『分析の顔をした価値軸の再販売』
SNSやnoteで「本質」「構造」「地頭」「深い思考」といった言葉をよく見かける気がする。
こういう文章は読みやすいし、断片的な現象に筋道を与えてくれる。
ただ、読んでいて引っかかるものがある。
分析文の顔をしているのに、実際には観測ではなく、価値軸の入れ替えをしているように見える文章だ。
この手の文章は、まず既存の評価軸をわかりやすく狭める。
たとえば学校で評価される能力を、暗記力や再現力のようなものに寄せて描く。
その上で別の価値軸を提示する。地頭、構造把握力、本質理解、深い思考。
そして孤独、ズレ、未評価感、報われなさといった読者のしんどさを、そちら側の価値へ接続する。
ここで起きているのは、説明というより再配置だ。
本来は分けて考えるべき現象が、「あなたは劣っていたのではなく、まだ正しく評価されていなかった」「深いからズレるのだ」という一つの物語へ回収される。
問題は、雑な一般化そのものではない。
それが弱っている人にとって、救済としてちょうどよく機能してしまうことだと感じる。
本来必要なのは切り分けなのに、そこに気持ちのいい意味づけが先に置かれる。
さらにその先には、たいてい商品がある。
その価値軸を鍛える方法として、noteや教材や講座が置かれる。
既存の物差しを崩し、別の物差しを提示し、その物差しへの接近手段を売る。
ここまで来ると、もう分析というより販売に近い。
だから、こういう文章を読む時に見るべきなのは、正しいかどうかだけではない。
何を雑に切り落としたか。
どの不全感を拾ったか。
どの価値軸へ再配置したか。
そして最後に何を売ろうとしているか。
分析の顔をした価値軸の再販売。
最近見かけるこの手の文章への違和感は、たぶんこの一言で足りる。
もちろん、価値軸を提示し直すこと自体が即座に悪いわけではない。
ただ、それが観測のように見えながら、実際には救済と販売の導線として機能している時、私はそこに強い引っかかりを覚える




