第八話 夢を売る国
――白い空間。
そこには、天も地も存在しなかった。
上も下もなく、ただ永遠に広がる“白”。
音さえも吸い込むような静寂の中、中央に一つの円卓が浮かんでいた。
その円卓を囲むのは、人ではない。
姿かたちを持たぬ存在たち。
光と影の文字が交錯し、絶えず形を変えながら浮遊している。
ひとつひとつの文字は心臓の鼓動のように脈打ち、淡い輝きを放っていた。
「悪魔が神殺しを?」
低く響く声が空間を震わせた。
その一言に、周囲の光がざわめく。
「ああ、絵神が……神殺しにあった。確認は取れている」
「馬鹿な。悪魔ごときに?」
「一人は“死神の眼”を持っていた。報告は上がっている」
再び、光の文字たちが波打つように明滅する。
それは怒りであり、恐怖でもあった。
神々である彼らにとっては、“死”という概念はあり得ぬはずのものだった。
「では――絵神は、本当に滅びたのか?」
「ああ。
彼の〈シン〉は奪われ、完全に消滅した」
その言葉が告げられた瞬間、白い空間を沈黙が支配した。
誰も言葉を発さない。
しかしその沈黙の中で、確かな動揺が波紋のように広がっていく。
「……悪魔どもが、我らを殺せるはずがない」
「ただの悪魔ではない」
「二人確認したと聞いたが、死神と――もう一人は?」
しばし、沈黙。
情報の欠落が、不安を増幅させる。
死神は確認できた。だが、もう一人と“異形”の存在――その詳細は誰にも掴めていなかった。
「悪魔、か……。奴らを滅ぼさねば」
「では、次に誰を向かわせる?」
「……“声神”が動く。
あの者なら、“言葉”ひとつで魂を縛れる」
光の文字が一斉に震え、同意を示すように白光が強く放たれた。
決定の瞬間、白の空間に細いひびが走る。
まるで世界そのものがわずかに軋んだようだった。
――神々の会議は、終わった。
その余韻を残して、光と影の文字たちは霧のように薄れ、やがて消えていった。
残されたのは、虚無と冷たい光だけ。
そして次の神が、動き出す。
* * *
一方その頃――漆の国の港町。
朝を告げる鐘の音が、静かな余韻を引きながら鳴り響いていた。
潮風が窓を叩き、波の音が遠くから聞こえてくる。
宿の一室。
薄い朝の光がカーテンの隙間から差し込み、木の床に縞模様を描いていた。
静かな光の中で、ひとりの少年が身を起こす。
フルーだった。
寝ぐせは見事に芸術的で、髪が四方八方に跳ねている。
ぼんやりとした視線のまま、天井を見上げ、口を開いた。
「……おはよう」
まだ眠気の残る声。
「ああ」
「おっはよう!」
返したのは、すでに軍服を整えたアヴェルスと、
テーブルの上でパンをむしゃむしゃと食べている“ましゅまろモード”のモドキだった。
アヴェルスは椅子に腰を掛け、静かにコーヒーを啜っている。
モドキは頬にパン屑をつけたまま、上機嫌に歌っていた。
朝の光が二人のコントラストを際立たせる。
冷静な悪魔と、ふわふわした魔物。
そして、その間にいるフルーは、寝ぼけ眼でその光景を眺めていた。
妙な光景だった。
けれど、どこか――悪くなかった。
フルーは欠伸をひとつしてから、ゆっくりと身支度を整えた。
洗顔、髪の整理、そして眼帯の調整。
左眼の下の赤い光がちらりと覗き、それを隠すように布を結び直す。
テーブルに座り、用意された朝食を前に、ふと呟いた。
「神も……人間……だったんだよな」
昨日の戦いが脳裏に蘇る。
絵神を斬ったあの瞬間――確かに命を断った感触があった。
だが、その神もまた“人間”だった。
「人間と言っても、“シン”の影響で不老長寿の存在となってはいるがな」
アヴェルスの声は低く響く。
その語調には怒りと、どこか深い哀しみが混じっていた。
「神には“シン”――能力の発動源がある。
それによって力を行使し、肉体を維持している。
不老ではあるが……不死ではない」
彼はコーヒーを一口啜り、静かに言葉を継いだ。
「つまり、殺せる」
「……そうだ」
その言葉に、フルーの瞳がわずかに光を増した。
昨日よりも確かな意思が宿っていた。
「特に――死神の眼を持つお前なら、な」
アヴェルスはカップを置き、軽く視線を上げる。
その青い瞳には、僅かに何かを映すような光があった。
「ちなみに、悪魔はマナね! マナ持ちのことを悪魔って言うのさ」
モドキが再びパンを咥えたまま口を動かす。
口の周りはパンくずだらけだ。
「なるほど……?」
フルーは少し考えたあと、黙ってパンを頬張った。
小さな咀嚼音が、静かな部屋に響く。
食べること、それ自体が“生きている”という実感だった。
やがて食事を終え、マグカップを置いたフルーが問いかけた。
「……これから、どうする?」
その声には迷いと期待が入り混じっていた。
漆の国で絵神を倒した。
だが、その先の道はまだ見えない。
アヴェルスは組んでいた指をほどき、机の上で静かに両手を重ねた。
遠くを見つめるような目で、窓の外の光を眺める。
「妖精の国からなら、肆の国の方が近い。
だが、先にこの国を選んだのは……絵神が“倒しやすい”と判断したからだ」
「倒しやすい?」
フルーは眉をひそめる。
“殺した相手”をそんなふうに言われるのは、どうにも落ち着かない。
「それもあるが――もう一つ理由がある」
アヴェルスの声が低く響く。
「……もう一人、倒しやすい神がいるとか?」
フルーが冗談めかして言う。
だが、アヴェルスは笑わなかった。
「それも一理ある。
だが目的は別だ。
――この国の“裏側”の闇を、斬る」
その一言に、フルーは目を瞬かせた。
“裏側”。
何を意味するのか、まだ理解はできない。
* * *
食事を終え、三人は宿を後にした。
朝の光が眩しく、港町はすでに活気づいていた。
潮の香り、鐘の音、遠くから聞こえる笛の旋律。
街は今日も、絢爛に“生きていた”。
彩り豊かな布が風に舞い、音楽が路地を流れる。
芸術の国と呼ばれる所以――それが、この漆の国の“表”の顔だった。
絵神が消えても、人々の暮らしは変わらない。
いや、変わらないように見えた。
だが、アヴェルスの足は止まらなかった。
彼は表通りを離れ、迷いなく裏路地へと入っていく。
フルーはその背を追いかける。
喧騒が遠ざかるにつれ、空気が重くなる。
光の届かない路地。
石畳は黒く湿り、鼻を刺すような薬品の匂いが漂っていた。
フルーは思わず鼻を押さえた。
「ここ……空気が、違う」
暗がりの奥で、影がうごめく。
やせ細った人々が壁にもたれ、ゆっくりと息をしていた。
骨ばった手、焦点の合わない瞳。
誰もが、同じ言葉を繰り返している。
「……薬を……薬を、くれ……」
その声は、命の残り火のように掠れていた。
「大丈夫!?」
フルーは駆け寄り、倒れた男の肩を支えた。
冷たい。
まるで命の熱を失いかけているようだった。
「薬を……頼む、夢を……見せてくれ……」
フルーの動きが止まる。
“夢”――?
周囲を見渡すと、同じように虚ろな目をした人々がうずくまっていた。
その瞳は現実ではなく、何か幻の中を見ていた。
「……どうなってる?」
フルーの問いに、アヴェルスが淡々と答える。
「華やかな表の裏に潜む、この国の“現実”だ」
その視線の先には、無数の倒れた人々。
彼らは生と死の狭間で、夢に逃げ込むように眠り続けていた。
「薬――それは“夢”を見せるためのものだ。
この国の神が広め、人々の金を吸い上げている」
「まじ神嫌い」
アヴェルスが吐き捨てるように言うと、肩のモドキも頷いた。
二人の声には、同じ色の怒りがあった。
「なんだそれ……」
フルーの胸に熱いものが込み上げる。
「夢を……見させる?」
歯を食いしばる。
倒れている者たちの瞳には、かすかな幸福の残像があった。
夢の中でしか、生きられない。
そんな世界を――神が創り、支配していた。
「なんだよ、それ……!」
フルーは怒りを露わにした。
拳を握りしめ、壁を叩く。
乾いた音が、裏路地に響く。
アヴェルスはそんな彼を静かに見ていた。
青い瞳の奥に、一瞬だけ光が揺れる。
「……夢神。
次に斬るのは、そいつだ」
その声は冷たく、しかし確固たる決意に満ちていた。
フルーは拳を握り締めたまま、無言で頷いた。
潮風が裏路地に流れ込み、倒れた人々の髪をそっと揺らした。
彼らの見る“夢”の向こうで――
新たな神の影が、静かに目を覚まそうとしていた。




