第三話 海を渡る影
翌朝。
潮風が頬を撫で、波の音が遠くから静かに響いていた。
フルーとアヴェルスは、妖精の国の海辺に立っていた。
灰色の空の下、広がる海は鉛のように重く、遥か彼方にかすむ水平線の向こうには、まだ知らぬ国の影が薄く見えていた。
「ここからどうやって……」
フルーは足元の砂を見つめながら、首をかしげた。
波打ち際には船ひとつ見当たらない。潮の匂いが胸の奥まで沁みる。
アヴェルスは何も言わず、ただ静かに片手を掲げた。
次の瞬間、空がざわめき、雲の切れ間から黒い影が舞い降りてくる。
巨大な翼をはためかせ、海面を揺らすその姿に、フルーは思わず身構えた。
「安心しろ、味方だ」
アヴェルスが短く言う。
目の前に降り立った魔物は、シャチのような体にドラゴンのような羽を持っていた。
滑らかな黒い体表が光を反射し、海の色をまとっている。
「お待たせ~!」
魔物が口を開いた。
軽い調子の声に、フルーは目を丸くする。
「喋った!?」
「こいつは、シュヴェールトヴァール=プレートテーヤ。長いから“シャチモドキ”ってことでモドキって呼んでる」
アヴェルスがまるでどうでもいいように言い放った。
「ご主人様! 適当過ぎます! でも長いからモドキで良いよ! えっと……キミは?」
モドキがぱちりと瞬きをして、愛嬌たっぷりに口を開いた。
「フルー……」
フルーは少し戸惑いながら名を名乗る。
「フルー君か! よろしくね!」
モドキの声は快活で、波間に跳ねるように明るかった。
その調子に、フルーも思わず口元を緩めた。
「乗れ、飛んでいく」
アヴェルスに促され、フルーは恐る恐るモドキの背に乗った。
(……落ちたりしない、よね?)
不安が胸をよぎる。
それでも彼は小さく息を吸い、意を決してしがみついた。
モドキがゆるやかに浮上する。
海面を滑るように、影そのものが航路を描いていった。
空には雲が流れ、波は青く光り、陽の光が水面で砕けては散った。
しばらくの沈黙のあと、フルーはずっと気になっていたことを口にする。
「どうして、あの場にいた? それに……どうして、死神の眼なんて持っていた?」
アヴェルスは前を向いたまま、表情ひとつ変えずに答えた。
「使えそうなのを探しに来た。それだけだ」
淡々とした声。
感情の起伏はなく、ただ過去をなぞるような響きだけが残った。
「このまま、どこに行くんだ?」
「肆の国が近い。だが、その隣の漆の国に向かう」
アヴェルスの言葉にうなずきながら、フルーは水平線を見つめた。
波の向こうに見える世界は、どこか眩しくて、そして少し怖かった。
やがて一行は海を渡り、漆の国の港に辿り着く。
漆の国――音楽と芸術の盛んな地。
街は色とりどりの布と灯りで飾られ、香辛料と花の香りが風に混ざっていた。
人々の笑い声、楽器の音、市場のざわめき。
それはフルーが島で聞いたことのない“生きた音”だった。
「モドキ、ましゅまろフォルム―!」
モドキがそう叫ぶと、体がふわりと変化した。
丸く小さく、ゆるキャラのような愛嬌のある姿に変わる。
「かわいい……」
思わずフルーの口からこぼれた一言に、モドキは得意げに笑った。
そしてアヴェルスの肩に乗り、「行こう!」と明るく叫ぶ。
こうして、少年と悪魔、そしておしゃべりな魔獣の三人は、
新たな地を踏みしめた。
一行は港町の石畳を歩き出した。
潮の香りがまだ微かに残り、遠くで波の音がくぐもって響いている。
「やっぱり……この左眼、線が見える」
フルーは歩きながら、低く呟いた。
赤く光る左眼に映るのは、通り過ぎる人々や建物、影――それらすべてに走る無数の“線”。
まるで世界の輪郭そのものが、目の前で浮き上がっているようだった。
線のひとつひとつが、命の途切れや存在の終わりを物語っている。
フルーが無意識に手を伸ばしかけた瞬間、アヴェルスがその手を掴んだ。
「何でもかんでも触るな」
「あっ……ごめんなさい」
フルーは肩をすくめて、指先を引っ込めた。
どうやらこの眼は、気軽に使っていい力ではないらしい。
彼はそっと左眼を押さえ、視界の赤を遮った。
「……まずは服を買うか」
「えっ?」
突然の提案に、フルーは目を瞬かせる。
確かに、島流しの時から服は破れたままだった。
泥と血にまみれ、袖には裂け目が走っている。
「好きなものを選べ」
「ご主人様、優し~」
「煩い」
モドキの明るい声を軽くいなして、アヴェルスは市場の露店を見回した。
香辛料の匂いが立ち込め、色鮮やかな布が風に揺れている。
フルーは布の山の前に立ち、いくつもの服に目を向けた。
白い衣、赤いドレス、淡い布――どれも綺麗だったが、彼の視線は、ひときわ目立つ黒の衣で止まった。
気づけば、手が伸びていた。
着替えを終えたフルーは、黒い衣をまとい、左眼には黒い眼帯を結んだ。
赤の輝きを覆い隠し、闇の色で包む。
それはまるで、自分の“選択”を形にしたようだった。
「どう?」
少し恥ずかしそうに尋ねるフルーに、アヴェルスはわずかに首を傾げた。
「どう、と言われても……」
その曖昧な反応に、モドキが割って入る。
「似合う似合う~!」
その調子に、フルーは思わず笑い声を漏らした。
港の風が吹き抜け、黒の衣がひるがえる。
軍服の悪魔と、死神の眼を隠した少年。
並んだ二つの影が、白い陽光の中で揺れていた。
やがて店を出て、三人は賑やかな街を歩いた。
陽光が石畳を照らし、音楽と香辛料の香りが入り混じる。
行き交う人々の笑い声は遠くに響き、ここがかつての廃墟ではないことを教えていた。
「アヴェルスは……なぜ助けた? 神に反逆しようとしているのか?」
フルーの問いは真っ直ぐだった。
青い右眼が、真剣にアヴェルスを見上げる。
そこには不安と、理解したいという願いが滲んでいた。
「神、嫌いなんだよね、おれたち!」
アヴェルスが答えるより先に、モドキが元気よく声をあげた。
「モドキも悪魔? 魔物?」
「おれも悪魔だよ~」
フルーは少し驚いたように目を瞬かせた。
モドキは悪魔の中でも“魔女”と呼ばれる種に属するらしい。
「ご主人様が吸血鬼、おれが魔女」
「悪魔って、種類があるの?」
「あるよ~! 吸血鬼、魔女、鬼、めおに、蝙蝠、鴉、幽霊、武器、そして――」
モドキが言いかけた瞬間、アヴェルスが静かに言葉を継いだ。
「死神」
その一言が、空気を変えた。
「死神って神じゃないの?」
「この世界では、死神は悪魔の仲間だ」
アヴェルスの低い声が、どこか冷たく響く。
「悪魔の中でも唯一“神”の名を持つ存在。
裏切者が多いのも、死神ならではって感じ」
モドキが茶化すように付け加えたが、フルーは真剣な表情で考え込んだ。
悪魔と神――その境界はどこにあるのか。
選ばれた者と、棄てられた者の違いとは何なのか。
その時、通りの向こうから怒鳴り声が響いた。
能力者が、無能力者を侮辱している。
殴られ、罵倒され、それでも誰も止めようとしない。
この国では、それが“当たり前”だった。
選ばれた者は称えられ、選ばれなかった者は踏みにじられる。
フルーは唇を噛み、拳を握りしめた。
彼は無能力者ですらない、“廃棄された存在”だ。
その現実が、胸の奥に熱く滲んだ。
「……っ」
喉の奥で小さな息が漏れる。
アヴェルスは何も言わず、その背を見守っていた。
その夜、三人は漆の国の宿に部屋を取った。
木造の簡素な部屋。
窓の外では、夜祭りの音がまだ遠くに響いている。
「疲れただろう。今日は休め」
アヴェルスの言葉に、フルーは椅子に腰を下ろした。
モドキは丸くなって床に突っ伏し、アヴェルスは窓際に立って外を見ている。
柔らかな灯が、三人の影をゆるやかに重ねた。
「なあ……」
フルーは少し躊躇してから、声を出した。
「神って、なんなんだ? 選定って何のためにある?」
問いに、アヴェルスはしばし沈黙した。
やがて、外の闇に目を向けたまま答える。
「神は、この世界の“循環”の一部だ。
選定は、その循環を維持するための装置にすぎない。
適合者を見つけ、能力を与え、媒介として使う。
神と能力者は、互いに依存しながら世界を動かしている」
「循環……」
フルーは首を傾げた。
宗教の説教のようでもあり、どこか不吉な響きを感じる。
「じゃあ、ボクを廃棄したのも、その循環の一環?」
「ああ。お前は“不要”とされた。神にとっては、な」
アヴェルスが振り返り、フルーの眼帯の下――左眼を見据えた。
「だが、死神の眼を持つお前は、神の永遠を断つ存在になりうる」
「神を……斬る、ってこと?」
アヴェルスは再び窓の外へ目を向ける。
通りでは、昼と同じ光景が広がっていた。
能力者が無能力者を蹴り倒し、誰も咎めない。
誰も、それを異常と思わない。
「お前なら、変えられる」
その言葉は、命令でも希望でもなかった。
ただ、確かな“予言”のように響いた。
フルーは窓辺に立ち、街を見下ろした。
「ボク……昼間の光景、気持ち悪いって思った」
声がかすかに震える。
それでも、心の奥から湧き上がるものがあった。
「それが、今の神の作った秩序だ」
アヴェルスの言葉に、フルーは唇を噛んだ。
胸の中で、確かに何かが変わり始めている。
——その時。
静まり返った部屋に、不釣り合いな音が響いた。
フルーの腹の虫が、鳴ったのだ。
一瞬、沈黙。
そしてアヴェルスが小さく吹き出した。
「ははは」
「ご主人様! おれもお腹空いたっす!」
モドキが勢いよく叫び、場の空気が一気に和らぐ。
人の温もりが戻り、夜の冷たさが少しだけ薄れた。
「すまん。オレの基準で、お前に食事を与えていなかったな。
これで好きなものでも買ってこい」
アヴェルスは懐から金貨を取り出し、フルーに差し出す。
「お前は……?」
フルーは頬を赤らめ、金貨を受け取りながら尋ねた。
「オレはまだいい」
「おれは行くぞ!」
モドキは勢いよくドアへ向かい、尻尾を揺らして出ていった。
アヴェルスはベッドの縁に腰を下ろし、静かに夜の街を見下ろす。
フルーには、その横顔がどこか遠いものに見えた。
だが、夜の闇に溶け込むその輪郭は、
ほんのわずかに――優しさを帯びていた。




