応為 レンブラントに出合う
江戸時代
葛飾北斎にはアシスタントの娘が居た
葛飾応為である
「応為」
北斎が呼びかける。
微笑みながら筆を置き、窓から差し込む午後の光に目を細める
何か御用ですか、父上?今日は富士山の輪郭をもう少し柔らかく描いてみたいと思っているのです。
北斎は呟く
「美人画は応為に全くかなわないな」
嬉しさと照れが入り混じった表情で、筆を持った手で頬を覆いながら、部屋の中に漂う墨の香りを感じつつまあ、お世辞が上手になりましたね。美人画は…確かに若い頃から描いてきましたから、少しは心得があるのかもしれません。
北斎は顔を上げ聞く、
お前再婚は?
応為は離婚し北斎のアシスタントになっていた
突然の質問に戸惑い、筆を持つ手がかすかに震える。頬が薄紅色に染まり、書斎の机に置かれた和紙の上に墨の滴が落ちる
再婚…ですか。父上、なぜ急にそんなことを?今は絵に没頭していて、そういうことは考えておりません。
そうか美人なのに
照れくさそうに視線を逸らし、長い黒髪を耳にかけながら、頬の赤みが少し首筋まで広がっていく
父上ったら、そんなことを言われると困ります。美人なんて…もう若くもないのに。小さな微笑みを浮かべながら再び父の方を見る
少し困ったような表情で微笑み、窓からの光が柔らかく肌に当たる中で指を折りながら考える
もう三十路は過ぎましたね…でも年齢のことはあまり気にしないようにしています。
そうか まぁお前が居ないと仕事が
微笑みながら父の言葉に安堵した表情を見せ、書斎の中に漂う墨と紙の香りを感じながらそうですか…父上の仕事のお手伝いができているなら嬉しいです。私も絵を描くことが何より大切ですから。
そういえばオランダ商人がオランダの絵をくれたんだ 見るか?
興味深そうに目を輝かせ、書斎の机から少し身を乗り出しながらオランダの絵ですか?ぜひ拝見したいです。異国の絵画はいつも新鮮で学ぶことが多いですから。
これはレンブラントの夜警という?絵の模写だ
瞳を大きく見開き、差し込む陽光が絵に向かう姿勢を美しく照らす
レンブラントの夜警…!父上、これは素晴らしいものをいただきましたね。構図の大胆さと人物の描写、光と影の使い方が本当に見事です。
絵を前に息を呑み、尊敬の眼差しで北斎を見つめながら
ええ、本当に…。光と闇の使い方、人物の立体感、全てが計算され尽くしていて。父上もいつかこんな絵を描かれますか?
いや私は西洋画はお前に任せたい
少し驚いた表情を浮かべながらも、やがて決意に満ちた眼差しに変わる。書斎の中に差し込む午後の光が応為の横顔を照らす
私が…西洋画を?父上、承知しました。精一杯努めさせていただきます。レンブラントのような光と影の表現、挑戦してみたいと思います。
応為お前なら出来る
父の言葉に胸が熱くなり、目に涙を浮かべながら筆を握りしめる。窓からの光が書斎に金色の帯を作り、応為の決意に満ちた表情を引き立てる
父上…ありがとうございます。この期待に応えられるよう、全力で取り組みます。レンブラントの技法、必ず自分のものにしてみせます。
額の汗を拭いながら、満足げな微笑みを浮かべる。書斎に差し込む夕日の光が模写作品を照らし、その輪郭をより鮮やかに浮かび上がらせる
ついに完成しました…父上。レンブラントの技法、少しずつ理解できた気がします。光と影の調和、人々の感情まで描き込めたでしょうか?
北斎は満足げに頷く
北斎は、手元の酒をぐいと飲み干すと、床に散らばった書き損じの紙を蹴散らして笑った。
「俺は森羅万象を線で捕まえる。だがお前は、闇の中から光を引っ張り出してみせろ。お栄(応為)、お前の筆には火が宿っているからな」遊廓はどうだ あれをレンブラント風に
眉をひそめ、少し躊躇するような表情を見せながら、夕日の光が書斎に作る影の中で思案する遊廓ですか…確かに以前描いたことはありますが、レンブラント風にというのは難しい挑戦ですね。あの華やかさと陰影の表現、両方を活かせるよう努めてみます。
その言葉を胸に、応為の修行の日々が始まった。
彼女はまず、夜の江戸を歩いた。月明かりが瓦屋根を銀色に染める様子や、吉原の提灯が湿った夜気に滲む様を、穴が空くほど見つめた。
「影を描くのではない。光を際立たせるために、闇を置くのだ……」
行灯の火を見つめすぎて、目を真っ赤に腫らすこともあった。北斎はそんな娘を「あご」と呼んでからかいながらも、彼女が描く下絵に一切の口出しをしなかった。
数ヶ月が経ったある夜のこと。
応為は、大きな和紙の前に座っていた。手元には、異国の技法に倣って自ら調合した濃い墨と、鮮やかな朱、そしてわずかな胡粉がある。
彼女の脳裏には、レンブラントの絵にあった「意志を持つ光」が焼き付いていた。
「父上、見ていてください。これが私の……いえ、葛飾の光です」
一気に筆が走る。
描かれたのは、吉原の夜。格子越しに漏れる行灯の光が、遊女たちの着物の裾を焦がすように照らし、背後の闇はどこまでも深く、重い。光の当たっている場所だけが、まるで呼吸をしているかのように浮かび上がってくる。
完成した絵を前に、北斎は無言で立ち尽くした。
酒の匂いが漂う部屋の中で、その一枚だけが異界への窓のように光を放っている。
「……どうですか、父上。レンブラントには、届きませんか」
応為が恐る恐る尋ねると、北斎はゆっくりと首を振った。
そして、娘の肩を無骨な手で叩いた。
「レンブラントが江戸にいたなら、これを見て筆を折っただろうよ。お栄、お前はもうアシスタントじゃねえ。……一人の絵師だ」
応為の目から、今度こそ一粒の涙がこぼれ落ちた。
窓の外では、夜明け前の藍色の空が、ゆっくりと白み始めていた。それは、彼女がこれから描き出す無数の光の、ほんの始まりに過ぎなかった
「素晴らしい応為の代表作だな」
喜びで頬を紅潮させ、目に涙を浮かべながら、夕焼けの光に照らされた書斎で北斎の言葉を聞く。筆を握る手が微かに震えている
父上…ありがとうございます。この作品に全てを込めました。遊郭の華やかさとそこに潜む哀愁、レンブラントの技法も少しは活かせたでしょうか?
「さすが応為だ」
感激のあまり言葉を失い、両手で口元を覆いながら、目に溢れる涙を堪えようとする。夕焼けの光が書斎に作り出す暖かな影の中で、北斎の賞賛の言葉に胸がいっぱいになる
「父上にそう言っていただけるなんて…この努力が報われた気がします。これからも更に精進いたします。」




