お嬢様が婚約破棄されたですって? ぶっ殺してやる!!!!
※読みやすくなるよう、以前の内容を大幅に加筆・修正しています。
朝の陽射しが、レースのカーテンを淡く照らしていた。
鳥のさえずり、淹れたての紅茶の香り。磨き抜かれた床には、塵ひとつ落ちていない。
公爵令嬢クラリス・フォン・エーデルワイスの私室は、今日も完璧だった。
その完璧な朝を整えたのは、クラリス付きの侍女、リゼット=クローデルである。
名門エーデルワイス公爵家に仕えて十年以上。侍女としての能力は申し分なく、所作は優雅、判断は的確。主人の好みから体調の変化まで、誰よりも正確に把握している。
ただし一つだけ欠点があった。
クラリスが傷つけられると、理性を失うのだ。
「クラリス様、朝でございます」
リゼットが音もなくカーテンを開く。
天蓋付きの寝台では、クラリスが静かな寝息を立てていた。
長い睫毛、白い頬。淡い金色の髪が枕の上に広がり、朝の光を柔らかく弾いている。
ああ、麗しい。
リゼットは表情を一切変えず、心の中だけで両手を合わせた。
本日一度目の礼拝である。
「……ん……リゼット?」
「お目覚めでございますか、クラリス様」
寝起きの声まで美しい。
朝露に濡れた薔薇のつぼみとは、きっとこのようなものをいうのだろう。
いや、薔薇ごときと比べるのはクラリスに失礼かもしれない。
「今日は少し早いのね」
「午前十時より、刺繍組合の代表との面会がございますので。朝食の後、お召し替えを――」
そのとき、扉が慌ただしく叩かれた。
控えめではあるが、明らかに切迫した音だった。
リゼットの眉がわずかに寄る。
「入りなさい」
「失礼いたします!」
若い侍女が飛び込んできた。
胸元に一通の封書を抱え、顔を青ざめさせている。
「リゼット様、クラリス様に、その……王宮から……!」
「落ち着きなさい。まず息を整えてから話すのです」
「王太子殿下から、婚約破棄を通達する書状が届きました!」
部屋から音が消えた。
鳥の声も、時計の針も、風に揺れるカーテンの音さえも聞こえなくなったように感じられた。
「…………は?」
リゼットの口から、侍女としてあるまじき声が漏れた。
聞き間違いに違いない。
聞き間違いでなければならない。
「婚約破棄、と申しましたか?」
「は、はい……!」
「誰が」
「王太子エルマー殿下が……」
「誰との婚約を」
「クラリス様との婚約を……」
リゼットはゆっくりとクラリスを振り返った。
クラリスは寝台の上で身を起こし、呆然と若い侍女を見つめていた。
「……その書状を、こちらへ」
声は平静だった。
だが、掛布を握る指先だけが、白くなるほど強く力を込めている。
リゼットは若い侍女から封書を受け取り、王太子家の紋章を確認した。
正式なものだった。
中には、わずか数行。
『王太子エルマー=フォン=グランステイルは、クラリス・フォン・エーデルワイスとの婚約を破棄する。身分を越えて愛する女性と出会い、その女性と共に生きることを決意したためである。以上』
謝罪はない。
婚約者であったクラリスへの配慮もない。
両家の間で改めて協議するという一文すらない。
リゼットは三度読み返した。
何度読み返しても、内容は変わらない。
「……リゼット」
クラリスが、不安そうに名前を呼んだ。
リゼットは書状から顔を上げた。
「殿下から、事前に何かお話がございましたか」
「いいえ」
「愛する女性とやらについて、何か聞かされておりましたか」
「何も」
「王家から使者は?」
「この書状を届けた者だけでしょうね」
「クラリス様に、何らかの落ち度があったとの説明は?」
クラリスは首を横に振った。
リゼットの中で、何かが切れた。
十年以上。
クラリスは王太子妃となるために、幼い頃から自由を削ってきた。
歴史、外交、礼法、語学、政治。
不得意なことにも黙って向き合い、社交界で侮辱されても微笑み、王家の要求には一度も弱音を吐かなかった。
そのすべてに対する答えが、紙一枚。
しかも、ほかに愛する女ができたから。
リゼットは腰に差していた鉄扇に手を伸ばした。
護身用に鉄の骨を仕込んだ、特注品である。
ぱきり。
扇が開く音が、静まり返った室内に響いた。
「……お嬢様が」
「リゼット?」
「婚約破棄されたですって?」
リゼットは立ち上がった。
世界が赤く染まったような気がした。
「ぶっ殺してやる!!!!」
公爵家の屋敷全体が震えた。
廊下の向こうで、銀盆の落ちる音がした。
「待って、リゼット!」
クラリスが寝台から飛び降りる。
しかしリゼットは、すでに扉へ向かっていた。
「城へ参ります」
「ど、どうして!?」
「害虫駆除にございます」
「王太子を害虫扱いしないで!」
「失礼いたしました。国家に巣くう有害生物でございました」
「訂正になっていないわ!」
クラリスが背後からリゼットの腕へしがみついた。
「お願いだから落ち着いて! 殿下を殺したら、処刑されるのはあなたなのよ!」
「ご心配には及びません。事故に見せかけます」
「そんな技術、どこで覚えたの!?」
「侍女の嗜みにございます」
「絶対に違うわ!」
「では、正当防衛に見せかける方向で」
「殴り込みに行く時点で正当防衛にはならないでしょう!?」
もっともな意見だった。
だが、現在のリゼットに正論は通じない。
リゼットが一歩進むたび、クラリスは腕にしがみついたまま床を引きずられた。
「リゼット、止まりなさい!」
「お召し替えをしている時間が惜しゅうございます」
「そういう話ではないわ!」
「ご安心ください。殿下の始末は、クラリス様のお目に触れぬ場所で行います」
「余計に不安よ!」
とうとうクラリスは、扉の前へ立ちはだかった。
寝間着姿のまま両腕を広げ、必死の形相でリゼットを睨む。
「ここから先へ行きたいなら、わたくしを押しのけていきなさい!」
「承知いたしました」
「少しは迷って!」
リゼットはクラリスの腰へ腕を回した。
「え?」
次の瞬間、クラリスの体がふわりと浮いた。
リゼットは主人を米袋のように肩へ担ぎ上げる。
「きゃあああああっ!?」
「クラリス様を押しのけることなど、私にはできませんので」
「だからって担がないで! 降ろして、リゼット! 今すぐ降ろしなさい!」
「後ほど安全な場所でお降ろしいたします」
「ここが安全な場所よ!」
リゼットはクラリスを担いだまま、堂々と部屋を出た。
廊下にいた使用人たちが、一斉に壁際へ退避する。
「馬車を用意なさい」
老執事が一瞬だけクラリスの姿を見た。
クラリスは肩の上で必死に手足を動かしている。
「馬車は駄目! 用意しないで!」
「かしこまりました」
老執事は深く一礼した。
「王宮まで最も速い馬を用意いたします」
「どうしてリゼットの命令を聞くの!?」
「お嬢様。今のリゼットを徒歩で王都へ放つ方が、被害が大きくなると判断いたしました」
「正論なのが悔しいわ!」
数分後。
エーデルワイス公爵家の馬車は、王宮へ向かって猛然と走り出した。
***
王宮の正門へ到着しても、リゼットの勢いは衰えなかった。
馬車が完全に止まるより早く扉を開き、クラリスを再び肩へ担いで降りる。
「いい加減に降ろしてええええ!」
「地面が冷えておりますので」
「わたくしは靴を履いているわ!」
門を守る衛兵たちが槍を構えた。
「止まれ! 何者だ!」
「エーデルワイス公爵令嬢、クラリス様にございます」
リゼットはクラリスを担いだまま、完璧な礼をした。
「見ればわかるわよね!? 止めて! この侍女を止めてちょうだい!」
衛兵たちは顔を見合わせた。
止めるべきなのだろう。
しかしクラリス本人がリゼットの肩に担がれている。
鉄扇を握るリゼットの目は、明らかに人を殺す者の目だった。
「本日のご用件を伺っても……」
「王太子殿下の命を頂戴しに参りました」
「ご、護衛を呼べえええええ!」
王宮の正門が、一瞬にして騒然となった。
「リゼット! 正直に答えないで!」
「虚偽を申告するのは、侍女としていかがなものかと」
「殺害予告の方が問題よ!」
衛兵が次々と集まってくる。
だが、誰もリゼットに近づこうとはしなかった。
彼女が王太子の命を狙っているからではない。
近づいた拍子にクラリスを落とされては困るからである。
結果として、リゼットは一度も足を止めることなく王宮内へ入った。
正面玄関を抜け、大広間を横切り、玉座の間へ続く回廊を進む。
事情を知らない貴族や文官たちが、次々と道を開けた。
「どなたか助けてちょうだい!」
クラリスが肩の上から訴える。
しかし、リゼットの鉄扇を見ると誰もが視線を逸らした。
「どうして誰も助けてくれないの!?」
「クラリス様。王宮の者たちも命は惜しいのでございます」
「それをあなたが言うの!?」
やがて、謁見の間の巨大な扉が見えてきた。
扉の前には、数名の近衛騎士が並んでいる。
「これ以上は通せない」
騎士の一人が剣の柄へ手をかけた。
リゼットは足を止める。
「中に、エルマー殿下はいらっしゃいますか」
「お答えできない」
「では、いらっしゃるのですね」
「なぜそうなる!」
扉を守る二人の近衛騎士が、リゼットの前へ立ちはだかった。
「これ以上は通せない。公爵令嬢を降ろし、武器をこちらへ渡せ」
「リゼット、聞いたでしょう! わたくしを降ろして!」
「少々お待ちください」
リゼットはクラリスを肩から降ろした。
ようやく自由になったクラリスは、すぐさまリゼットの腰へしがみつく。
「行かせないわよ!」
「クラリス様」
「絶対に行かせません!」
「申し訳ございません」
「え?」
リゼットはクラリスを抱え直し、今度は片腕で横抱きにした。
「どうして抱き方を変えただけなの!?」
「止まれ!」
近衛騎士の一人が、リゼットの肩を掴もうと踏み込んだ。
だが、その腕が届くより早く、リゼットの鉄扇が騎士の手首を打った。
「ぐっ!」
騎士の手が弾かれる。
もう一人が反対側からクラリスを受け取ろうと腕を伸ばしたが、リゼットは身を翻し、その足を払う。
重い鎧が床へ落ちた。
「リゼット! 近衛騎士を倒しては駄目よ!」
「倒してはおりません。少々お休みいただいただけです」
「床に転がっているでしょう!」
最初の騎士が痛む手首を押さえながら、再び立ちはだかる。
「通すわけにはいかない!」
「忠義は立派でございます」
リゼットは閉じた鉄扇を騎士の剣の柄へ打ちつけた。
抜かれかけていた剣が鞘へ戻る。
続けて騎士の胸当てを押すと、その体は数歩後ろへ下がり、扉へ背中をぶつけた。
「ですが、私にも譲れぬものがございます」
リゼットはクラリスを抱いたまま、扉の前へ進む。
近衛騎士たちはなおも立ち上がろうとしたが、クラリスを巻き込む危険があるため、剣を抜くことができない。
「リゼット、もう十分でしょう! 話し合いましょう!」
「話し合いは殿下のお顔を拝見してからにいたします」
リゼットは鉄扇を閉じた。
そして、扉を留めていた金具へ一撃を叩き込む。
轟音が響いた。
鉄製の金具がひしゃげ、重い扉が内側へ開く。
「侵入者だ!」
室内に控えていた近衛騎士たちが、一斉に剣を抜いた。
その中央、玉座の前に立っていた王太子エルマーが、リゼットの姿を認める。
片腕にはクラリス。
もう一方の手には、鉄扇。
扉の外では二人の近衛騎士が床へ転がっている。
エルマーの顔から血の気が引いた。
「ひっ……」
リゼットはクラリスを静かに床へ降ろす。
「こちらでお待ちください」
「待たないわよ! リゼット、駄目だからね!?」
クラリスが再び腕へしがみつく。
同時に、室内の近衛騎士たちがリゼットを取り囲んだ。
「武器を捨てろ!」
「お断りいたします」
最初の騎士が踏み込んだ。
リゼットは振り下ろされた剣を鉄扇で受け流し、その手首を扇の骨で打つ。剣が床へ落ちた。
二人目の槍を身を沈めてかわし、柄を踏みつける。均衡を崩した騎士の胸を扇で押すと、背後の騎士を巻き込んで倒れた。
「リゼット! 近衛騎士を倒すのも駄目よ!」
「手加減しております」
「そういう問題ではないわ!」
残った騎士たちは動きを止めた。
誰も大きな怪我はしていない。
だが、次に自分が床へ転がされることだけは、全員が理解していた。
リゼットは鉄扇を開き、赤い絨毯の上を歩き始める。
近衛騎士たちは剣を構えたまま、じりじりと道を譲った。
エルマーだけが、玉座の前に取り残された。
「な、なんだお前は!」
「エーデルワイス公爵家にて、クラリス様付きの侍女を務めております。リゼット=クローデルにございます」
「侍女が王宮で何をしている!」
「ご挨拶に参りました」
「その鉄扇を置け!」
「これはご挨拶に必要な品でございますので」
「どんな挨拶だ!」
リゼットは足を止めた。
エルマーとの距離は、十歩ほど。
王太子は怯えを隠すように胸を張った。
「クラリスには、書状を送ったはずだ。僕には愛する女性ができた。婚約は破棄する。それだけのことだ!」
「それだけ」
リゼットは、静かに繰り返した。
「はい。それだけのことでございますね」
「そうだ! 誰を妻にするかは、僕が決める!」
「もちろんでございます」
素直な返答に、エルマーの顔へわずかな余裕が戻った。
「わかったなら――」
「では、どなたを愛そうと、どなたを妻に選ぼうと、殿下のご自由です」
「そうだろう!」
「ですが」
リゼットは鉄扇を開いた。
「十年以上も婚約者として尽くした女性を、紙一枚で捨てる自由など、どなたから与えられたのですか?」
エルマーの喉が鳴った。
「す、捨てたわけではない。婚約を解消しただけだ」
「事前の説明もなく?」
「直接言えば、クラリスが傷つくだろう!」
「紙一枚なら傷つかないと?」
「そ、それは……」
「謝罪もなく?」
「僕は王太子だぞ!」
エルマーが声を張り上げる。
「国法に違反したわけでもない! 婚約を破棄したからといって、処罰される筋合いはない!」
「おっしゃるとおりです」
リゼットは微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、エルマーが一歩後退した。
「国法には、婚約者を紙一枚で捨ててはならないという条文はございません」
「そ、そうだ」
「同様に」
リゼットは鉄扇を振り上げた。
「鉄扇で殿下の尻を百回叩いてはならないという条文も、私は存じ上げません」
「ある! 絶対にある!」
「では、九十九回にいたしましょう」
「回数の問題ではない!」
リゼットは一歩進んだ。
エルマーは一歩下がった。
「く、来るな!」
「クラリス様は、幼い頃から王太子妃となるために懸命に努力してまいりました」
また一歩。
「社交の場で侮辱されても、殿下のお立場を考えて耐えてこられました」
また一歩。
「殿下の不得手な政務を陰で支え、失言を取り繕い、何度も王家の名誉を守ってこられました」
エルマーの背中が、玉座へぶつかった。
「それを、ほかに女ができたから不要になったと?」
「そ、そんな言い方はしていない!」
「次の相手を探せばよい、とでも思っておられるのでしょう」
「公爵令嬢なのだから、相手などすぐ見つかるだろう!」
その一言で、リゼットの顔から微笑みが消えた。
鉄扇が振り下ろされる。
「ひいいっ!」
甲高い音とともに、エルマーのすぐ横にあった玉座の肘掛けが砕けた。
謁見の間が静まり返る。
エルマーは、砕けた肘掛けとリゼットを交互に見た。
「外しました」
「わ、わざと……?」
「次も外すとは限りません」
エルマーの膝が震え始めた。
「リゼット! 壊すのも駄目よ!」
背後からクラリスの声が飛んでくる。
「申し訳ございません。修理費は殿下の給金より差し引いていただきます」
「どうして僕が払うんだ!」
「では、次は修理費のかからない場所を打ちます」
リゼットの視線が、エルマーの尻へ向いた。
王太子は両手で尻を隠しながら玉座の裏へ逃げ込む。
「待て! 話し合おう!」
「先ほどまで、話し合う価値すらないと書状一枚で済ませた方が、何をおっしゃっているのですか?」
「謝る! 謝るから!」
「誰にですか?」
「き、君に……」
鉄扇が玉座の背へ叩きつけられた。
エルマーが悲鳴を上げる。
「私に謝ってどうするのです」
「クラリスに! クラリスに謝る!」
「では、出てきなさい」
エルマーは玉座の裏から、そっと顔を出した。
リゼットが鉄扇を持ち上げると、すぐに引っ込む。
「出てきなさい」
「殴らないか?」
「態度次第でございます」
「殴るつもりじゃないか!」
「早くなさいませ」
エルマーは涙目になりながら、四つん這いで玉座の裏から出てきた。
そのままクラリスの前まで進む。
謁見の間にいた側近たちは、誰一人として王太子を助けなかった。
助けに入れば、自分が次の標的になるからである。
「く、クラリス……」
「殿下」
クラリスは複雑そうな顔で、床に這いつくばる婚約者を見下ろした。
「申し訳、なかった」
リゼットが鉄扇で自分の手のひらを叩く。
ぱしん。
エルマーの肩が跳ねた。
「聞こえません」
「申し訳なかった!」
「何についてですか?」
「書状一枚で婚約を破棄したこと!」
「それだけですか?」
「相談しなかったこと! 謝罪をしなかったこと! クラリスの気持ちを考えなかったこと!」
「ほかには?」
「ま、まだあるのか!?」
リゼットが鉄扇を持ち上げる。
「あります! あります!」
エルマーは頭を床へ擦りつけた。
「今まで支えてもらったことを当然だと思っていた! 別の女性に身分を隠して近づいた! クラリスに別に婚約者がいることを黙っていた!」
「それは初耳でございますね」
リゼットの声が一段低くなった。
エルマーの顔が固まる。
「殿下」
「はいっ!」
「その女性は、殿下が王太子であることをご存じなのですか?」
「し、知らない……」
「婚約者がいることは?」
「言っていない……」
「つまり、クラリス様だけでなく、その女性まで騙していたと?」
「ひっ……」
リゼットは鉄扇を両手で握った。
「リゼット、待って!」
クラリスが慌てて駆け寄る。
「これは婚約破棄とは別件にございます」
「別件でも殺しては駄目よ!」
「ですが、殿下は一度痛い目を見なければ理解できないご様子です」
「もう十分痛い目を見ているわ! 主に精神的に!」
「精神だけでは、また同じ過ちを繰り返す可能性がございます」
リゼットはエルマーを見下ろした。
王太子は床に額をつけ、全身を震わせている。
「殿下」
「な、なんだ……」
「歯を食いしばりなさいませ」
「なぜだ!」
「尻を出しなさい」
「絶対に嫌だ!」
エルマーが逃げようと立ち上がる。
リゼットはその襟首を掴んだ。
「離せ! 僕は王太子だぞ!」
「存じ上げております」
「王太子の尻を叩けば、ただでは済まないぞ!」
「クラリス様を泣かせた方が、ただで済むと思っていらしたのですか?」
「まだ泣いてない!」
「泣かせてからでは遅いのでございます!」
リゼットはエルマーを片腕で持ち上げ、膝の上へ伏せさせた。
「待て、待て待て待て!」
「リゼット! 本当に駄目!」
「一発だけにいたします」
「一発でも駄目よ!」
「では、愛情を込めて」
「誰への愛情なの!?」
「クラリス様にございます」
「殿下に対する加減へ反映されない愛情でしょう!」
リゼットは鉄扇を閉じ、振り上げた。
「覚悟!」
「助けてくれええええええ!」
鉄扇が振り下ろされる。
乾いた音が、謁見の間に響き渡った。
「ぎゃあああああああああああっ!」
エルマーの絶叫が、王宮全体を揺らした。
リゼットは手加減した。
本気なら尻では済まない。
それでも王太子は床へ転がり、尻を押さえて涙を流した。
「い、痛い……!」
「クラリス様が受けた痛みに比べれば、蚊に刺された程度でございます」
「尻が割れた!」
「元から割れております」
「そういう意味じゃない!」
リゼットは再び鉄扇を持ち上げた。
「もう一発」
「一発だけって言ったじゃないか!」
「先ほどの一発で、殿下の中に反省が見られませんでしたので」
「反省した! 心の底から反省した!」
「では、二度とクラリス様へ無礼を働かないと誓えますか」
「誓う!」
「今後、いかなる女性にも身分や婚約の有無を偽らないと?」
「誓う!」
「婚約解消について、王家と公爵家へ正式に謝罪し、クラリス様の名誉を回復すると?」
「誓います!」
「声が小さい!」
「誓いますうううううううう!」
エルマーの絶叫が天井へ吸い込まれていく。
リゼットは満足し、鉄扇を下ろした。
「よろしいでしょう」
そのとき、奥の扉から重々しい声がした。
「何が、よろしいのだ」
謁見の間にいた全員が凍りついた。
現れたのは国王だった。
その後ろには王妃と数名の重臣が並んでいる。
国王は壊れた玉座、尻を押さえて泣く息子、鉄扇を持つリゼットを順番に見た。
長い沈黙の後、深く息を吐く。
「説明してもらおうか」
「父上! この侍女が僕の尻を!」
「お黙りなさい!」
王妃の一喝が飛んだ。
エルマーは肩を縮める。
国王は床に落ちていた婚約破棄の書状を拾い、目を通した。
読み終える頃には、額に青筋が浮かんでいた。
「エルマー」
「は、はい……」
「お前は、両家の協議もなく、この書状をクラリス嬢へ送りつけたのか?」
「その……僕には愛する女性が……」
「その女性には、自分が王太子であり、婚約者がいることを伝えていないそうです」
リゼットが補足する。
国王の目が細くなった。
「事実か」
「……はい」
「愚か者!」
国王の怒声に、エルマーが飛び上がった。
「お前は恋をしたのではない! 身分と責任から逃げたかっただけだ! そのうえ、二人の女性を同時に欺いた!」
「父上……」
「王太子としての公務をすべて停止する。当面、離宮で謹慎せよ。婚約については白紙に戻し、王家からエーデルワイス公爵家へ正式に謝罪する」
エルマーは絶望した顔で床へ崩れた。
国王はクラリスへ向き直る。
「クラリス嬢。愚息が取り返しのつかぬ無礼を働いた。王家を代表して、心より謝罪する」
「陛下……」
「君の名誉が傷つかぬよう、婚約破棄ではなく、愚息の不行状を理由とした婚約解消として公表する。これまで王家のために尽くしてくれたことにも、相応の補償を約束しよう」
クラリスは静かに頭を下げた。
「ご配慮、感謝いたします」
「そして、そちらの侍女」
国王の視線がリゼットへ向く。
「はい」
「王宮へ武器を持ち込み、扉と玉座を破壊し、王太子の尻を叩いた件については、処罰せねばならぬ」
「いかなる処罰も受け入れる所存にございます」
リゼットは即座に頭を下げた。
「陛下!」
クラリスがリゼットの前へ飛び出した。
「リゼットは、わたくしのために――」
「クラリス様」
リゼットは穏やかに主人を制した。
「私は、自分の意思で行いました。クラリス様がお咎めを受ける必要はございません」
「けれど……!」
国王は二人を見比べた。
その後ろで、王妃が小さく咳払いをする。
「陛下」
「なんだ」
「息子があのような書状を送りつけなければ、そもそも侍女が乗り込んでくることもなかったのでは?」
「それはそうだが……」
「王宮の警備が、令嬢を担いだ侍女一人を止められなかったことにも問題がございます」
近衛騎士たちが、一斉に顔を伏せた。
「それに」
王妃は尻を押さえて泣く息子を見下ろした。
「エルマーには、あれくらいがちょうどよい薬でしょう」
「母上!?」
王妃は聞こえなかったふりをした。
国王はこめかみを押さえ、しばらく考え込んだ。
「……玉座と扉の修理費については、エルマーの私財より支払わせる」
「なぜ僕が!?」
「黙れ」
「はい」
「侍女リゼット=クローデルには、一か月間の王宮への立ち入りを禁ずる」
「一か月だけでございますか」
「不満なのか?」
「いいえ。寛大なご処置、感謝いたします」
「ただし、今後、鉄扇を持って王宮へ来ることは認めぬ」
「では、鋼鉄製の日傘であれば」
「認めぬ」
「仕込み箒は」
「認めぬ!」
「承知いたしました」
リゼットは深々と頭を下げた。
***
その日の夕方。
リゼットは、公爵家の小さな控室で椅子に座っていた。
国王からは軽い処分で済まされたものの、公爵からは長時間にわたって叱責された。
王太子への殺害予告。
王宮への強行侵入。
扉と玉座の破壊。
王太子の尻への一撃。
並べてみれば、弁明の余地はない。
クラリスを守るつもりだった。
だが、結果として主人を騒動へ巻き込み、公爵家にも迷惑をかけた。
そこだけは、深く反省していた。
「リゼット」
扉が静かに開き、クラリスが入ってくる。
朝とは違い、淡い青色のドレスをまとっていた。
リゼットは立ち上がり、深く頭を下げる。
「この度は、私の軽率な行動により、クラリス様と公爵家のご名誉を損ないましたこと、深くお詫び申し上げます」
「顔を上げて」
「しかし」
「リゼット」
いつもより少しだけ強い声だった。
リゼットは顔を上げる。
クラリスは怒っているようには見えなかった。
むしろ、困ったような顔をしている。
「隣に座ってもいいかしら」
「そのような椅子に、クラリス様をお座らせするわけには」
「いいから」
クラリスは、リゼットの隣へ腰掛けた。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
「……ありがとう」
不意に告げられた言葉に、リゼットは目を見開いた。
「クラリス様?」
「もちろん、殿下を殺そうとしたことには怒っているわ」
「殺してはおりません」
「殺そうとはしたでしょう」
「未遂にございます」
「威張るところではないわ」
クラリスは小さく息を吐いた。
そして、自分の手を膝の上で重ねる。
「わたくし、本当は怒っていたの」
その声は、かすかに揺れていた。
「悲しかったし、悔しかった。けれど、殿下は王太子でしょう? だから、何も言ってはいけないと思っていたの」
「……クラリス様」
「怒れば、未練がましいと言われる。泣けば、王太子妃に相応しくないと言われる。黙って受け入れることが、貴族令嬢として正しいのだと思っていた」
クラリスは顔を上げた。
「でも、あなたが怒ってくれた」
「私は、少々怒りすぎました」
「少々ではなかったわね」
「申し訳ございません」
「けれど、嬉しかった」
クラリスが微笑んだ。
「わたくしの代わりに、あれほど怒ってくれる人がいる。わたくしが傷つけられたことを、許せないと思ってくれる人がいる。それがわかっただけで、救われたの」
リゼットの喉が詰まった。
「だから、ありがとう」
クラリスは、そっとリゼットの手へ自分の手を重ねた。
「あなたがいてくれて、本当によかった」
「……もったいないお言葉にございます」
リゼットは顔を伏せた。
そうしなければ、侍女らしくない顔を見せてしまいそうだった。
「ただし」
クラリスの声が厳しくなる。
「次に何かあったときは、殿下を殺しに行く前に、わたくしへ相談すること」
「殺しに行くこと自体は禁止ではないのですか」
「禁止よ!」
「では、尻を叩く程度で」
「それも駄目!」
「一発だけでも?」
「今日すでに叩いたでしょう!」
「もう一発ほど必要だったかと」
「必要ありません!」
クラリスは頬を膨らませた。
だが、すぐに耐えきれなくなったように笑い出した。
その笑顔を見た瞬間、リゼットの胸に温かなものが広がった。
クラリスが笑った。
ならば、今日の戦は勝利である。
***
王太子エルマーが公爵令嬢への婚約破棄を紙一枚で済ませようとし、その侍女に王宮へ殴り込まれた事件は、瞬く間に王都中へ広まった。
王太子が玉座の裏に隠れた。
侍女が鉄扇一振りで扉を吹き飛ばした。
王太子が泣きながら床を這い、最後には尻を叩かれた。
噂には尾ひれがつき、数日後には、リゼットが単身で近衛騎士百人を打ち倒したことになっていた。
そして王都では、ある言葉が流行した。
大切な人が傷つけられたとき。
理不尽な目に遭い、怒ることすらできずにいる人を見たとき。
人々は鉄扇を開く真似をしながら、こう叫ぶのだ。
「お嬢様が婚約破棄されたですって? ぶっ殺してやる!!!!」
もちろん、本当に殺してはいけない。
だが、自分のために怒ってくれる誰かがいることは、ときに傷ついた心を救うのだ。
それから数日後。
クラリスの私室では、いつもどおり穏やかな朝の時間が流れていた。
「そういえばリゼット。来月、王宮で舞踏会が開かれるそうよ」
「王宮でございますか」
「今度は絶対に騒ぎを起こさないでね」
「ご安心ください。鉄扇の持ち込みは禁止されておりますので」
クラリスは、ほっと胸を撫で下ろした。
「それなら安心ね」
「はい。当日は素手で参ります」
「それが一番不安なのよ!」
クラリスは額を押さえた。
「いいこと、リゼット。今後は殴るのも、扉を壊すのも禁止です」
「では、お嬢様を傷つけた者にはどのように反省を促せばよろしいのでしょうか」
「普通に話し合いなさい」
「話を聞かない者もおります」
「だからといって、殴ってはいけません」
「相手を傷つけず、逃げることも許さず、自らの過ちと向き合わせる方法が必要ということですね」
リゼットはしばらく考え込んだ。
やがて、何かを思いついたように顔を上げる。
「正座」
「え?」
「正座をさせましょう」
「どうしてそうなるの?」
「武器は不要。怪我を負わせる心配もなく、その場から逃げることもできません。姿勢を正し、自らの行いについてじっくり考えていただけます」
「いえ、だから普通に話し合えば――」
「大変よい方法でございます」
「人の話を聞きなさい!」
公爵家の屋敷に、今日もクラリスの悲鳴が響いた。
――悪いことをした者は、まず正座。
その日から、それはリゼットにとってごく当たり前の作法となった。
本作は、現在連載中の『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』の原型となった作品を、全面的に書き直したものです。
『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』の方も、どうぞよろしくお願いいたします。
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