名作とはなにか? 後編
名作とはなにか? 後編
AIが書いた小説がうまい、読める、脅威だ、という話はもう前提でいいと思っている。
そこを否定したいわけではない。
実際、AIはかなり強い。
一文は整う。
読みやすい。
構成もそれなりにまとまる。
叩き台も早い。
比較もできる。
バリエーションも出せる。
平均以上に読めるものを短時間で量産する力は、もう普通にある。
だから、脅威だと感じる人がいるのも自然だと思う。
ここで「いや、全然大したことない」と言いたいわけではない。
むしろ逆で、強いことはもう認めた方が早い。
それでも私は、AIに作家は負けないと思っている。
ただしこれは、文章力で勝てるとか、速度で勝てるとか、そういう意味ではない。
そういう土俵なら、たぶんかなり厳しい。
単文の整い、読みやすさ、叩き台の速度、そのあたりは今後もどんどん強くなるだろう。
それでもなお、作家は負けないと思う。
理由は単純で、作品の本体はそこではないからだ。
AIはパーツをかなり強く作れる。
ここは本当にそう思う。
文章、設定、プロット補助、要約、展開、比較。
このへんはかなり強い。
でも作品は、パーツの寄せ集めではない。
一文がきれいでも足りない。
シーンが読めても足りない。
プロットがつながっても足りない。
感情がそれっぽくても足りない。
それぞれが単体で成立していることと、作品として通ることは別だ。
本当に重要なのは、それらがどう噛み合うかだと思っている。
見た目。
音。
シーンの整合。
序列。
関係条件。
心理。
現象の効き方。
誤解の置き方。
読者がどう受け取るか。
そして最後に、作者自身がどこまで盛らずに通すか。
ここで、編集の生存理由も見えてくる。
作品の本体が多層構造の調和にあるなら、個人がそれを全部一人で持ち切るのは普通に重い。
だからこそ、別レイヤーの視点を持つ他人が入る意味がある。
編集の価値は、作家より優れていることではなく、作家が同時に持ちきれない別の層を足すことにある。
AIが各層の補助に強くなっても、この“別レイヤーの人間視点”の価値は簡単には消えないと思う。
作品には、こういう複数のレイヤーがある。
しかも厄介なのは、これらが順番に並んでいるわけではないことだ。
同時に存在して、同時に噛み合っていないといけない。
だから作品の本体は、パーツそのものではなく、複数レイヤーの調和にあると思っている。
ここで前の話ともつながる。
私は、名作とは何かを考えた時、深いテーマがあるだけでは足りないと思った。
高深度の内面を、多段構造のまま、毒を殺しすぎず、読める形に落とす必要がある。
もしそれがある程度当たっているなら、AI時代でも最後に残るのは同じ話になる。
つまり、多層構造の調和だ。
AIは各層の補助には強い。
ここはかなり強い。
だから私はAI否定をしたいわけではない。
むしろ各レイヤーごとの補助機構としては、かなり優秀だと思っている。
ただ、それでも全層調和の最終責任は別だ。
どこを削るか。
どこで止まるか。
どの毒をどこまで残すか。
どの層を優先して、どの層をあえて薄くするか。
どこまで読者に誤解させ、どこで真因を見せるか。
こういう判断は、結局最後に誰かが引き受ける必要がある。
そしてそこが、まだ人間の土俵だと思う。
AIが強くなるほど、平均点は上がる。
読めるものは増える。
一般消費者は、たぶんもっと雑にそれを消費するようになる。
そこはかなりそうだと思う。
でも、本の虫や偏食家や、毒を探して読む人たちは別だ。
彼らが見ているのは、平均点ではない。
どこにしかない毒があるか。
どこでしか立たない調和があるか。
誰にしか残せない切断面があるか。
そこを見る。
だから、AIが強いことと、作家が負けることは別だ。
文章の巧さ勝負は厳しくなるだろう。
設定量勝負も埋まるだろう。
速度勝負も強いだろう。
でも、それは戦場の一部でしかない。
何を残すか。
どこで止まるか。
どの毒をどこまで中和するか。
複数レイヤーをどう噛み合わせるか。
そこはまだ、簡単には食われない。
だから私は、AIに作家は負けないと思っている。
もう少し正確に言うなら、作家の戦う場所はそこではない、になる。
単文の巧さでもない。
設定量でもない。
平均的な完成度でもない。
多層構造の調和。
そこが、人間の作家の土俵だと思っている。
AIは強い。
そこはもう前提でいい。
でも、強いことと、全部を奪うことは別だ。
作品が作品である理由が、複数レイヤーの調和にあるなら、そこを最後まで引き受ける主体はまだ消えない。
だから私は、AIに作家は負けないと思っている。




