第九話 夢を喰らう神
夢神の売る薬――それは、人々に“偽りの幸福”を与えるものだった。
一時の安らぎを見せ、現実を忘れさせる。
けれど、それはすぐに消える儚い夢。
人はその快楽に溺れ、再び夢を求め、やがて心を壊していく。
「……金儲けのために人々を利用しているのか」
フルーは唇を噛みしめ、低く呟いた。
怒りと哀しみが入り混じる声だった。
拳の中の血が滲みそうなほど、力が入っている。
アヴェルスは無言のまま、手をかざした。
空気が微かに震え、掌の中に光が生まれる。
金属の粒子が煙のように集まり、うねりながら形を変えていく。
やがて、一振りの短剣が姿を現した。
刃は夜のように黒く、光を吸い込むような艶を帯びていた。
まるでこの世界の闇そのものを凝縮したような輝きだった。
「その前に……お前に渡しておこう」
アヴェルスは短く言い、短剣を差し出す。
フルーは一瞬、戸惑いながらそれを受け取った。
「……ボクに?」
「お前には必要ないかもしれんがな」
アヴェルスは目を伏せ、淡く答えた。
その声音の奥には、ほんの僅かな優しさ――いや、気遣いのようなものが滲んでいた。
フルーの左眼は“死神の眼”。
刃などなくとも、見える“線”をなぞれば、存在そのものを断つことができる。
それでも、アヴェルスは短剣を持たせた。
――きっとそれは、“人としての形”を忘れさせないため。
フルーはそう感じた。
「あ、ありがとう」
少し照れくさそうに笑いながら、フルーは小さく礼を言う。
その顔には、少年らしいあどけなさが戻っていた。
「えーおれも、何かあげたかったー」
モドキがパンを頬張りながら口を尖らせた。
場の緊張を和らげるように、わざと軽い調子で。
アヴェルスはそれには答えず、静かに立ち上がる。
「ここからどうやって夢神にたどり着く?」
フルーの問いに、アヴェルスは一瞬だけ周囲へ視線を巡らせた。
港町の喧騒が遠くに聞こえる。
朝の光の中、彼の軍服だけが異質に浮かび上がっていた。
「あれだ」
短く放たれた言葉。
アヴェルスの視線の先には、石壁の影に立つ一人の男がいた。
薄汚れた外套をまとい、通行人に何かを手渡している。
夢薬の売人だった。
「モドキ」
「あいよ」
呼ばれた瞬間、モドキの身体が揺らぎ、形を変える。
ましゅまろのような姿が細く伸び、次の瞬間――小さな虫へと変貌した。
そのまま影のように滑り、売人の耳の中へと入り込む。
男の体がびくりと震えた。
瞳の焦点が外れ、唇の端が歪んで笑みを浮かべる。
「……え、何を……」
「寄生させた」
アヴェルスは淡々と答える。
その声音には奇妙な愉悦すら混じっていた。
フルーは思わず引き攣った笑みを浮かべる。
(この人たちだけは……怒らせないようにしよう)
心の中でそう決めた。
「一回につき一人限定の操り人形となる」
アヴェルスは言いながら、ゆっくりと歩き出した。
モドキに憑かれた売人が、ぎこちない動作で立ち上がる。
その様子はまるで夢の中の人形のようだった。
「……なんか、やってること夢神と変わらない気が……」
フルーは言ってはいけないと思いながらも、つい口に出してしまう。
「そうだな」
アヴェルスは小さく笑った。
皮肉か、それとも本気か――その区別はつかなかった。
フルーは息を呑む。
アヴェルスは善悪を超えた場所にいる。
正義ではなく、ただ“結果”だけを見据えている。
その冷たさの奥に、確かな目的があることを、フルーは理解していた。
「……しかし、夢神がいなくなれば、これ以上薬で苦しむ人はいなくなる」
アヴェルスの言葉に、フルーの目が大きく見開かれる。
その一言が、すべての疑問を断ち切った。
夢を見ることでしか生きられない人々。
現実を奪うことで利益を得る神。
それを壊さなければ、この世界は変わらない。
フルーは短剣の柄を強く握りしめた。
赤い左眼がわずかに光を帯びる。
「……わかった。やろう」
その声は、もう迷いのない戦士のものだった。
その時、寄生された売人が突然頭を抱え、呻き声を上げた。
こめかみを押さえ、苦しげに身をよじる。
瞳は焦点を失い、何かを見ているようで、何も見ていない。
やがて、ふらふらと立ち上がった。
まるで見えない糸に操られる人形のように、足を動かす。
「……夢神様に……助けを……」
掠れた声を残し、男はよろめきながら歩き出した。
アヴェルスは無言でその後を追う。
フルーも短剣を握りしめ、続いた。
朝の光が路地の奥を照らす。
港町の裏路地を抜けた先――
空はいつの間にか曇り、光がゆっくりと消えていった。
人の声は遠のき、聞こえるのは自分たちの足音だけ。
その音が、濡れた石畳の上で小さく反響していた。
やがて、通りの影に隠れるようにして“地下への入り口”が現れる。
錆びついた鉄の扉。
その隙間から、かすかに甘い香水のような匂いが漂ってきた。
それは、夢を装うような――けれどどこか腐敗した匂いだった。
「こんなところに……」
フルーは息を呑み、思わず声を漏らす。
アヴェルスは何も言わず、無言で階段を降りていった。
続くフルーの背に、湿った空気がまとわりつく。
暗闇が深まるたびに、胸の奥で不安が重く膨らんでいく。
そして――
階段の先に、巨大な扉が現れた。
白金の装飾が施され、そこだけ異様に美しい。
だが、その輝きの奥には得体の知れない不穏な気配が潜んでいた。
ゆっくりと扉が開く。
中から淡い光が流れ出し、香りと共に音が溢れ出す。
そこは――夢のような空間だった。
紫の雲が床を覆い、水色の壁が波のように揺らめく。
宙には星や月を模したクッションが漂い、花弁の光がふわりと舞っている。
重力すら曖昧で、現実が柔らかく溶け落ちたかのような幻想。
その中央で、ひとりの男が膝をついていた。
先ほどの売人だ。
震える声で、空に向かって懇願する。
「わ、わたくしを……お救いください……夢神様……!」
その叫びに応じるように、奥の帳の向こうで光が滲んだ。
次の瞬間――柔らかな笑い声が空間を包んだ。
「……夢神」
フルーが小さく呟く。
息を詰め、扉の外からその光景を見つめる。
アヴェルスは目を細め、無言のまま光の奥を凝視していた。
光の中から、ひとりの女が姿を現す。
白い衣をまとい、長い髪を流した女。
その肌は雪のように白く、瞳は夜の湖のように深い紫。
その微笑みひとつで、人の心を溶かしてしまいそうな――まさしく“夢”そのものの化身だった。
しかし、その唇が開いた瞬間、空気が凍る。
「――何故、私が助けねばならんのだ?」
冷ややかで透明な声。
そこには慈悲の欠片もなかった。
夢神は一歩も近づかず、ただ静かに手を上げる。
瞬間、腰に帯びた剣が閃いた。
光が走り、音もなく――売人の首が宙を舞った。
「……あいつ!」
フルーの体が反射的に動く。
短剣を抜き放ち、眼帯を外す。
左眼――死神の眼が、赤い光を宿して輝いた。
アヴェルスが何か言いかけたが、言葉が届くより先に、
フルーは駆け出していた。
「何者だ、貴様」
夢神が氷のような瞳で睨みつける。
その剣先がきらめき、空気が震えた。
「夢の中でなら、私は絶対だ」
その言葉とともに、世界が歪む。
紫の雲が渦を巻き、床が液体のように波打ち始めた。
足元の感覚が消え、空間が沈む。
「なっ……!」
フルーは叫ぶ間もなく、体を支える感覚を失った。
視界が霞み、音が遠のいていく。
重力も境界も、すべてが曖昧になっていく――。
世界が、夢に飲み込まれていった。
フルーの動きが止まり、瞳の焦点が外れる。
それでも彼の左眼はわずかに赤く光を残していた。
夢神は微笑んだ。
その微笑は、哀れむようでもあり、支配者のそれでもあった。
「ようこそ、私の世界へ」
柔らかく、しかし絶対的な支配を告げる声。
その瞬間、背後から低い足音が響いた。
アヴェルスが現れる。
影の中から姿を見せた彼を見て、夢神の瞳が鋭く見開かれた。
「この感じ、マナか……悪魔め」
女の声が震える。
それは恐怖ではない。
自らの支配に踏み込む者への、純粋な“怒り”だった。
アヴェルスの右手が静かに上がる。
金属の粒子が空気に散り、低く光を放つ。
その青い瞳に宿るのは、燃えるような怒り。
「お前の夢は――長すぎた」
「なるほど……神殺しに来たというわけか」
夢神の声に嘲笑が混じる。
その視線が、夢の中で眠るフルーへと向けられた。
「この少年……廃棄の者か」
唇が歪む。
嘲りの笑み。
「夢もろとも葬ってやろう、悪魔」
夢神は剣を構えた。
剣先が淡く輝き、空間が震える。
指し向けられた刃が、まるで運命そのものを示すように、アヴェルスを射抜く。
光が弾け、現実と夢の境界が閉ざされる。
全ての色が混ざり、視界が反転した。
――夢の戦いが、始まろうとしていた。




