第二十話 禁忌の創造
――神々にも、掟があった。
それは絶対の理として、すべての神に刻まれていた。
「神は、子を成してはならない。」
それがこの世界の神々に課せられた最大の禁忌だった。
誰も理由を問わず、誰も疑わなかった。
ただ“そうあるべきもの”として受け入れていた。
だが――ある日、一人の女神がその掟に疑問を抱いた。
金属を操る女神、カナリヤ。
彼女は神々の中でも特に好奇心旺盛で、思考に制限を設けることを嫌った。
彼女にとって、掟とは破るためにあるものだった。
「なぜ、子を作ってはいけない?」
その問いは、誰にも答えられなかった。
ゆえに彼女は、自ら答えを探すことを選んだ。
――研究によって。
しかし、問題が一つあった。
掟を破ることを共にする“相手”がいなかったのだ。
軽率に口にすれば、神々の粛清が降る。
同じ神であっても、そんな行為に加担する者などいない。
……ただ一人を除いて。
彼女が出会ったのは、水神――ウルだった。
ウルは異端だった。
彼は、痛みを愛していた。
わざと敵に捕まり、拷問を受ける。
何をされても、決して情報を渡さない。
その耐える時間こそが、彼にとっての至福だった。
そして時が経てば、立場は逆転する。
今度は彼が、かつての拷問官を拷問する番だった。
ウルにとって、痛みを与えることも、受けることも、同じ“快楽”だった。
そんな彼にとって、神の掟などどうでもよかった。
興味すらなかった。
だからこそ――カナリヤは彼を選んだ。
ある夜、彼女はウルに提案した。
「どうしても、好奇心が勝ってしまって……謎を解き明かしたい」
その瞳には恐れではなく、明確な欲望が宿っていた。
ウルは笑い、あっさりと頷いた。
「でも、何故オレに?」
「貴方ならお互いの行動に口を出さないでしょう? 自ら進んで言うタイプにも思えない。
もちろん、タダとは言わないわよ」
そして、彼らは神々の掟を破った。
――その果てに、生まれたのがアヴェルスだった。
水の神と、金属の神の間に生まれた“子”。
それは祝福ではなく、実験の成果としてこの世に産み落とされた。
しかし、生まれたアヴェルスには決定的な欠陥があった。
――“平和”の心が、なかった。
理性を持たず、暴力の衝動だけで動く存在。
それはまるで、神の形をした“獣”だった。
カナリヤは仮説を立てた。
「神の子には、何かが欠けるのではないか」
そして彼女は、それを証明するために動いた。
アヴェルスの脳を開き、人工的に“平和”の心を教え込む。
やがて彼は、理性を得た。
世界を理解し、言葉を話すようになった。
だが同時に、別のものを失っていた。
――痛覚。
切り裂かれても、焼かれても、彼は痛みを感じなかった。
表情ひとつ変えず、ただ目だけを静かに動かす。
カナリヤは、記録を取りながら呟いた。
「神の子がこの世界に存在するには、必ず“何か”が欠ける……
私の仮説は、正しいのかもしれない」
その言葉は、静かな実験室に溶けて消えた。
アヴェルスは“平和”を得た。
けれども、その代償として――“痛み”を失った。
殴られても、刺されても、焼かれても。
何も感じなかった。
ただ、皮膚が裂ける感覚と、血が流れる音だけがあった。
その異様な静けさの中で、彼は考えるようになった。
――なぜ、自分たちは虐げられるのか。
――なぜ、同じ人間なのに、苦しめられなければならないのか。
理性を得たことで、疑問が生まれた。
だが、その疑問を口にすることは許されなかった。
ウルはいつものように笑顔で彼を見下ろしていた。
その瞳は氷のように冷たく、そこに“父”の影は微塵もなかった。
「どうして……」
少年の声がかすれた。
それを聞いたウルは、薄く笑った。
「平和を得てから、随分人らしくなったね」
彼は氷でできた短いナイフを指先に生成すると、アヴェルスの顎を持ち上げた。
そして、ためらいなくその刃を――舌に当てた。
冷たい感触のあと、鈍い切断音が響く。
温かい液体が口内に溢れた。
アヴェルスは痛みを感じなかった。
ただ、血の味だけが広がった。
鉄のような、生臭い味。
ウルは満足そうに笑った。
「あははははは! なるほど! 平和を得た代わりに痛覚をなくしたのか!」
その声が、白い部屋に反響する。
笑いながら、彼は手元の針と糸を取った。
「切れちゃったね。……でも安心して、縫ってあげるよ。麻酔はありませんけど」
ウルの顔は高揚していた。
子どもの苦痛を楽しむように。
血の滴る舌を持ち上げ、針で縫いつけていく。
アヴェルスは何も言わなかった。
痛みはない。
けれど、心の奥底で何かが軋んだ。
縫い終わるころには、口の中は血の味で満たされていた。
「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」
アヴェルスは吐き続けた。
血を、唾液を、感情を、すべて吐き出すように。
そして――次第に、“味”も消えていった。
血の味も、パンの味も、水の温度さえ、何も感じなくなった。
それでも、研究所の日々は続く。
ガラスの向こうで人々が泣き叫ぶ。
炎に焼かれ、電気に打たれ、記録される。
「失敗」と記された仲間は、次々と処分された。
名前を呼んでも、返事はなかった。
ただ、死体が増えるだけだった。
――理不尽が、日常になっていた。
アヴェルスはただ見つめていた。
冷たく、静かに。
けれど、胸の奥で確かに燃えていた。
それは怒りでも、悲しみでもなく――憎悪。
父、水神ウルへの憎悪。
そして、神という存在そのものへの、果てしない拒絶。
アヴェルスの舌に残る縫い傷。
それは痛覚を失った彼に残された、唯一の“痛みの記憶”。
味覚を失っても、あの血の感触だけは、今も忘れられない。
――それが、彼にとっての“呪い”だった。




