第七話 神の残滓
戦いの終わりを告げるように、静寂が訪れた。
神殿の空気は重く沈み、ひとつの命が途絶えた痕だけが、そこに残っていた。
倒れた絵神の身体から、ゆっくりと光が滲み出していく。
それは血ではなかった。
淡く青い輝き。まるで絵の具が溶け出すように、床を伝い、壁へと広がっていく。
壁画に描かれていた天使や花々が、音もなく剥がれ落ちていった。
彩られていた世界が、少しずつ色を失っていく。
神が死ぬということは、神殿の“絵”が剥がれ落ちることなのだ。
「……絵が、崩れていく」
フルーが呟いた。
その声はかすかに震えていた。
目の前で起きている現象が、現実だとは信じがたかった。
アヴェルスはゆっくりと絵神のもとへ歩み寄る。
倒れた神の胸に膝をつき、無言のまま片手を当てた。
その姿には怒りも誇りもなく、ただ深い静けさがあった。
しばしの沈黙。
やがて、アヴェルスの指先から青い光が零れ出す。
淡い粒子が空中を漂い、やがてひとつに収束した。
手の中に、小さな珠が浮かび上がる。
「……なに、それ」
フルーが息を呑む。
珠は淡く光り、鼓動のように脈を打っていた。
まるでまだ“生きている”かのように。
「これが神の“シン”――能力源だ。
これを持つ者のことを、神と呼ぶ。」
アヴェルスは短く言い、掌の上で珠を転がした。
青白い光が彼の指を照らし、闇の中に小さな灯を描く。
その光には、どこか哀しげな美しさがあった。
「シン……魔力ってことか?」
「その認識でいい」
アヴェルスの声は淡々としていた。
だが、その青い瞳の奥には、怒りと悲しみが混ざり合っていた。
フルーはその珠を見つめたまま、胸の奥に重いものを感じた。
「この世界の神って……所詮、人間なんだ」
呟くような声。
その言葉に、アヴェルスがわずかに口角を動かす。
「人間が人間を選定し、優劣を決める。
神を名乗るには、それだけの“権限”があればいい。
――驕ってるんだ。どいつもこいつもな」
静かな言葉だった。
けれど、その奥には怒りが確かに燃えていた。
同時に、それは深い諦念の響きでもあった。
フルーは目を伏せた。
脳裏に浮かぶのは、自分を“廃棄”と呼んだ神々の姿。
あの日、無力に倒れた自分。
その絶望が、再び胸を締めつける。
「……この国は、どうなる?」
問いかけた声は小さく、けれど真剣だった。
アヴェルスは立ち上がりながら答える。
「別に、この国自体は人が治めている。
神を失ったところで、すぐに何かが変わるわけじゃない」
その声には、淡い諦めが混ざっていた。
神を殺しても、世界は容易には変わらない。
それを、彼は知っていた。
「モドキ」
「あいよ」
アヴェルスが短く呼ぶと、モドキは小さく跳ねて口を開けた。
アヴェルスは青い珠――“シン”をそっとその口の中に放り込む。
珠が光を放ちながら、モドキの体内に吸い込まれていく。
「う、わ、ひゃー……! なんか冷たい!」
モドキが妙な声を上げる。
その仕草に、ほんの少しだけ空気が和らいだ。
アヴェルスは背を向け、静かに歩き出す。
フルーはその背を追い、静まり返った神殿をあとにした。
扉を押し開けると、夜風が吹き抜けた。
外の世界は――驚くほど、何も変わっていなかった。
星々は変わらず瞬き、街の灯はいつも通り揺れている。
市場のざわめき。
行き交う人々の声が、いつものように響いていた。
笑う者がいれば、怒鳴る者もいる。
荷車の軋む音、売り子の叫び、硬貨の触れ合う音――すべてが日常だった。
だが、ふと耳を澄ませば。
昼間に見た、あの光景と同じ罵声が聞こえてきた。
「無能力者に通る道はねぇんだよ!」
「能力を持たぬ者は去れ!」
人混みの中で、蹴られ、倒れる者の姿。
その上を、能力者たちが笑いながら通り過ぎていく。
誰も助けようとはしない。
ただ、見ぬふりをして歩き続ける。
フルーは拳を握りしめた。
「……何も、変わってない」
絵神を斬っても、この世界は何も変わらない。
神が支配していようと、人が支配していようと、残酷さの形は同じだった。
血の代わりに差別が流れ、祈りの代わりに諦めがあった。
アヴェルスは途中で立ち止まり、街を見下ろした。
沈む夕陽が青髪を照らし、その横顔に淡い影を作る。
「神を斬っただけで、人が変わるわけじゃない。
けれど――神を失った世界で、何を選ぶかは“人”の自由だ」
淡々とした声。
だが、その瞳にはわずかに哀しげな色が宿っていた。
まるで、かつての自分を見つめているように。
フルーはその言葉を胸の奥で反芻した。
神を倒しても世界は変わらない。
けれど、もう見過ごすこともできない。
風が吹いた。
黒衣の裾と、フルーの髪が同時に揺れる。
「ボクの……したことって……」
言葉は途中で途切れた。
喉の奥に熱がこもり、うまく声にならない。
自分の手で神を斬ったという事実。
それなのに――胸の中には、何も残らなかった。
あれほど強く願ったはずなのに。
選ばれなかった者の痛みを誰よりも知っているはずなのに。
今あるのは、静かな虚しさだけ。
「意味ならあるよ」
モドキの声が、前を歩くアヴェルスの背中から聞こえた。
「……?」
フルーは顔を上げる。
アヴェルスは振り返らず、淡々と続けた。
「すべての神を殺せ。
そうすれば、完全なる“人間の治世”に戻る」
そして、アヴェルスは振り返った。
青い瞳が、真っ直ぐにフルーを見据えていた。
その眼差しの奥に、確信と覚悟があった。
フルーは言葉を失った。
確かに――神を斬った。
けれど、喜びよりも胸に残るのは、空洞のような感覚だった。
「……全部」
フルーは呟いた。
その声は、わずかに震えていた。
「やっちまおうぜ! 全部!」
モドキが元気よく叫ぶ。
その声が、少しだけ空気を動かした。
フルーは歩きながら、何度も頭の中で問いを繰り返す。
もし、すべての神を殺せば――この秩序は壊れるのか。
“選ばれなかった人間”が消えるのか。
誰も蔑まれない世界が訪れるのか。
その答えは、どれも遠く、霞んでいた。
宿に戻ってからも、フルーは考え続けた。
机の上の皿は冷め、スープの表面に薄い膜が張る。
食欲はない。
ただ、思考だけが止まらなかった。
神を斬った。
けれど、その神も人間だった。
――人が人を選び、人の命を弄ぶ。
それもまた、神のやることと何が違うのだろう。
そんな思考の迷路に沈むフルーを見て、アヴェルスが静かに口を開いた。
「いやなら、やめてもいい」
その声は不意に落ちた。
フルーは顔を上げ、息を呑む。
「……え?」
「やめてもいい。
ただ、その時は――また誰かが“選ばれず”、廃棄されるだろうな」
淡々とした声。
脅しではなく、ただ事実を述べているだけ。
それが逆に、心の奥に重く響いた。
「ご主人様優しいの? 厳しいの? どっちなの?」
モドキはパンをむしゃむしゃ食べながら言った。
アヴェルスは「煩い」と一言だけ返した。
そのやり取りが、妙に温かく感じられた。
まるで、ほんのわずかでも“生”を感じられる音だった。
フルーは俯き、拳を握る。
食事の匂いが鼻をくすぐり、腹が静かに鳴った。
冷めてしまった料理を、無言で口に運ぶ。
噛むたびに、胃の奥が熱くなる。
それは怒りでも悲しみでもなく――決意だった。
「ボクが……終わらせる」
小さく呟き、フルーは口いっぱいに食事を頬張った。
生きるために。
戦うために。
その一口一口が、これからの誓いのように思えた。
アヴェルスは窓際に立ち、夜の月を見上げていた。
銀の光が頬を照らし、青い瞳が淡く輝く。
その横顔は無表情だったが、どこか柔らかい。
フルーが皿を空にした頃、アヴェルスは小さく目を閉じた。
その表情は、ほんの一瞬。
誰にも見せたことのない――慈しみを、確かに宿していた。




