を伝い、腹の下へ溜まっていた。


 呼吸のたびに鼻孔から煙が漏れる。


 火を吐こうとしているのだろうか。それならば、さっさと焼き殺せばいいものを。


 何故そうしないのかが分からない。


 あの密猟者どもは体捌きや装備から察するに、戦士や冒険者崩れには違いない。戦争が終わり、平和を得た代償に腕力や技を振るえなくなった輩がこうした闇稼業に手を染めるのは、近頃よく聞く話だ。


 見た目からして手練れなのは想像がつく。


 しかし、あの竜が遅れを取るとは到底思えない。


 一体何をしくじったんだ。




 答えはすぐ脇に置いてあった。


 輩の傍らにある鉄檻。その中に、小さな竜がいる。


 猫より一回り大きい程度で、まだ翼も角も頼りない。鉄格子へ前脚をかけ、母親の方へ身体を押しつけるようにして鳴いていた。


「きい」


 細い声だった。


「きい、きい」


 母竜が頭を動かす。


 そのたび鎖が鳴り、鋲の周囲から血が流れた。


「暴れさせるな!」

「毒をもう一本打っとけ!」

「いっそばらすか? 素材だけでも売れるだろ」

「いや。可能な限り生かしたまま連れて行こう。途中で腐っても面倒だ」

「仔竜の方は?」

「そいつは生かして持っていくさ。生きている竜なんてどれだけ値が付くか想像もできねえ」


 私はひどく冷静になり、敵の様子を見て戦いの算段を組み立てていた。


 弓が一人、魔術師が一人、剣使いが三人。その内の一人が指示役だな。恐らくは私と同じ…魔人族だ。


 土地勘や地理的優位は私に分がある。


 私は矢を一本抜いた。これは精霊術を使わない、ただの矢だ。


 弦を引き、放つ。


 矢は男たちの中央を通り、最奥にいた男の携えていた弓を砕く。法がなければ全員射殺していたところだが、私もお尋ね者になるつもりはない。余計な肩書を貰うのはごめんだ。


 悲鳴の後に少し遅れて混乱した声が聞こえる。


「だ、誰だ!?」


 全員が一気に臨戦態勢を取る。


 私が姿を見せると、竜の瞳が若干輝いたような気がした。


「密猟者に答える義務はない」

「れ、森番《レンジャー》か?」

「違う。職種で言えば、この森で隠遁生活中の無職だ」


 男の一人が眉をひそめる。


「なら関係ないだろ。すっこんでろ」

「そういう訳にもいかないだろ」


 私は竜を見る。


 竜も私を見ていた。


「森で暮らしていることに変わりはない。秩序を乱されるのは迷惑だ」


 男たちがざわめき、殺気が滲み出る。


 しかし指示役らしい男が片手を上げ、それを制止した。


「まあ待て」


 先ほどまでの乱暴な顔を引っ込め、口元だけを笑わせる。


「森番《レンジャー》じゃないなら、まずは話といこうや。取引だ、姉さん。退いてくれたら、いくらか払うぜ」

「……《《ひけば》》いいのか?」

「!」


 男の表情が明るくなる。


「ああ。話が分かるじゃねえか。金貨二枚で――」


 私は弓を持ち上げた。


 そして言われた通り、目一杯に弦を引き、矢を放った。


「ぎゃあ!?」


 腕を射貫かれた男が悲鳴を上げて倒れた。武器を持つ腕を封じれば、戦闘意欲も削がれるのは人も獣も変わらない。いや、獣の方がもう少しマシか。


 慌てて隣の者たちが武器へ手をかける。


「何してんだ、テメエ!」

「引けというから、思い切り引いてみたぞ」

「誰が弓を引けって言ったんだ! 見逃せって意味だ!」

「共犯者になれと?」


 矢尻を男へ向ける。


「なら断る。私に余計な肩書を付けるな」


 そこで交渉は終わった。


「殺せ!」


 剣士二人が武器を構え、魔術師は詠唱を始めた。


 私は再び木陰に身を隠すと、夜蜘蛛の糸玉を取り出した。さっきの魔法と同じように霊力を取り出すと、糸玉は灰になり、代わりに矢が力を纏う。


 敵の油断を誘うために、それを敢えて外したように放った。


 案の定、警戒を怠っている。矢は地面に刺さる寸前に蜘蛛の陰影を帯び、白い糸を吐き出しながら敵を襲った。


「な、なんだ!? こりゃぁぁぁ!?」


 悲鳴からの転倒が綺麗に決まった。蜘蛛は二人の剣士にすかさず襲い掛かり、巣に付いた蝶のように雁字搦めにしてしまう。


「う、うわぁぁ!」


 残された魔法使いが声を荒げながら杖を掲げる。


 すると杖の先が赤い光を帯びた。パニックになり、火力に優れた火の魔法を使うらしい。そんなものを引火しやすい森の中で使われたらたまったものじゃない。自滅するだけならまだしも、仲間と竜を焼き殺してしまう恐れがある。


「森で火を使うな」


 そんな恨み節を呟きながら追い狼の牙を取り出した。


 例によって灰と化し、矢に力が籠る。


 放つと同時に狼の陰影を纏った矢は、それこそ風のような速さで魔法使いの腕に噛みついた。


 ゴリッと骨の砕ける音を合図に、男は痛さからのたうち回り始めた。


「ぎぃやああぁぁ!」

「っ…!?」


 終わってしまえば一瞬の制圧だった。


 勝ち目はないと悟ったか、最初に弓を砕かれた最後の一人が荷車へ走った。向かってきてくれた方が易しかったが、まあ誤差の範囲だ。


 私は洞熊の毛を取り出して魔法を使った。


 正直、これは過剰だった。媒介は使えばなくなるし、タダじゃない。しかも持ち合わせている中では飛び切り上等な素材だ。


 それでも私は使っていた。


「逃がすか」


 男の前に熊の陰影が現れて行く手を塞ぐ。


 すぐに命乞いが聞こえてきた。


「ま、待て!」

「待っている」

「き、金貨五枚!」

「いらん」

「十枚!」

「いらん」

「なら何が欲しい!?」

「……静かな暮らしかな」


 これ以上の問答に付き合うつもりもない。私は膝へ矢を射った。


「ぎゃあああっ!」

「だから騒ぐな」


 そうして全員を一か所にまとめ、縄で縛った。奴らの持参した鋲を地面へ打ち込み、縄の端を固定しておく。


 死者はいない。殺せば調書が増えるし、場合によっては勾留され、犯罪者という肩書が増える。それは面倒だ。


 じきに森番《レンジャー》がやってくるだろうが、その前に荷車を調べておいた。言い逃れができないように。


 中から出てきたのは違法毒物に鉄鋲、鎖、偽造許可証。それに売買記録を記した帳簿と顧客リストまである。


 これだけあれば十分だろう。呆気ないとも言えるが、後の処遇は本職に任せればいい。


 次にやるべきことは決まっている。


 私は閉じ込められた仔竜の方へ目を向けた。


 錠前を外して扉が開いた瞬間、仔竜は私へ牙を向けることも忘れ、母竜のもとへ急いだ。


 飛び慣れていないのだろう。翼の動きがぎこちなく、ふらついている。


「きい」


 鼻先を何度も擦りつけて鳴く。


「きい、きい」


 母竜の目が開く。


 金色の瞳が嫌な色に濁っている。


 私は打ち込まれた鋲へ手をかけた。


「……抜くぞ」


 一本目を抜く。続けて二本目、三本目と引き抜くたび、返しが肉を裂いて血が流れ、その都度止血用の薬を押し込んでいく。


 …だが、効果は薄い。


 手を動かしながらも、感づいていた。


 間に合わない。


 血を失いすぎているうえ、考えなしに打たれた毒も全身に回っている。


 それでも手を止めなかった。止めれば、何もすることがなくなる。


「動くな」


 それは母竜ではなく、仔竜に向けて言った。


「きい、きい」


 仔竜が鳴く。あるいは私を敵だと思っているのかもしれない。


 するとその時、母竜が鼻から息を吐いた。


 暖かい空気が小さな身体を包むと、仔竜の声が止まった。だんだんと身体がふらつき、力なく地面に落ちる。


 さらにもう一度、母竜が息を吹きかけると、仔竜はその場へ伏せて寝息を立て始めた。


「……眠らせたのか」


 母竜は答えない。


 代わりに最後の力を使って、ゆっくりと前脚を動かす。


 爪が喉元の鱗の隙間へ入るのを見て、思わず声が出た。


「おい……!」


 竜が力を込めると、肉を裂きながら鱗が剥がれ、すぐに新しい血が流れた。


「何をしている!」


 母竜は鱗を地面へ落とすと、我が子をその上へ乗せた。そして鱗ごと鼻先で押して、私の方へ差し出してくる。


 眠る仔竜を見て、次に私を見る。


 私は動かなかった……いや、動けなかった。


 嫌な予感がした。


「待て……!」


 再び母竜が鼻先で仔竜を押した。


 間違いない。コイツは仔を私に託そうとしている。


「待て。そんなつもりはない」


 私は叫ぶ。


 だが、言葉が通じない相手に訴えたところで伝わるはずもない。


「余計な仕事を増やすな……おい」


 母竜の瞼が落ち始める。


「死ぬな! 話はまだ終わっていない」


 呼吸が浅くなった。


「私は竜の育て方など知らん!」


 返事はない。


「そもそも私は忙しいんだ!」


 薪割りに洗濯、掃除、雨樋の修理、それに畑仕事まである。自分一人の暮らしもままならないというのに、竜を育てる余裕などありはしない。


「今日は、お前の様子を見に来ただけで……」


 母竜が大きく息を吸う。


「こいつまで引き受けるとは言っていない」


 吐く息は、かすかだった。


「私に肩書を……」


 そこで、母竜の動きが止まった。


「……おい」


 呼びかけても、もう動かない。


 私はしばらく、その顔を見ていた。目は開いているのに、光を受け止めていない。


 谷を抜ける風が血の臭いをさらい、木々の葉を揺らした。逃げていた鳥が、遠くで一羽だけ鳴いた。


 私は眠っている仔竜を鱗ごと抱き上げた。


 軽い。


 それなのに、妙に腕へ重さが残った。


「……私に母親など務まるものか」


 母竜は答えない。


 仔竜も眠っている。


 私は鱗と仔竜を抱えたまま、しばらく窪地の中に立っていた。


 家を飛び出してこの森へ来たのは、誰かに役目を与えられないためだった。何者かでいることから逃げるためだったというのに、どういう訳か今は、母親を失った仔竜を腕に抱えている。


 まったく、思い通りにならないものだ。


 どうやら今日も、薪割りは終わりそうになかった。


 ◆


 窪地へ吹き込む風はまだ湿っており、血と土とすり潰された草の匂いをゆっくり攫っていた。母竜の身体から流れた血はすでに地面へ溜まり、靴底で踏めば水より重い音を立てる。


 密猟者たちはまとめて縛り、奴らが持ってきた鉄鋲を地面へ打ち込んで縄の端を固定してある。呻いている者もいれば、痛みと恐怖に耐えかねて気を失っている者もいた。


 この程度の覚悟しかない連中に殺された竜を思うと、やはり今からでも殺してやろうかとさえ思う。


 そんなことを考えているうちに、森の向こうから複数の足音が近づいてくるのに気がついた。


 獣ではない。


 枝を避ける位置が揃い、足を置く場所にも迷いがない。誰かが前方の根を踏めば後ろの者はそこを避け、湿った斜面を下る速度も一定で、重い装備を背負っているわりに呼吸も乱れていなかった。


 ようやく本職が来たらしい。


「来るのが遅い」


 恨み節を吐きながら、私は腕の中へ視線を落とした。


 仔竜は眠っている。目を覚ませば母親を探して暴れるかもしれないが、今はその力を全部抜かれたように身体を丸め、外套の中へ鼻先を埋めていた。


 身体は外套で包んでいるものの、布の隙間から覗く鼻先や前脚にはまだ泥と血がこびりついている。母親の血なのか自分のものなのかは分からない。ただ、小さな腹だけが一定の間隔で膨らんでは戻っていた。


 森番《レンジャー》が来れば、当然この竜と窪地を調べるだろう。


 竜の死体だけを見て帰る者はいない。巣穴も、檻も、荷車も、血痕も、残された足跡もひとつずつ確認し、そこに仔竜がいれば見つける。そして見つかれば保護される。


 間違ったことではない。むしろ正式な手続きとしては、それが正しい。


 それなのに私は辺りを見回し、どういう訳か森番にこの仔竜を引き渡すのではなく、隠せる場所を探していた。


 そう言えば、ここに来る途中で半ば根を露出させた倒木を一本見かけた。先日の雨で土が抉られ、その下へ空洞ができている。人ひとりが入れるほどではないが、仔竜を隠すだけなら十分だ。


「少しだけ我慢しろ」


 答えるはずもない。眠っているし、そもそも言葉だって通じない。


 私は鱗ごと仔竜を抱え直して倒木のところまで運んだ。枯葉は払えばどうにかなるが、雨を吸った地面はまだ湿っている。このまま置いて身体を冷やされ、後になって具合でも悪くなれば面倒だ。


 仕方なく近くから乾いた苔を集め、根の下へ厚く敷く。それでも湿気が上がってきそうだったので、自分の外套まで苔の上へ敷いてから、母竜の鱗ごと仔竜を寝かせた。


 ここまでして、ようやく自分の行動が少しおかしいことに気がついた。


 隠すだけなら、こんなに寝心地を整える必要はない。


「すぐ戻る」


 そう言ってから窪地へ戻る。眠っているうえに言葉も通じない相手へ何を言っているのかと思わなくもなかったが、それとほぼ同時に反対側の木々の間から男たちが現れたので、考えるのはやめた。


 先頭は見慣れたハゲ頭だった。


 本人の前でそう言うと機嫌を悪くするので、少なくとも口には出さない。


 セルヴァンは普通の人間より一回り大きい。肩幅があり、首も太く、頭は綺麗に剃られているため、遠目には山賊か傭兵にしか見えない。その巨体に森番《レンジャー》の象徴である緑の外套を着ている姿はどこか滑稽で、どちらかと言えば武装した木こりと言った方が納得できる。


 連中は静かな足取りで窪地へ入ってきたが、惨状を見た瞬間、セルヴァンの目が変わった。


 最初に密猟者たちを見て、次に荷車や散らばった武器、倒れた天幕、車輪へ視線を走らせる。地面へ刺さった矢のところで一度止まり、最後に竜の死体を見た。


 その後ろから入ってきた隊員たちも、窪地の様子を見て絶句している。誰かが小さく息を呑んだ。


 母竜の身体は、死んでからの方が大きく見えた。


 生きている時は動くものとして見ていたせいかもしれない。翼を広げたまま地面へ伏した姿は岩の塊のようでもあり、風景そのものの一部のようでもあった。裂けた翼膜は土へ貼りつき、鋲を抜いた穴からはもう新しい血も出ていない。


 セルヴァンはそれを一度見たあと、私へ目を移した。


「……アリーハック」

「遅いぞ、公僕ども」


 私が言うと、後ろにいた若い隊員が少しだけ顔をしかめた。セルヴァンは慣れているのか、私の言葉を聞き流している。


「何度も言うが、お前は森番じゃないんだぞ。勝手に人を拘束するな」

「ん? 私の仕業ではないぞ。来た時にはこうなっていた」


 誰も何も言わなかった。


 セルヴァンが地面へ刺さった矢を見る。それから私の弓へ視線を移し、もう一度矢を見ると、深いため息を漏らした。


「少しは隠す努力をしろ」

「している」

「どこが」

「否定しただろ」

「口だけじゃねえか」


 セルヴァンは額へ手をやり、そのまま何もない頭頂部を撫でた。それから圧だけで潰せそうな眼光を携えて密猟者たちへ近づき、手首の縄や足の傷、刺さった矢の位置まで一人ずつ確かめていく。


「殺しはしてないな?」

「当たり前だ。人間側の法律は面倒だからな」


 セルヴァンの手が止まり、ゆっくりとこちらへ顔が向いた。


「やっぱりお前が捕まえてんじゃねえか」

「言葉の綾だ」

「便利な綾だな」


 隊員たちはすでに仕事を始めていた。


 私が巻いた縄を正式な拘束具へ交換し、別の者が荷車の中身を調べている。毒瓶には札が付けられ、偽造された許可証は一枚ずつ地面へ広げられて番号を記録されていた。


 人の手が入ると、窪地の景色が急に事件現場らしくなる。少し前までは血と土と獣の匂いしかなかった場所へ木札や紙、封蝋、記録板が持ち込まれ、何もかもが名前と番号を与えられていった。


 若い隊員が母竜へ近づき、しゃがみ込んで脇腹へ手を当てる。


「隊長、竜の死亡を確認しました」

「ああ」

「遺体はどうしましょう?」

「管理局へ報告。検分までは無闇に触るな。傷とか鉄鋲とか毒針の位置は全部記録しておけ」

「了解」


 隊員は白い札を取り出し、細い紐を通して母竜の前脚へ結びつけた。


 私はその手元をじっと見ていた。


 ただの札だ。番号と時刻が書かれているだけで、必要なものだということも分かっている。


 それでも、私は視線を逸らした。


「で? 怪我は?」

「ない」

「腕に血がついてるぞ」

「私のではない」

「そうか」


 それだけだった。


 長い付き合いの中で、セルヴァンは私が言わないことを無理に聞いても無駄だと知っている。その代わりというわけでもないだろうが、少し間を置いて別の話を始めた。


「なあ……」

「断る」

「まだ何も言ってねえ」

「森番《レンジャー》になれ、だろ」

「話が早いな」

「貴様は毎回同じことを言うからな」

「今回は本気だぞ。お前の腕なら推薦できる。給金も相当な額を払えるし、北域なら宿舎を使う必要もない。今の小屋から通っても――」

「断る」

「最後まで聞け」

「会議があるな?」

「ある」

「報告書」

「仕事だからな」

「定期巡回」

「当然」

「だから断る」


 セルヴァンの眉間へ皺が寄った。


「お前の今の生活の何が気に入ってるんだ?」

「好きに休める」

「密猟者を捕まえるのが休日か?」

「今日の朝は薪を割っていた」

「で、竜の声を聞いてここまで来て、密猟者五人捕まえたと」

「近所付き合いだ」

「物騒すぎるだろ、その近所」

「森だからな」


 セルヴァンは長く息を吐いた。


「そうは言ってもな、アリーハック。目をつぶるにも限度ってものがある。お前が犯罪者を捕まえてくれるのは助かる。非常に助かる。だが正式な権限もない奴が、森で好き勝手に人を拘束してる状況は、俺の立場からするとどうしようもなく困るんだよ」

「見なければいい」

「毎回うちへ犯罪者を送りつける奴が言うな」

「拾ったものを届けている」

「人間を拾得物扱いするな」

「魔族もいるぞ」

「そうじゃねえ」


 今度は私がため息をついた。


 森番《レンジャー》になるつもりはない。肩書がつけば役目がつき、役目がつけば期待され、期待されればやらなければならないことが増えていく。それでは何のために家を出たのか分からない。


 すると、荷車を調べていた隊員から声が上がった。


「セルヴァン隊長」

「どうした?」

「こちらを」


 隊員が掲げて見せたのは、仔竜が捕まっていた鉄檻だった。


「それは…?」

「大きさから見て、恐らく竜の幼体用です。母竜と一緒に捕獲していたのではないかと」


 セルヴァンが母竜の亡骸を見て舌打ちする。


「……っち。子供の前で親殺しとは後味が悪いな」


 低い声だった。


「きちんと保護しろよ」


 ところが隊員は返事をしない。それはそうだろうと、私は知らぬ顔を作った。


「どうした」

「それが…肝心の幼体の姿がなく……」

「何?」


 途端にセルヴァンの首がこちらへ向いたので、私は先手を打った。


「知らんぞ」

「よし、任意同行してもらおうか」

「なぜだ?」

「こっちが聞く前に話すってことは何か知ってるな?」

「マヌケめ。この話の流れで分かることだろう」

「……そりゃそうだが」


 セルヴァンはパシンと自分の頭を叩き、訝しそうに目を細めて私を見た。


「本当に知らんのか?」

「知らん」

「俺の顔を見ろ」

「見ている」

「……」


 何が悲しくてハゲ男と見つめ合わなければならんのか。


 そんなことより、早々にこの場を去って迎えに行かなければならない。仔竜はまだ寝ているだろうか。それとも目を覚まし、鳴かずにいるだけなのか。


 今ここで、あの甲高い声が一度でも聞こえればすべてが終わる。


 私は顔を動かさないまま、耳だけをわずかに森へ向けた。


 セルヴァンはしつこく私の顔を見ている。


「許可なく竜を飼育するのは違法だぞ」


 そんなことは知っている。


 竜は犬や猫ではない。成体になれば馬車のように大きくなり、火を吐き、空を飛び、自分の縄張りを持つ。人間界では希少種として登録され、保護下に置くとなれば然るべき許可がいる。


 必要な制度であることは理解している。だからこそ厄介だった。


 適当な施設もなければ、金銭的な余裕もない。今の私が仮に申請を出したとしても、すぐに却下されるだろう。


 それでも…。


「……許可なら母親から得ている」


 思わず口から漏れた。


「何か言ったか?」

「何も」


 私は弓を肩へ掛け直した。


「さて、私は失礼するぞ」

「待て」

「やることが山積みなんだ」


 これは本当だ。


 朝から残っている薪割りに洗濯、掃除、それから雨樋の修理まである。ただでさえ終わる見込みのなかった仕事へ、今から竜の世話まで追加されるのだ。


 想像しただけで肩が重くなった。


「……っくそ」


 セルヴァンが低く呻いた。


「証拠がねえからな、これ以上は引き留められねえ」

「賢明だ」

「何か分かったら必ず教えろよ」

「善処する」

「それは絶対教えねえ奴の言い方だ」


 私は片手だけ上げ、その場を離れた。


 窪地を出てからもしばらくは平然と歩いていた。まだ背中へ視線を感じていたので、わざと遠回りをして追っ手がいないことを確かめてから倒木の陰へ回る。


 そこまで疑われてはいないようだ。日頃の行いの賜物だな。


 できるだけ気配を殺して根の下を覗き込むと、安置した時と変わらない姿で仔竜が寝息を立てていた。


「……よし」


 私は揺り籠代わりの鱗ごと仔竜を抱き上げた。


 やはり小さい。それなのに、どういう訳か先ほどより腕へ感じる重さが増したような気がした。


「まあいい、とにかく帰るぞ」


 ◇


 庭へ戻ると、朝の光景がそのまま残っていた。当たり前か。


 薪割り台には斧が刺さり、割った薪は十数本だけで、丸太はまだ山ほど転がっている。桶の中では濡れた衣服が水に沈み、雨樋も当然ながら壊れたままだ。


 何一つ片づいていない。


 改めて現状を目の当たりにすると心に来るものがあるうえ、家へ帰ってきた安心からか、一気に疲労まで押し寄せてきた。


「しかも…仕事が増えたな」


 腕の中では、その増えた仕事が呑気に寝息を立てている。


 突っ立っていても仕方がないと自分を鼓舞し、小屋の中へ入った。眠っている間に寝床くらいは用意しておこうと思い、以前怪我をした梟を一時的に匿った時の籠を引っ張り出す。


 底へ乾いた藁を詰め、その上に毛布を二枚重ねれば上等なベッドだろう。暖炉から近すぎず遠すぎない場所を選び、母竜の鱗を敷いて仔竜をそこへ降ろした。


 すると、そのタイミングで目が開いた。


 トパーズを思わせる澄んだ金色の瞳が私の顔を眺める。


 そして、鱗の上から抱き上げようとした腕を噛まれた。


「……痛い」


 仔竜の身体が跳ね、爪が袖へ食い込む。翼をばたつかせて腕から抜けようとしているのだが、自分が食いしばっているせいでなかなか離れられない。


「飛ぶのか噛むのか、はっきりしろ」

「グルルル……」


 喉が鳴ると同時に、その奥が赤い光を帯び始めた。


 もしかしなくても、ブレスを吐こうとしている。


「おい」


 制止も虚しく仔竜が火の息を吐いた瞬間、噛みついたままの小さな身体が反動で弾き飛ばされた。私の腕から離れた仔竜は床を滑って椅子の脚へぶつかり、ケホケホと咳き込みながら鼻から黒い煙を吐いている。


 少なくとも身体は無事のようだ。


「マヌケめ。食いしばったまま火を吹けば、自分が吹き飛ぶに決まっているだろ」


 説教をしたところで萎れるわけでもない。


 仔竜は床に置いてあった洗濯籠の陰へ潜り込み、頭だけをひょこっと出すと、大きく口を開けて牙を見せながら威嚇してきた。


 私はしゃがみ込んで手を差し伸べる。


「そんなところにいないで出てこい」

「シャーッ!」

「噛まんから」

「シャーッ!」

「違うか。噛むのはお前だな」


 私は手を引いて立ち上がった。


 追えば逃げるだろうし、逃げ場を塞げばもっと怯える。母親が目の前で痛めつけられ、気がつけば知らない場所へ連れてこられたのだ。目を覚ませば親はおらず、目の前の私が何者なのかも分からない。


 考えてみれば、懐かれる理由が一つもなかった。


「好きにしろ」


 押して駄目なら引いてみろ、という言葉もある。まずはコイツ自身が身の内を理解し、ここに慣れるところから始めさせても問題ないだろう。


 私は弓を壁へ掛け、装備を外した。丁寧にしまおうが放り投げようが、凄惨な部屋の景色は大して変わらない。


 そんな私の様子を仔竜は視線だけで追っていたが、それは無視した。


「……しかし、腹が減ったな」


 腹の虫に命じられるまま台所へ立つ。


 自分の食事は保存食を中心に、なるべく調理の手間が掛からないものを選んだ。朝の豆煮込みも温め直す。その代わり朝から溜めていた食器をまとめて洗うことにすると、不思議なくらい作業が捗り、結果として放っていた仕事が一つ片づいた。


 それよりも問題は仔竜の食事だ。


 棚を開け、食えそうなものを手当たり次第に探した。塩抜きした肉に黒パン、煮豆、干し魚、それから卵を焼いたものまで用意し、それぞれ別の皿へ乗せていく。


 竜が何を食うのかなど知らない。


 イメージとしては肉だが、幼体も同じとは限らないのが怖いところだ。少なくとも香辛料や香草はやめておいた方がいいだろう。


 結局は野生の本能に任せることにした。


「食え」


 五つの皿を順に並べ、あとは知らんと自分の食事へ戻る。腹が減れば嫌でも何か食うだろう。


 今日はこれでいいとしても、いずれ調べなければならない。食べるか食べないかも分からないものを出し続けられるほど、金銭にも精神的にも余裕はない。


「ともすれば…図書館にでも行かないとな」


 誰に言うでもなく呟くと、目の端で仔竜が動いた。


 床を爪が擦る音がして、次いで鼻を鳴らす音が聞こえる。やはり思った通り肉が好みらしく、匂いを確かめてから一切れを齧っていた。


 一切れを咥えると、仔竜はすぐに机の下へ戻っていった。それでも肉の匂いには勝てないらしく、しばらくすると再び小さな足音が聞こえ、今度は先ほどより慎重に顔を覗かせる。私が動かないことを確かめてから皿へ近づき、二切れ目を咥えてまた机の下へ戻った。


 三度目に出てきたところで、肉へ伸ばしかけていた鼻先が止まった。私と目が合ったからだ。


 仔竜は逃げるでも威嚇するでもなく、その場で身体を固くしたままこちらの様子を窺っている。


「見ていない」


 私はそう言って豆煮込みへ視線を戻した。


 もちろん、見ていないと言いながら気配くらいは追っている。だが、こちらが意識を向けていないと思えば安心するらしく、少しするとまた爪が床を擦る音が聞こえた。


 今度は机の下へ持ち帰ることもなく、その場で肉を食べ始めた。一切れ、もう一切れと口へ運び、皿の上に脂の跡しか残らなくなっても諦めず、最後には舌を出して表面を舐めている。


「足りんか」


 仔竜は顔を上げると、鼻先で皿をこちらへ押した。


「ない」


 もう一度押してくる。


「見ろ。私は豆しかないんだぞ」


 それでも諦めず、さらに皿を押してくる。


「お前、図々しいな」


 私が何を言っても知ったことではないらしい。


 結局、私は自分の豆煮込みを匙で掻き回し、底に沈んでいた肉片をいくつか拾って仔竜の皿へ移した。


「これで最後だぞ」


 聞いているのかいないのか、肉が皿へ落ちた途端に食いついた。


 まあいい。少なくとも食欲はある。


 何を食わせればいいのかも分からない状態から始めたことを考えれば、肉なら喜んで食うと分かっただけでも一歩前進だろう。


 問題は、私の夕飯から肉が消えたことくらいだ。


 食事を終えた頃には日もかなり傾いており、外へ出ると朝から放置していた洗濯桶が嫌でも目に入った。


 水の中へ手を突っ込み、沈んでいた服を一枚持ち上げる。たっぷりと水を吸った布は妙に重く、鼻先へ近づけてみると、洗ったはずなのに何とも言えない臭いがした。


「……明日だな」


 今日はもう十分働いた。


 洗い直すのは諦め、水だけ捨てることにする。それでも朝から何もしていない状態に比べれば、半分くらいは片づけたと言っていいだろう。


 そう自分を納得させて小屋へ戻り、戸を閉めたところで妙に静かなことに気がついた。


 仔竜が静かなこと自体はおかしくない。だが、先ほどまで机の周りをうろついていた姿がどこにも見当たらなかった。


 まず机の下を覗き、次に用意した寝床を見る。どちらにもいない。暖炉の脇にも、脱ぎ散らかした服の陰にも見当たらず、狭い小屋の中でこれ以上どこへ隠れる場所があるのかと辺りを見回した。


「おい、どこへ行った」


 返事など期待していなかったが、呼んだ直後、どこかで小さく木を引っ掻くような音がした。


 床からではない。


 音のした方を辿って顔を上げると、梁の上に仔竜がいた。


「……どうやって登った」


 棚か何かを足場にしたのだろうが、登った方法よりも、どうやって降りるつもりなのかの方が問題だった。まだ身体に対して翼は小さく、少なくとも私にはまともに飛べるようには見えない。


「そこで待っていろ。今――」


 言い終わる前に、仔竜が翼を広げた。


「降りるな!」


 制止するより早く、梁を蹴った。


 少なくとも本人は飛んだつもりなのだろう。


 実際には落ちたという方が正しく、必死に翼をばたつかせたおかげで真下へ墜落することだけは免れたものの、身体は大きく横へ流れ、そのまま壁際の棚へ向かって突っ込んでいく。


「おい!」


 慌てて踏み込み、両腕を伸ばした。


 仔竜の翼が棚へ当たり、乾燥させていた薬草が舞い上がる。並べていた瓶まで倒れ、そのうち一本が棚の端から転がり落ちたが、そちらは諦めた。


 どうにか床へ落ちる前に仔竜を受け止める。


 直後、腕へ鋭い痛みが走った。


「……助けた相手を噛むな」


 仔竜は私の腕へ牙を食い込ませ、そのままぶら下がるように離れない。無理に引き剥がせばこちらの皮膚まで裂けるので、片腕で身体を支えたまま、もう片方の手を額へ当てて押してやる。


「ほら、離せ」


 少し押した程度では離れず、さらに力を込める。


「落ちたのはお前だろうが」


 もう少し強く押して、ようやく顎が外れた。


 腕には血が滲むほどではないものの、綺麗に歯形が残っている。


「もう一度やるなら、先に床へ毛布を敷いてからにしろ」


 もちろん、もう一度やっていいという意味ではない。


 仔竜はそんなことなど知らぬ顔で私の腕から降りると、何事もなかったように翼を畳んだ。


 まったく。


 別に心配しているわけではないが、骨でも折られれば治療するのはこちらなのだ。これ以上仕事を増やされては困る。


 その日の夜、仔竜はせっかく用意した籠へ戻らなかった。


 藁を敷き、その上へ毛布まで二枚重ねてやったというのに、選んだのは壁際の暖炉にほど近い場所だった。籠から引きずり出した母竜の大きな鱗を前脚の間に挟み、そこへ鼻先を押しつけるようにして身体を丸めている。


 無理に寝床へ移してまた噛まれるのも馬鹿らしいので、好きにさせることにした。


 私は寝台へ入る前に暖炉を確認した。火は朝まで持つほどではないが、夜半までは十分だろう。戸と窓を閉め、昼間の一件を教訓に薬箱や割れそうな瓶も仔竜の届かない場所へ移してある。


 これなら大丈夫だろう。たぶん。


 寝台へ身体を横たえると、一日分の疲れがまとめて押し寄せてきた。


 朝から薪を割り、竜の声を聞いて森へ入り、密猟者と戦い、母竜を看取り、仔を森番から隠し、セルヴァンとくだらない問答をして、帰ってからは二度も噛まれ、火まで吐かれたのだ。


 明日は何もしない。今日できなかった洗濯も雨樋も明後日でいい。


 そう決めて目を閉じた。


 どれくらい経ったのだろう。


「きい……」


 小さな声で目が覚めた。


 最初は寝ぼけていたので何の音か分からなかったが、もう一度聞こえてきたところで寝台の上へ身体を起こした。


「きい……きい……」


 暖炉にはまだ赤い火が残っている。その薄明かりの向こうで、仔竜が母竜の鱗へ鼻先を押しつけたまま鳴いていた。


 昼間に聞いた威嚇とはまるで違う。細く弱々しく、何かを遠ざけようとする声ではなく、どこにもいない何かを探しているような鳴き方だった。


 母親を呼んでいるのだろう。それ以外には思いつかない。


 私はしばらく寝台の上から様子を見ていた。放っておけば疲れて眠るかもしれないと思ったのだが、声はなかなか止まらない。


「きい……」

「………」


 仕方なく寝台から降りる。


 近づくと仔竜はすぐに鳴くのをやめ、金色の目をこちらへ向けて身体を強張らせた。唇の隙間から小さな牙まで覗いているのを見て、それ以上近づくことはやめる。


 近くの椅子を引き、そこへ腰を下ろした。


「好きに鳴け」


 自分でも何を言っているのか分からない。


 仔竜はしばらく私を警戒していたが、こちらが何もしないと分かると、やがて再び母竜の鱗へ鼻先を寄せた。


「きい……」


 しばらくして、もう一度鳴く。


 私にはどうしようもない。


 死んだ母竜を連れてきてやることはできないし、私にはあの竜と同じ匂いもなければ、同じ声を出すこともできない。抱いてやれば少しは安心するのかもしれないが、近づいただけであれほど身体を強張らせる相手を無理に抱き上げても、余計に怯えさせるだけだろう。


 だから私は、ただ椅子へ座っていた。それくらいしかできることがなかった。


 暖炉の薪が崩れて赤い火の粉が舞い、火が弱くなれば一本だけ薪を足す。その間にも仔竜は何度か母親を求めるように鳴き、少し静かになったかと思えば、また細い声を漏らした。


 普段なら何とも思わない森の夜が、その日に限って妙に長く感じられた。


 やがて声が掠れ始めた頃、私は仔竜が抱えている母竜の鱗へ目を向けた。


 あの竜が自分で剥がして渡してきたものだ。私には分からないが、まだ母親の匂いが残っているのかもしれない。


 手を伸ばすと、仔竜が低く唸った。


「取らん」


 鱗そのものを掴まず、端へ指先を当ててほんの少しだけ仔竜の身体へ寄せてやる。


 鼻先が動いた。


 何度か匂いを嗅いだ後、仔竜は鱗へ額まで押しつけるようにして身体を丸めた。それからは鳴かなくなり、しばらく様子を見ていると、小さな腹の動きもゆっくりになって呼吸の間隔が一定になっていく。


 ようやく眠ったらしい。


「……やれやれ」


 私は椅子から立った。これで私も寝られると思い、寝台へ戻ろうとしたところで、背後から小さな声が聞こえた。


「きぃ……」


 振り返ると目は閉じている。寝言らしく、前脚だけが母竜の鱗を確かめるようにわずかに動いていた。


「……面倒だ」


 私は寝台へ戻るのをやめ、もう一度椅子へ腰を下ろした。背凭れへ身体を預け、少し考えてから暖炉へ薪をもう一本だけ放り込み、その晩はそこで寝た。


 ◇


 一週間という時間は、普段の私ならあっという間に過ぎる。


 朝起きて、腹が減れば飯を食い、必要があれば森へ出る。帰って薪を運び、本を読み、眠くなれば寝る。誰かと約束でもしていない限り日付を確かめる必要もないので、今日は何日だったか分からなくなることも珍しくなかった。


 ところが仔竜が一匹いるだけで、一日は妙に長くなる。


 二日目には、まず排泄の場所をどうにかしなければならないことが分かった。


 床の隅に汚れを見つけて片づけたと思えば、しばらくすると別の隅にもある。そこを掃除して安心していると、今度はさらに別の場所に見つかった。


「好き勝手な場所でするな」


 当然ながら通じない。


 このままでは小屋中が便所になりかねないので、物置から浅い木箱を探し出し、中へ砂を入れて床へ置いてみた。


 仔竜はすぐに興味を示し、箱の周りを歩いて鼻先を近づけ、何度か匂いを嗅いでから中へ入った。思ったより簡単に覚えたなと感心しかけたのだが、次の瞬間には前脚で勢いよく砂を掘り始め、尾まで振って床中へ撒き散らした。


 本人は随分楽しそうだった。


「……楽しそうで何よりだ」


 私は箒を取りに行った。


 三日目には、目を離した隙に乾燥棚へ登ることまで覚えた。


 気がついた時には、口から月白草の葉が半分ほど飛び出している。


「それは食うな」


 月白草は薬になるが、そのまま食えば腹を壊す。慌てて首根を掴むと案の定噛まれたので、そのままぶら下げるように床へ降ろした。


「下ろすぞ。暴れるな」


 噛まれたまま口を開かせ、食べかけの葉を取り出す。


 本人は気に入っていたらしく、取り上げられたのが不満なのか、喉の奥からぱちぱちと火花まで散らした。


「怒っているのは私だ」


 その日のうちに乾燥棚へ木の扉をつけた。


 壊れた雨樋より先に。


 四日目には、初日に一度だけ暴発させたきりだった火を、自分の意思で吐けるようになった。


 朝食を食べ終えた仔竜が何やら喉を鳴らしているので見ていると、口を開いた途端、ぼっ、と小さな炎が飛び出した。


 私よりも本人の方が驚いたらしい。目を丸くし、自分の口元を確かめるように鼻先を動かした後、もう一度喉を鳴らすと、今度は先ほどより少し長い炎が出た。


「良かったな」


 仔竜は満足そうだった。


 どうやら気に入ったらしく、続けてもう一度炎を吐いたところ、今度は毛布へ燃え移った。


「やめろ」


 慌てて叩き消す。


 振り返ったところで、また炎が飛んだ。


「やめろと言っているだろう」


 今度は椅子の脚が焦げた。


「次やったら飯を減らすぞ」


 ぴたりと止まった。


 私は仔竜を見る。向こうも私を見ている。


「お前、今のは分かったのか?」


 仔竜は何も知らない顔で首を傾げたが、その日はもう火を吐かなかった。


 五日目になると、初めて自分から小屋の外へ出た。


 私が薪を割るために戸を開けておくと、しばらくして入口までやって来たものの、そこで足を止めている。


 鼻を動かして外の匂いを嗅ぎ、風が吹けば驚いて一歩下がる。鳥が鳴くと今度は空を見上げ、しばらく迷った末に前脚だけを外へ出した。恐る恐る土を踏み、もう一歩進んだところで怖くなったのか、すぐに小屋へ戻っていった。


 私は何も言わず、薪を割ることにした。


 斧を振り下ろし、割れた薪を脇へ積んでいく。しばらくすると仔竜がまた姿を見せ、今度は庭の中央まで出てきた。


 斧を振り下ろすたびに響く乾いた音には身体を跳ねさせたものの、今度は逃げなかった。少し離れた場所へ座り、こちらを見ている。


 私はそのまま薪を割った。


 六日目には、私が小屋の中を歩くたび、後ろから小さく爪が床を引っ掻く音が聞こえるようになった。


 台所へ行けばついてくる。薪を取りに行ってもついてきて、机へ戻れば当然のように後ろまでやって来る。試しに立ち止まると爪の音も止まったので、振り返ってみれば仔竜がいた。


「何だ」


 首を傾げる。


「飯なら食っただろ」

「きい」

「知らん」


 もう一度歩き始めると、やはり後ろから爪の音がついてきた。


 それからは、私が小屋の中を移動するたびに同じ音が聞こえるようになった。


 そして七日目。


 久しぶりに鏡を見て、少し驚いた。


 目の下には隈ができ、髪の一部は焦げている。腕には小さな歯形がいくつも残り、袖にも爪を引っかけられた跡が増えていた。


「……酷いな」


 自分の姿だけを見れば、この一週間ずっと森で何かに襲われ続けていた人間だった。


 だが、鏡越しに見える小屋の中は、反対に以前より綺麗になっている。


 理由は考えるまでもない。床へ物を置けば噛み、瓶を出しておけば倒し、布を放置すれば火をつける。そのうえ薬草を手の届くところへ置けば食うので、その度に片づけていた結果、以前のように服や道具を放り出せなくなった。


 寝床の布は朝になれば干し、水は毎日替え、食器も使ったら洗う。食べてはいけないものや危険な薬は高い棚か扉の中へ入れ、暖炉の近くには燃えやすいものを置かない。


 気がつけば、自分一人だった頃よりよほどまともな生活をしている。


「お前のせいで健康的になりそうだ」


 当の仔竜は、私の苦労など知ったことではない様子で肉を食べていた。口の端から小さな骨が一本飛び出している。


「褒めていないぞ」


 とはいえ、その肉も底をつきかけている。薬もこの一週間で随分減り、毛布に至っては一枚を駄目にされた。


 私は紙を一枚取り出し、町で買う必要があるものを書き出していく。


 肉と内臓、それから骨粉。包帯と火傷薬も減っているし、今の毛布ではまた燃やされるので耐火性のある布も欲しい。私が普段使っている皿では大きすぎるので浅い木皿も一つ。それに、肉だけ食わせて育つものなのか分からない以上、幼い魔獣用の栄養剤もあった方がいいだろう。


 思いつく度に書き足していくと、紙の半分ほどが文字で埋まった。


「……行くしかないか」


 行き先は町だ。


 できれば行きたくない。人が多く、音も多いうえ、何より知らない人間から話しかけられるのが面倒なのだ。


 しかし食料も薬も、森の小屋で待っていれば勝手に増えてくれるわけではない。


 私は紙を畳み、出掛ける準備を始めた。


 ◇


 市場は、森よりも暑く感じた。


 実際の気温にそれほど差があるわけではないのだろうが、狭い通りには人が溢れ、焼いた肉や焼きたてのパン、魚や香辛料、馬の汗や鉄の臭いまでが入り混じっている。森なら一つ一つ別のものとして感じられる匂いが、ここでは商人の呼び込みや客同士の話し声と一緒になって押し寄せてくるので、それだけで余計に暑苦しい。


「やはり苦手だな」


 必要なものだけ買って早く帰ろう。


 そう思っていたのだが、書き出した品を一つずつ揃えていくと、いつの間にか両手へ一つずつ籠を抱えることになっていた。


 一方には生肉や内臓、骨などの食料。もう一方には包帯や火傷薬、耐火性のある布、小さな木皿や魔獣の幼体用に調整された栄養剤が入っている。


 ちなみに、自分のために買ったものは黒パンと塩だけだった。


「よう」


 嫌な声がした。


 聞こえなかったことにして歩き続けようかとも思ったが、すぐに名前まで呼ばれる。


「おい、アリーハック」


 仕方なく振り返ると、やはりセルヴァンだった。


「ああ」

「奇遇だな」

「まあな」


 セルヴァンの視線が、私の顔ではなく両手の籠へ向かった。


「相変わらずスローライフかい?」

「ああ」

「こっちは例の仔竜探しでてんやわんやだ」

「そうか」

「善良な市民のために朝から走り回ってるよ」

「ご苦労」

「お前は?」

「いつも通りだ」

「ほう」


 また籠を見る。


「それにしちゃ、少し買い過ぎじゃないか?」

「保存食を蓄えようと思ってな」

「生肉を?」

「干す」

「内臓まで?」

「干す」

「どうやって」

「考える」


 セルヴァンが私を見る。


 私は前を向いて歩き出した。


 当然のようについてくる。


「その小さい皿は?」

「食事量を減らす」

「誰の」

「私の」

「お前、それで足りるか?」

「今日から小食だ」

「へえ」


 疑いの目を向けてくるが、気にせず歩く。


「その毛布みたいなのは?」

「寒い」

「今は夏だぞ」

「夜は冷える」

「耐火布だぞ、それ」

「私は寝相が悪い」

「寝ながら燃えるのか?」

「そういう日もある」

「どんな日だよ」


 答えずに歩くが、まだついてくる。


「じゃあ、その骨粉は?」

「私が食う」

「やめとけ」

「なぜだ」

「人間用じゃない」

「私は魔族だ」

「そういう問題じゃねえ」


 しつこい男だ。


 セルヴァンの視線が籠の奥へ入り、魔獣用の栄養剤や火傷薬、噛み傷用に買った薬のところで止まった。


 私は上から布を被せる。


「見るな」

「アリーハック」

「何だ」

「お前、あの仔竜を拾っただろ」

「知らん」

「顔を逸らすな」

「肉屋を見ている」

「今から家へ行く」

「断る」

「何でだ」

「散らかっている」

「元からだろ」

「今はさらに酷い」

「何を飼えばそうなる」

「何も飼っていない」

「じゃあ行ってもいいだろ」

「駄目だ」

「なぜ」

「嫌だからだ」


 セルヴァンはしばらく私の顔を見ていた。


 私は気づかないふりをして歩く。


「説教なら聞かんぞ」

「まだしてねえ」

「顔が始めている」

「お前な……」


 セルヴァンが禿頭へ手をやる。


「竜は犬や猫じゃねえんだぞ」


 始まった。


 私は歩く速度を変えなかった。


「聞いてるか」


 ちょうど果物屋があったので、並んでいた桃を一つ買う。


「希少種の飼育には許可がいる。火炎器官の発達も、魔力の管理も、食性も――」


 セルヴァンの説教を聞き流しながら桃へ齧りつくと、よく熟れていたらしく、柔らかな果肉から甘い汁が滲んだ。


「おい」

「声が大きい」

「誰のせいだ」


 そのまましばらく歩いていると、セルヴァンの声からいつもの調子が少しだけ消えた。


「なあ」


 私は足を止める。


「本当に、お前なのか」

「何が」

「あの仔竜だ」


 答えずにいる間にも、周囲では相変わらず商人が客を呼び込み、馬車が石畳を通り、買い物へ来た人間たちが好き勝手に話している。


「もしそうなら」


 セルヴァンが声を落とした。


「一人で抱え込むな」


 私は食べ終えた桃の種を見る。


「お前一人でどうにかなる話じゃない」

「そうか」

「そうだ」

「なら本職らしく探せ」

「アリーハック」

「私は何も知らん」

「嘘が下手すぎる」

「嘘などついていない」

「保存用に生肉を山ほど買ってる女が言うか」

「食うかもしれん」

「獣の幼体用の栄養剤まで?」

「私に必要かもしれん」

「お前、とうとう種族まで変わったのか」

「知らん」


 セルヴァンは呆れたように大きく息を吐いた。


「……今日は家まで追わん」


 私は少しだけ横を見る。


「今日はな」

「そうか」

「ただ」


 そこでセルヴァンの顔から、いつもの呆れた笑いが消えた。


「本当に拾ったなら、無茶するな」

「知らんと言っている」

「そういうことにしとく」


 セルヴァンはそれ以上追及せず、背を向けた。


「次に会うときまでに、もう少しましな嘘を考えておけ」

「善処する」

「それも嘘だろ」


 そう言い残して人混みへ消えていく。


 私は少しだけその背中を見送り、追ってくる気配がないことを確かめてから両手の籠を持ち直した。


 中に入っているのは、七日前ならほとんど買うことのなかったものばかりだった。肉や内臓、骨粉、薬、耐火布、小さな皿、魔獣用の栄養剤と、どれも私一人で暮らしていたなら必要にならなかったものだ。


 その一方で、自分のために買ったのは黒パンと塩だけだった。


「……馬鹿馬鹿しい」


 私は町を出て、森へ戻った。


 歩くにつれて市場の喧騒が遠ざかり、代わりに木々のざわめきや鳥の声、沢を流れる水音が聞こえるようになる。焼いた肉や香辛料に埋め尽くされていた空気も、いつの間にか湿った土と草木の匂いへ変わり、ようやくまともに息ができる気がした。


 いつもの森を歩きながら、ふと小屋のことを考える。


 帰れば、あいつがいる。


 戸を開ける前から肉の匂いに気づいて飛び出してくるかもしれないし、籠へ頭を突っ込み、止める間もなく肉を奪うかもしれない。取り返そうとすればまた噛むだろうし、留守の間に火を吐いたり、何かを壊したりしている可能性もある。


 今朝は戸を閉めた。窓も確認し、暖炉の火は落として、薬草の棚には扉をつけ、水も餌も置いてきたのだから、そう簡単に問題など起こらないだろう。


 たぶん。


 それでも、何をしているのかは帰ってみなければ分からない。


 やかましくて手が掛かり、何をするか分からない、本当に面倒な奴だ。


 そんなことを考えながら、私は籠を抱え直した。


 森の道は小屋まで続いている。急いだところで、たいして時間が変わるわけでもない。


 それでも私は、町へ向かった時より少しだけ速い足取りで家へ帰った。


 ◆


 ルカと呼ぶようになったのは、名前をつけてやろうと思ったからではない。


 あれを小屋へ連れ帰ってから半月ほど経った頃には、生活の中で「おい」では済まない場面がずいぶん増えていた。食事の皿へ鼻先を突っ込んでいるときなら「おい」でいいし、薪を齧っているときも、干している洗濯物へ爪を立てているときも、それで振り向かなければ首根っこをつかんで引き離せば済む。


 だが、小屋の外へ出すようになってから事情が変わった。


 その日、私は庭の外れで倒れた白樺の枝を切り落としていた。


 斧を使うほど太くはないので、小型の鋸を枝へ当て、冬の焚き付けに使えそうな枝と、畑の支柱に回せそうな真っ直ぐなものを選んで切っていく。空はよく晴れており、森の上から降ってくる光には夏へ向かう季節特有の白さがあった。湿った土の上では茸の小さな傘がいくつも開き、庭と森の境では丈を伸ばした雑草が風に揺れている。


 その中を、小さな深緑の身体が忙しなく動き回っていた。


 最初の数日は戸口から一歩出るだけでも警戒していたくせに、いまでは小屋の周囲くらいなら自分の領分だと思い始めたらしい。蝶を見つければ追い、風で転がった葉を見つければ踏みつけ、私が積み上げた薪の上へ登っては、そこがさも自分のために用意された高台であるかのように胸を張っている。


 ただし、私から十歩以上離れることは滅多にない。


 私が場所を移せば、少し遅れて自分も移動する。こちらが何をしているのか確かめるように時折顔を上げるくせに、目が合えば、別に私など気にしていないという顔をして別の方を向く。


 面倒な性格だ。誰に似たのかは知らん。


 私は鋸を引きながら、ときおり視線だけを向けていた。


 翼は最初に来た頃より一回り大きくなったものの、自分の体重を長く支えられるほどではない。勢いよく羽ばたけば地面から浮きはするが、前へ進むより横へ流れることの方が多く、着地に至っては成功と呼べるものが三回に一回あるかどうかだった。


 それでも本人は飛べているつもりらしい。


 薪の山へ登ったかと思えば、そこから勢いよく飛び降り、翼をいっぱいに広げる。一瞬だけ身体が浮いたので今回はうまくいくかと思ったが、横から吹いた風に煽られ、そのまま物干し縄へ流されて、干していた私の上着へ頭から突っ込んだ。


「……またか」


 上着の中で深緑の身体がもぞもぞと動いている。


 地面へ落ちたわけではないので、すぐに助ける必要もないだろうと放っておくと、しばらくして裾から頭だけが出てきた。ところが角へ布が引っかかっているせいで前が見えていないらしく、首を振るたびに上着まで一緒に揺れている。


「自分で取れ」


 声をかけると、布に覆われた顔がこちらへ向いたが、助けを求めるようには鳴かなかった。


 頭を振り、前脚を使い、それでも駄目だと分かると身体ごと暴れ、最後には上着ごと物干し縄から引きずり落として脱出した。


 洗ったばかりの服が土の上へ落ちる。


「……洗ったばかりなんだが」


 小竜は聞いていない。もっと正確に言うなら、聞いていても都合の悪いことは聞こえないことにしている。


 仕方なく服を拾いに行こうとしたところで、小竜の目が何かを捉えた。


 庭の向こう、森へ続く低い枝に一羽の青い鳥が止まっていた。尾の長い小鳥で、鳴き声は少々うるさいが、この辺りでは特に珍しいものではない。


 小竜が身体を低くし、尾をゆっくりと左右へ振り始めた。


「やめろ」


 嫌な予感がする。


「おい」


 次の瞬間、小竜が走った。


「待て!」


 当然、鳥は飛び立つ。それを見て小竜はますます夢中になり、庭の端を越えて森へ入っていった。


「おい!」


 青い鳥は低い枝から枝へ移りながら飛び、小竜はその下を夢中で追いかけていく。


 私は持っていた鋸を放り出した。


「だから待てと言っている!」


 当然、待たない。


 茂みを抜けるたびに深緑の尾が一瞬だけ見え、すぐに木々の向こうへ消えていく。この辺りなら危険な獣はいないが、問題はその先だった。


 森の地面は途中から急に下がり、小さな沢へ続いている。大人なら何ということもない程度の段差だが、飛ぶことすら満足にできない小竜には高い。


「おい!」


 呼んでも反応しない。


 そこで初めて、名前で呼べないことが本気で不便なのだと気づいた。


 いつも「おい」と呼んでいたせいで、自分が呼ばれているのかどうかすら分かっていないのかもしれない。「待て」も「来い」も、言葉そのものではなく、その場の声音である程度判断しているだけなのだろう。


 茂みを抜けると、すぐ先に沢が見えた。青い鳥はすでに向こう岸へ渡っており、小竜はその手前の沢の縁にいる。


「飛ぶな!」


 言った直後、小竜が地面を蹴った。


 翼を大きく広げ、ほんの一瞬だけ風を受ける。だが、向こう岸へ届くにはあまりにも距離が足りない。


「馬鹿!」


 小さな身体が沢へ落ちた。


 私は斜面を滑るように駆け下りる。


 沢といっても私の膝程度の深さしかないが、山から流れてくる水は見た目以上に速い。小竜は水面へ落ちた勢いのまま流され、必死に翼をばたつかせているものの、濡れた翼ではどうにもならない。


 岩を踏んで水へ入り、手を伸ばす。指先へ翼が触れたので、そのまま身体ごとつかんで引き上げた。


「げほっ……」


 水を吐きながら、小竜が私の腕へ爪を立てる。


「痛い。放せ」


 しかし、放す気はないらしい。


「溺れたのは私のせいではないぞ。むしろ止めた」


 そう言っても爪はさらに食い込んだ。


 仕方なくそのまま岸へ戻り、草の上へ下ろそうとしたが、それでも腕から離れようとしない。


「……何だ」


 そこでようやく、腕の中にいる小さな身体が震えていることに気がついた。


 水が冷たかったせいだけではないらしい。あれだけ勢いよく鳥を追いかけていたくせに、沢へ落ちたのがよほど怖かったのだろう。


 私は何も言わず、小竜の身体を確かめた。小さな翼からはまだ水が滴り、片側の薄膜には石へ擦ったらしい浅い傷ができている。


「見せろ」


 翼へ触れると抵抗した。


「傷だ。噛むなら勝手にしろ」


 小竜は私の袖を口へくわえたが、噛んではいても牙は立てていない。


 そのまま翼を広げて傷口を確かめる。幸い深い傷ではなく、帰って薬を塗れば済む程度だった。


 問題は、身体がすっかり濡れていることだ。水を拭うようなものは何も持ってきていなかったので、私は上着の前を開き、小竜をその内側へ押し込んだ。


 胸元から頭だけを出した小竜は、さすがに窮屈らしく身体を何度か動かしたが、外へ出ようとはしなかった。


「帰るぞ」


 来た道を歩く。


 青い鳥はとっくにどこかへ消えていた。


 小竜は胸元から森を眺め、ときおり鼻を動かしている。歩くたびに頭が揺れ、何度かこちらの顎へ鼻先が当たった。濡れた鼻は冷たかったが、小屋へ戻るまで、小竜がそれ以上暴れることはなかった。


     ◇


 名前について考え始めたのは、その日の夜だった。


 傷へ薬を塗り、暖炉の前で身体を乾かした頃には、小竜は沢へ落ちたことなど忘れたように肉を食べていた。


「お前は気楽でいいな」


 小竜は肉を噛んでいる。


「こっちは心臓が止まるかと思ったぞ」


 こちらを見もしない。


「……止まってはいないが」


 食べ終わった木皿を舐め始めた小竜を眺めながら、私は椅子へ腰を下ろし、顎へ手を当てた。


 実家では、名前というものは妙に重要だった。


 生まれた子供には家の歴史を背負わせるような長い名をつけ、古い祖先から音を取り、魔界の古語に意味を持たせ、最後には占星術師まで呼んでいた。


 私の名にも何か立派な意味があるらしいが、何だったかは忘れたし、今さら知りたいとも思わない。


「短い方がいい」


 小竜が顔を上げた。


「お前のことだ」


 鼻先へ肉がついている。


「呼ぶたびに長いのは面倒だ」


 椅子の背へ身体を預け、思いつく名前をいくつか口にしてみたが、どれもしっくりこなかった。強そうな名をつければ、いずれ名前負けしそうだし、可愛らしい名はもっと嫌だ。


 そもそも、名前に大層な意味など必要なのだろうか。呼んだときに振り返れば、それでいい。


「ルカ」


 何となく口から出た音に、小竜が顔を上げた。


 私は少し黙ってから、もう一度呼んだ。


「……ルカ」


 耳の後ろにある短い角が動いた。


「今、反応したな」


 小竜は何事もなかったように木皿へ鼻を戻した。


「聞こえなかったふりをするな」


 肉はもう残っていないというのに、それでも皿を鼻で押している。


「ルカ」


 今度は明らかにこちらを見た。


「そうか」


 私は腕を組む。


「なら、それでいい」


 名前をつけたという感覚はなかった。呼びやすい音を決めただけで、それ以上の意味はない。


 少なくとも、私はそう思うことにした。


「ルカ」


 もう一度呼ぶと、小竜は木皿から離れてこちらへ歩いてきた。そのまま私の足元へ座り、鼻先を膝へ押しつける。


「……飯は終わりだ」


 それでも動かない。


「ないものはない」


 退く様子もないので、仕方なく頭へ手を置いた。額の鱗は暖炉の熱を受けて温かく、最初に触れたときなら間違いなく噛まれていただろうが、今は逃げることもない。


 試しに指で額の鱗を撫でると、金色の目が少しだけ細くなった。


「ルカ」


 名前をもう一度呼ぶ。


 今度は目を閉じたまま、尾だけが床を一度叩いた。


     ◇


 名前をつけたからといって、急に聞き分けのいい生き物になったわけではない。


 むしろ、呼べば振り返るようになったぶん、故意に無視していることが分かるようになった。


「ルカ」


 棚の上で干し肉を盗もうとしている。


 呼んだ瞬間、耳が動いた。


「降りろ」


 それでも動かない。


「聞こえているな」


 ルカは返事の代わりに干し肉を咥えた。


「それは夕飯だ」


 棚から飛び降り、そのまま逃げる。


「ルカ!」


 呼ぶとなぜか速度が上がった。


「名前をつけた意味がないだろう!」


 そのまま机の下へ潜り込んでしまった。


 まったく役に立っていないようにも思えたが、それでも呼べるものがあるのは、思っていた以上に便利だった。


 庭から姿が見えなくなれば名前を呼ぶ。森を歩いていて少し先へ行き過ぎれば呼び、夜になって寝床に姿がなければ、やはり同じように呼ぶ。


 すると、どこかから小さな鳴き声が返ってくる。


 それだけで探す場所が分かる。


 あるいは私は、場所を知るためだけではなく、呼べば返事があり、まだ近くにいることを確かめていたのかもしれない。


 沢へ落ちた一件から、私はルカを短い森歩きへ連れていくようになった。


 最初は庭の周囲だけだったが、次は井戸まで行き、その次は薬草を採る斜面まで足を延ばした。狩りへ連れていくにはまだ邪魔だったものの、留守番中に勝手に抜け出されるよりはましだろう。


「私から離れるな。それと何か見つけても勝手に追うな」


 森へ入るたびに同じことを言う。


 ルカは鼻を地面へ寄せ、周囲の匂いを嗅ぎながら歩いている。途中で蝶が目の前を横切ると、案の定すぐに追おうとした。


「ルカ」


 その声で足が止まり、こちらを見る。


「戻れ」


 数秒ほど考えてから、素直に戻ってきた。


 最初にそれができた日は、少し驚いた。


「……分かるじゃないか」


 頭を撫でようとして手を上げたが、途中で止めた。


 別に褒めるほどのことでもない。


「次もそうしろ」


 そのまま歩き出すと、後ろから小さな爪音が続いた。


 しばらくして私の足へ何かが触れたので見下ろすと、ルカの鼻先だった。目が合った途端にすぐ横へ離れ、何でもないふりをしている。


「何だ」


 知らない顔をされた。


「そうか」


 なら私も、何でもないふりをしておくことにした。


 関係というものが、いつ出来上がるのかはよく分からない。


 血がつながれば、その瞬間から家族になるのか。同じ家で眠ればそうなるのか。食事を作ればいいのか、名前を呼ぶことなのか。それとも、帰る場所を同じにすることなのか。


 私はそういうことを考えるのが嫌いだった。


 名前をつければ、次に意味をつけたくなる。意味をつければ、その意味通りに振る舞うことを求められる。


 私が家を出た理由の半分は、そうしたものが鬱陶しかったからだ。


 ならば、わざわざ考える必要もない。


 毎朝ルカの皿へ肉を入れ、水を替え、翼に異常がないか調べ、寝床を干す。森へ出るときは名前を呼び、夜になって姿が見えなければ探す。


 今のところは、それで十分だった。


     ◇


 ある朝、私は一人で狩りへ出ることにした。


 ルカには留守番をさせる。理由は単純で、前日に山鳥を追い回して逃がしたからだ。


「今日は連れていかん」


 戸口に座っているルカへ言うと、首を傾げた。


「昨日のせいだ」


 不満そうに鳴く。


「反省しろ」


 弓を背負うとルカも立ち上がった。


「来るな。今日は留守番だ」


 一歩近づいてきたかと思えば、さらにもう一歩詰めてくるので、私は額へ指を当てて押し戻した。


「駄目だ」


 そのまま戸を閉めると、内側から爪が木を擦る音が聞こえた。


「焼くなよ」


 返事はない。


 少し嫌な予感はしたが、狩りは長くても半日だ。水も置いたし、食事もある。窓も閉め、暖炉の火も落としてきた。


 戻れば、たぶん不機嫌な顔で出迎える。


 その程度に考えていた。


 昼過ぎ、山鳥を二羽仕留めて戻ると、森の向こうに小屋の屋根が見えた。窓は閉まっており、遠目には何も変わったところはない。


 そう思いながら庭へ入ったところで、足が止まった。


 戸が開いている。


 しかも、下の部分が黒く焦げていた。


「……ルカ?」


 返事がない。


 私は持っていた山鳥をその場へ放り出し、小屋へ入った。


「ルカ」


 寝床を見ても、机の下を覗いてもいない。暖炉の周りにも姿はなく、倒れた水皿からこぼれた水だけが床を濡らしている。


 その脇には小さな爪痕が残り、戸へ向かって続いていた。


「馬鹿が」


 外へ出て、すぐに地面を調べる。


 柔らかな土の上には小さな足跡があり、そのまま森へ続いている。しかも向かった先は、私が朝歩いた方向と同じだった。


 胸の奥へ冷たいものが落ちた。


 考えるより先に走っていた。


「ルカ!」


 森へ入り、名前を呼ぶ。


 返事はない。


 足跡は小さく、硬い地面へ入ればすぐに見えなくなる。それでも柔らかな土や苔、低木の下に残った痕跡を拾いながら、私は朝、自分が通った道を思い出して進んでいく。


 どうやらルカは私の通った跡を追ったらしい。


 匂いなのか、足跡なのか、それとも別の何かなのかは分からない。だが、私が朝歩いた跡を追っていることだけは間違いなかった。


「何をしているんだ、あの馬鹿は」


 口から出た声が少し掠れていた。


「ルカ!」


 もう一度呼ぶと、驚いた鳥が枝から飛び立った。


 それ以外の返事はない。


 さらに進んだところで、遠くから小さな声が聞こえた。


 私は足を止め、耳を澄ます。


 もう一度、高い鳴き声がした。


「ルカ!」


 声のした方へ斜面を下る。枝が顔へ当たったが、気にしている暇はなかった。


 沢へ出る少し手前には、大きな倒木がある。


 その根元に、見慣れた深緑の身体がいた。


「……いた」


 口から勝手に言葉が出た。


 ルカが顔を上げる。


 全身が泥だらけで、片方の翼には枝が絡み、薄膜に浅い傷ができている。前脚も何かへ擦ったらしく、鱗の間からわずかに血が滲んでいた。


 私を見た瞬間、ルカが立ち上がり、そのままこちらへ走ってくる。途中で足をもつれさせて転んだが、すぐに起き上がってまた走り始めた。


「馬鹿!」


 私はその場へしゃがむ。


 ルカが勢いよく胸へぶつかってきた。


 反射的に腕を回しかけて、途中で止める。代わりに両脇へ手を入れ、身体を持ち上げた。


「何をしている。留守番と言っただろ」


 ルカは答えず、鼻先を私の服へ強く押しつける。


「戸まで焼いて出てきて、こんなところまで一人で来て……翼も怪我しているじゃないか」


 小さく鳴いた。


 私は絡んでいた枝を外し、翼を広げて傷を見る。薄膜の傷は浅く、薬を塗れば済みそうだったし、前脚の方も擦り傷だけだった。


 それを確かめてから、ようやく息を吐く。


「……私を探していたのか」


 ルカが顔を上げ、金色の目でこちらを見た。


 答えはないが、必要もなかった。


 母親を探していたわけでも、あの谷へ戻ろうとしたわけでもない。私が朝歩いた跡を追って、ここまで来たのだ。


 それだけは分かる。


 先ほど胸の奥へ落ちた冷たいものが、ゆっくり溶けていくような感覚がしたが、私はそれが何なのか考えないことにした。


「次からは……」


 ルカの顔についた泥を指で拭う。


「……次からは連れていく」


 鼻先がまた胸へ当たった。


「ただし、勝手に獲物を追うな」

「キィ!」

「返事だけはいいな」


 そのまま抱き上げると、沢へ落ちた日に連れて帰ったときよりもずいぶん重くなっていた。


 大きくなったからだろう。


 それ以外の理由まで考える必要はない。


     ◇


 セルヴァンが小屋へ来たのは、それから数日後の夕方だった。


 薪を暖炉へ運んでいる最中、戸が三度叩かれた。


「開いている」


 返事をするとセルヴァンが入ってきたが、その瞬間、彼の視線が暖炉の前へ向いた。


 ルカはそこにいた。


 母竜の鱗を枕代わりにし、腹を出して眠っている。


 もう隠す意味もない。


 セルヴァンはしばらく何も言わずにルカを見てから、後ろ手に戸を閉めた。


「……とうとう隠さなくなったな」

「バレているとは気づいているからな」

「まったく」


 セルヴァンは大きな手で禿頭を撫でた。


「こっちは一応、職務ってものがあるんだぞ」

「なら見なかったことにしろ」

「簡単に言うな」


 靴を脱いで小屋へ上がったところで、ルカが目を開いた。


 セルヴァンを見て身体を起こす。


 以前なら、それだけで牙を剥いて威嚇しただろう。ところが今日はそこまでせず、代わりに私の方を見た。


「大丈夫だ」


 そう言うと、ルカはもう一度身体を伏せた。


 セルヴァンがその様子を見ている。


「……懐いたな」

「そうでもない」


 そう答えたところで、ルカが身を起こした。暖炉の脇に置いてあった薪の一本へ鼻先を寄せ、口を開く。齧るつもりなのか、火を吐くつもりなのかは分からないが、どちらにしてもろくなことにはならない。


「ルカ。それは駄目だ」


 ルカはぴたりと動きを止め、こちらを見た。私と目が合うと、何もするつもりはなかったという顔で薪から離れ、毛布の上へ伏せ直す。


「……名前までつけたのか」


 セルヴァンが妙に感心した声を出した。


「ないと不便だと気づいたからな。記号と同じだ」

「記号?」

「呼ぶたびに『おい』では、誰に言っているのか分からんだろう。あいつを呼ぶための音を決めただけだ」

「へえ。で、ルカか」

「何だ」

「いや。お前が自分から名前をつけるとは思わなかった」

「だから、記号だと言っている」

「そういうことにしといてやる」


 私は持っていた薪を暖炉の脇へ置いた。


「それで、何の用だ」

「巡回ついでだ。あと例の密猟者の件」

「どうなった」

「全員起訴。余罪も出た。北側だけで魔獣の密猟が十件以上だ」

「そうか」

「お前が見つけた帳簿が効いた」

「なら給金を寄越せ」

「レンジャーになれば出るぞ」

「いらん」

「じゃあ言うな」


 セルヴァンは勝手に椅子を引いて座った。


 私は湯を沸かす。客に茶を出してやるつもりはなかったが、自分が飲みたかった。


 待っている間もセルヴァンはルカを見ていた。


「思ったより小さいな」

「食う量は小さくない」

「噛むか?」

「噛む」

「火は?」

「吐く」

「飛ぶのか?」

「飛ぶというより遅い落下だ」


 セルヴァンが笑った。


「よく育ててるな」

「育ててはいない」

「じゃあ何だ」

「預かっている」


 ちょうど湯が沸いたので、茶葉を入れた杯へ注ぐ。立ち上った香りに反応してルカの鼻が動いた。


「お前のではない」


 ルカはまた目を閉じる。


 それを見たセルヴァンが笑った。


「会話してるじゃねえか」

「してない」

「返事してるように見えるぞ」

「気のせいだ」


 杯を持って椅子へ座る。


 セルヴァンはしばらく黙っていたが、やがて暖炉の前で横になっているルカへ目を向けたまま、少し声を低くした。


「本気で育てるのか」

「だから、預かっているだけだ」

「誰からだよ」


 私は杯を口へ運びかけて、手を止めた。


「……母親からだ」

「母竜か?」


 セルヴァンが暖炉の前へ目を向ける。ルカは母竜の鱗を枕にしたまま、腹を出して眠っていた。


「お前が来たときには、もう死んでいたんじゃなかったのか」

「お前たちが来たときにはな」


 私は杯を机へ戻した。


「あの竜は、まだ生きていた。鋲を抜いて薬を使ったが、血を失いすぎていたし、毒も回っていた。どうにもならんと分かった頃、自分で喉元の鱗を剥がして、仔をその上へ乗せたんだ」

「……それで?」

「私の方へ押してきた。何度もな」


 セルヴァンは何も言わなかった。


「私は断ったぞ。竜の育て方など知らんし、そもそも自分一人の暮らしさえ満足にできていない。引き受けるとは一言も言っていないんだが、あいつは聞く耳を持たなかった」


 最後に見た母竜の顔を思い出す。こちらへ仔を押しやった鼻先も、開いたまま動かなくなった金色の目も、あの窪地へ置いてきたはずなのに、どういうわけかまだ鮮明だった。


「……そのまま死んだ」


 セルヴァンはルカへ目を向けた。枕にしている鱗は、幼い身体を乗せるには十分な大きさがある。あれを母竜が自分で剥がしたと聞けば、見え方も変わるのだろう。


「だから、お前が仔竜を隠したのか」

「そうだ。お前たちが来れば、保護すると言って連れていくだろうからな」

「当たり前だろ。俺たちはそのためにいるんだ」

「知っている」


 セルヴァンが腕を組む。


「お前の話を疑ってるわけじゃねえ。ただ、母竜が託したからって、それだけでお前が育てていいことにはならん。竜は希少種だ。食事も魔力の管理も、成長すれば必要な場所だって変わる。お前の小屋で何とかなるのは今のうちだけかもしれんぞ」

「その頃には自分で決めるだろ」

「どこで暮らすかを?」

「ああ」

「仲間のところへ行くかもしれん」

「それなら行けばいい」

「お前を置いて?」

「好きにすればいい」


 私は茶を飲んだ。


 セルヴァンはしばらく黙っていた。やがて椅子から腰を上げ、ルカの傍へしゃがみ込む。眠っている仔竜は来客の気配にも気づかず、鱗へ鼻先を押しつけたまま、小さく寝息を立てている。


「……母親は、こいつを生かそうとしたんだな」


 独り言のような声だった。


「自分が助からねえと分かって、それでも最後に、お前へ渡した」


 セルヴァンは鱗に触れようとして、手を止めた。代わりに膝へ手を置き、しばらくルカの寝顔を眺めてから立ち上がる。


「森番《レンジャー》としては、連れて帰って保護するのが筋だ。ここに置くと決めたところで、俺が勝手に飼育許可を出せるわけでもねえ」

「なら連れていくか」


 自分で言ってから、妙に嫌な響きだと思った。


 セルヴァンは私を見た。


「お前はどうしたい」

「……何だ、その質問は」

「母竜が何を望んだかは聞いた。今度はお前の話だ」


 私は答えず、暖炉の方へ目を向けた。ルカが寝返りを打ち、鱗から鼻先を離す。少しして、何かを探すように前脚を動かし、また鱗へ身体を寄せた。


「私が連れてきたんだ」


 口にすると、それだけでは答えになっていない気がしたので、続ける。


「飯を食わせて、怪我をすれば薬を塗って、火を吐けば叱っている。今さら別の場所へ連れていかれても、こいつが困るだろう」

「こいつが?」

「……私も、少しは困る」


 セルヴァンは何も言わなかった。笑われると思っていたのだが、そういう顔ではなかった。


「分かった」


 ようやくそう言うと、セルヴァンは椅子へ戻った。


「ひとまず、お前に預ける」

「……いいのか」

「いいかどうかを、これから確かめるんだよ。食事や身体のことは、俺の方でも調べる。何か異常があれば隠さず言え。必要なら専門の治療師にも診せる。こいつがここで暮らせるかどうか、俺も見に来る」

「面倒だな」

「お前だけの問題じゃねえんだ。母竜が託した相手だからって、何があっても預けっぱなしにはできん」

「……それは、そうだな」


 セルヴァンは少し驚いた顔をした。


「お前が素直に認めるとは」

「認めたからといって、森番《レンジャー》にはならんぞ」

「まだ何も言ってねえだろ」

「言いそうな顔をした」

「どんな顔だよ」


 私は杯を持ち上げた。セルヴァンはもう一度ルカを見てから、今度は少しだけ声を和らげた。


「母親が誰に託したかは、分かった。だから今は、お前に任せる」


 暖炉で薪が爆ぜた。


 ルカは何も知らずに眠っている。私は茶を一口飲み、セルヴァンが余計なことを言い出す前に、話を変えることにした。


 そのうち、眠っていたルカが身体を起こした。


 前脚を伸ばし、背を反らしてから翼を一度大きく広げる。その様子を見ていたセルヴァンの眉が動いた。


「おい」

「何だ」

「……あいつ、何か様子がおかしくないか?」


 私は杯を置いた。


 ルカは立ってはいるものの呼吸が速く、翼も落ち着かないように開閉を繰り返している。


「ルカ?」


 返事がない。


 次の瞬間、身体が小さく震え、深緑の鱗の隙間から淡い光が漏れた。


「何!?」


 私は椅子を蹴るように立ち上がり、駆け寄ってその場へ膝をついた。


「ルカ! しっかりしろ!」


 身体へ手を伸ばすと、普段とは明らかに違う熱が掌へ伝わってきた。火傷するほどではないものの、ルカは身体を丸め、喉から苦しそうな音を漏らしている。


「どこが痛い」


 答えられるはずもない。


「セルヴァン、薬箱を!」

「待て」

「何だ!」

「触るな」

「ふざけるな」

「違う、見ろ!」


 言われた方を見る。


 ルカの翼の輪郭が揺れていた。


 最初は光のせいかと思ったが、よく見ると翼そのものが縮んでいる。骨が折れたのでも、身体へ畳み込んでいるのでもない。形そのものが変わり、尾が短くなり、全身を覆っていた鱗が淡い光へ溶けるように消えていく。


「……何だ、これは」


 小さかった身体が少しずつ伸びていく。


 四肢の形が変わり、関節の位置まで移動していく。前脚だったものには五本の指が現れ、後脚も踵をつけた人間の足へ変わった。


 漏れ出した魔力が小屋の空気を震わせ、暖炉の炎が一度大きく揺れる。


 セルヴァンも黙り込み、私も言葉が出なかった。


 最後に頭の角が縮み、髪の間からわずかに覗くほどの大きさになったところで、身体を包んでいた光が消えた。


 暖炉の前に敷いていた毛布の上には、裸の子供が座っていた。


 見たところ六、七歳ほどだろうか。緑がかった黒い髪に金色の目をしており、肩と耳の後ろにはわずかに深緑の鱗が残っている。


 子供は自分の手を不思議そうに眺め、一本ずつ指を動かした。自分の身体に起こったことを本人も理解していないらしく、目を大きく見開いている。


 気づけば、私はその前へしゃがんでいた。


「……ルカ?」


 顔が上がる。


 金色の目を見れば、同じだとすぐに分かった。


「そういや」


 背後でセルヴァンが声を出した。


「魔力の多い個体は、人に化けるというな」


 私は振り返った。


「そうなのか?」

「ああ」

「先に言え」

「俺だって実際に見るのは初めてだ」

「役に立たんな」

「お前に言われたくねえ」


 そのとき、ルカが口を開いた。


 最初は息が漏れただけだったが、もう一度口を開くと、初めて使う喉を確かめるように小さな音を出した。


「……ま」


 私はルカを見る。


 セルヴァンも見る。


 ルカの金色の目は、まっすぐ私へ向いていた。


「ママ」


 小屋の中が静かになった。


 私はルカを見る。


 ルカも私を見る。


 やがてセルヴァンが、妙にゆっくりとこちらへ顔を向けた。


「……だとよ」

「何がだ」

「おめでとさん」

「ふざけるな」

「俺が言ってるんじゃねえ」

「ママ」

「違う」


 即答した。


 ルカが首を傾げる。


「ママ」

「違う」

「ママ」

「違う。私に肩書を与えるな」


 セルヴァンが吹き出した。


「笑うな」

「いや、だってよ」

「何だ」

「お前、森番《レンジャー》も嫌、名家の娘も嫌、今度は母親も嫌か」

「当たり前だろう。働きたくいんだ、私は」

「徹底してるな」

「ママ」

「お前もだ」


 そう言うと、ルカが笑った。


 竜の顔をしていたときにも機嫌の良し悪しくらいは分かったが、人の顔になって笑うのを見るのは当然ながら初めてだった。口元を緩め、目を細くしている姿はあまりに無防備で、私は一瞬だけ次の言葉を忘れた。


 セルヴァンが顎へ手を当てる。


「……まあ、待て。チャンスかもしれんぞ」

「どういうことだ」


 セルヴァンは人の姿になったルカを改めて眺めた。


「竜の姿で飼っていたら、いつか俺みたいなのにバレる」

「もうバレている」

「だから俺みたいなのだ。勘のいい奴がいたとして、そいつがお前を目こぼしするとは限らねえ……だが人の姿なら話は違う。見た目だけなら、ちょっと変わった普通の子供だ」

「角がある」

「魔族の子なら珍しくない」

「鱗もある」

「それも混血なら説明できる」


 セルヴァンは腕を組んだ。


「森で身寄りのない孤児を拾った。放っておけなくて世話をしてる。そう説明すれば、少なくとも一目見ただけで竜だとは思われん」


 私は黙った。


「……嘘をつけと?」

「お前が言うか?」

「何がだ」

「最初に仔竜のことを聞いたとき、知らんと言い張っただろ」

「母竜から預かったとは聞かれなかった」

「それを世間では嘘って言うんだ」

「解釈の違いだ」

「便利な解釈だな」


 そのとき、服の裾を引かれた。


 見ると、ルカが私の服をつかんでいる。


 竜だった頃の前脚ではなく、人の手だ。まだ指にどう力を入れればいいのかも分からないらしく、小さな手で布を握るだけで精いっぱいのようだった。


「ママ」


 私はその手を見る。


「違う」


 先ほどより少し声が小さくなった。


 セルヴァンがそれを聞いていたのかどうかは知らない。


「嫌なら」


 私は顔を上げる。


「今からでも森番《レンジャー》に預けるか」


 軽い調子ではなかった。


 セルヴァンはルカではなく、私を見ている。


「正式に保護する。専門の治療師も成育師もいる。食事や魔力の管理もできる。設備だけなら、間違いなくこっちの方がいい」


 私は答えなかった。


「一か月そこらとは言え、お前はよくやった。俺なら悪いようにはしない」

「分かっている」


 それは本当だった。


 セルヴァンは口が悪く、しつこく、何度断っても私をレンジャーへ入れようとする面倒な男だが、保護した仔竜を研究材料として好き勝手に扱わせるような人間ではない。


 私が預ければ、少なくとも安全な場所へ連れていくだろう。


 私より詳しい者が食事を考え、怪我をすれば専門の治療師が診る。突然人の姿になったところで、私のように何が起きているのかも分からず慌てることもないかもしれない。


「なら――」


 セルヴァンが続きを言いかけたところで、また服を引かれた。


「ママ」


 私は長く息を吐いた。


「……裸だ」

「は?」


 立ち上がり、棚を開けた。


「服を探す」

「おい、答えは?」

「裸の子供をいつまでも床へ座らせておけるか」

「アリーハック」

「うるさい」


 棚の奥から古いシャツを一枚取り出した。私のものなので当然ながら子供には大きすぎるが、他に着せられそうなものはない。


「ほら」


 頭からかぶせると、急に視界を塞がれたルカが布の中でもがいた。


「暴れるな。腕を出せ」

「ママ」

「今は腕だ」


 布の中から片腕を探して袖へ通し、もう片方も出してやる。袖は三度折ってようやく手が出たが、それでもまだ少し長く、裾に至っては膝より下まであった。


「とりあえず、これでいい」


 明日にでも町へ行かなければならないだろう。


 人の姿で過ごすなら子供用の服がいるし、裸足のまま外へ出すわけにもいかないので靴も必要になる。何を食うのかは知らないが、歯を見る限り肉は食えるだろう。寝床も今までの籠では小さいから、そちらもどうにかしなければならない。


 考えるほど、また買うものが増えていく。


 そうしていると、背後から笑い声が聞こえた。


「何だ」

「いや」

「言え」

「答えは聞くまでもないと思ってな」

「何の話だ」

「何でもない」


 ルカが私の脚へ抱きついた。


 見下ろしてみると、どうやら人の身体になったことで移動の仕方まで分からなくなったらしい。


「……歩けるか?」


 身体を支えていた手を離してみた。


 ルカは自分で立とうとしたが、まだ人間の脚の使い方が分からないらしく、すぐに膝が崩れたので反射的に脇を支えた。


「まだ無理か」

「ママ」

「それしか喋れんのか」

「ママ」


 どうやら本当にそれしか知らないらしい。


 セルヴァンが椅子から立ち上がった。


「俺は帰る」

「そうしろ」

「その代わり」


 戸口まで行ったところで振り返る。


「孤児ってことにする案は考えとけ」

「断る」

「即答するな」

「私にまた肩書を増やす気だろう」

「誰もお前を何かにするとは言ってねえよ」


 セルヴァンは私の脚へしがみついているルカを見た。


「この子がここにいても不自然じゃない理由を作るだけだ」

「同じことだ」

「そうかね」


 セルヴァンは戸を開ける。


「じゃあな、ママ」


 私は近くにあった薪の欠片を投げた。


 セルヴァンは笑いながら身体を逸らして避け、そのまま外へ出て戸を閉めた。


「次言ったら射る」


 外からまだ笑い声が聞こえていた。


 やがて足音が森の方へ遠ざかり、小屋にいつもの静けさが戻った。


 夕暮れはもう終わりかけている。窓の外では木々の間へ残っていた光が薄くなり、暖炉の炎が部屋の中で一番明るいものになっていた。


 その前には、私の古いシャツを着たルカがいる。


「ママ」


 私は見下ろした。


「……違う」


 ルカは笑い、また私の服をつかんだ。


 今度は、その小さな手を外さなかった。


 肩書は嫌いだ。


 誰かに名前をつけられ、役割を与えられ、その役割に見合った人間であることを期待されるのは、もっと嫌いだ。


 母親になった覚えもなければ、誰かの親になる覚悟を決めたこともない。


 ただ、腹を空かせていれば飯を食わせた。夜中に鳴いて眠れないなら暖炉へ薪を足し、怪我をすれば薬を塗った。危ないものを口へ入れないよう棚へ扉をつけ、火を吐くようになれば燃えにくい布を買い、森へ出れば名前を呼んだ。


 姿が見えなくなれば探し、見つければ連れて帰った。


 母竜から渡されたものを、途中で放り出さなかっただけだ。


 それだけのことへ、わざわざ名前をつける必要などない。


「ママ」


 もう一度呼ばれた。


 私は長くため息をついた。


「……私に肩書を与えるな」


読んで頂きありがとうございます。


感想、レビュー、評価、ブックマークなどしてもらえると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。