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吉原格子先之図

嘉永二年(1849年)。北斎は九十歳を迎え、その体は枯れ木のようになりながらも、眼光だけは野獣のように鋭かった。

「お栄、こっちへ来い。この鳳凰の羽、どうにも『生きて』こねえ」

信州小布施の岩松院。その天井に描く巨大な『鳳凰図』の下絵を前に、北斎は苛立たしげに筆を投げ出した。北斎の線は神業のごとき鋭さを持っていたが、色の重なりによる「深み」においては、もどかしさを感じていた。

応為(お栄)は、黙って父の隣に座った。

彼女の手には、父の墨とは別に、自ら調合した濃淡の異なる絵具が握られている。

「父上。線は天を突き抜けるほど見事です。ですが、光が当たっておりませぬ」

「光だと?」

「ええ。光が当たるからこそ、闇が生まれ、羽の一枚一枚が浮き出るのです。……見ていてください」

応為は筆を執ると、父が描いた鋭い線の隙間に、驚くほど繊細な階調で朱と金を置いていった。それは単なる色付けではない。光の粒子を一つずつ紙に叩きつけるような作業だった。

北斎は、酒を飲むのも忘れて娘の横顔を見つめた。

応為の筆先から、鳳凰の胸元にふわりと立体感が宿る。まるで、今まさに天井から飛び立とうとする生き物の鼓動が聞こえてくるようだった。

「……ふん。お前は相変わらず、理屈っぽい絵を描きやがる」

北斎は毒づいたが、その口元は緩んでいた。

彼は知っていた。自分の「線」という骨組みに、娘の「光」という魂が吹き込まれることで、葛飾の絵は完成することを。

晩年、北斎の名で世に出された肉筆画の数々。

その着物の艶やかな照り返しや、夜のしじまに溶け込むような影の部分。そこには必ず、父の背中を支え、闇の中に光を灯し続けた応為の筆跡が刻まれていた。

「お栄。俺が死んだら、誰がお前の描く光に線を引いてやるんだろうな」

北斎の不器用な言葉に、応為は微笑んで答えた。

「父上、心配はいりませぬ。私はもう、あなたの線を自分の指先に覚え込ませましたから」

二人の笑い声が、墨の香る仕事場に響く。

それは、世界が後に「葛飾北斎」という天才一人だけの功績として記憶することになる、美しき共犯者たちの時間だった。


北斎がこの世を去ってから、数年の月日が流れた。

長屋の空気はどこか寂しくなったが、墨の香りと、紙を撫でる筆の音だけは変わらない。応為は、父が座っていた場所で、今や一人で巨大な闇と向き合っていた。

「父上、見ていますか。これが、あなたが私に託した光です」

彼女は、北斎が生前「どうも上手くいかない」とこぼしていた、西洋画の陰影法を江戸の景色に溶け込ませようとしていた。

描き上げたのは、夜の吉原。

かつて父が描いた富士山のような雄大さはない。しかし、そこには人間が放つ、泥臭くも温かい火の光があった。

提灯の明かりが石畳を舐めるように照らし、格子の向こう側の遊女たちを鮮やかに浮き上がらせる。一方で、手前の男たちは真っ黒な影となり、匿名性の闇に沈んでいる。

完成した『吉原格子先之図』を前に、応為は筆を置いた。

ふと、背後に気配を感じる。

振り返っても誰もいない。だが、そこには確かに、画狂老人と呼ばれた父が「あご、いい影を描きやがったな」と、あの大笑いをしているような気がした。

彼女は静かに微笑み、窓を開けた。

夜明けの光が差し込み、彼女の描いた「江戸の夜」を優しく包み込んでいく。

「さあ、次の光を探しに行きましょうか」


「天才は一人でいい」

それが、応為が己に課した呪縛だった。

父・北斎が描けば、それは「神の業」として語り継がれる。自分がどれほど光を操ろうとも、世間は「流石は北斎の娘だ」と、すべてを父の功績に帰してしまう。

なら、それでいい。私は父の影として、この光を捧げよう。

そう決めていたはずだった。

だが、『吉原格子先之図』を仕上げたその夜。

行灯の微かな光に浮かび上がった、格子の向こう側の遊女たち。地面を舐めるように広がる朱色の影。それは、父・北斎が一生かかっても辿り着けなかった、応為だけの「光の真実」だった。

「……これだけは。これだけは、私のものだ」

筆を握る手が、かすかに震えた。

父を裏切るような背徳感と、一人の表現者としての飢え。彼女は墨を最小限に含ませた極細の筆を手に取った。

彼女が狙ったのは、画面の右端。

提灯の明かりが石畳を照らし、ちょうど影が交差する、誰もが見逃すような場所。

そこには三つの提灯が描かれている。

応為は、その提灯の胴の部分に、模様を装ってそっと文字を書き込んだ。

一文字目は、「応」。

二文字目は、「為」。

三文字目は、「栄」。

それは、絵を鑑賞する者が目を凝らしてようやく判別できるかどうかの、祈りにも似た小さな署名。


時が流れ、現代。

美術館の暗い照明の下で、ある研究者が赤外線カメラを覗き込む。

「……見ろ。提灯の模様の中に、文字が隠されている」

数百年、誰にも気づかれなかった闇の底で。

「天才は一人でいい」と笑った女の、消せなかった誇りが、今もなお鋭い光を放ち続けている

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