第二話 悪魔の契約
青い瞳の少年、フルー=クワルツドロッシュは十五歳の“神選の儀”で選ばれず、廃棄された。
そして――悪魔にして吸血鬼のアヴェルス=クロノワールと出会った。
彼の手によって、死神の左眼を移植されたのだ。
その眼は、深紅に染まっていた。
右は青、左は赤。
光の下に立つと、まるで二つの世界を宿しているように見えた。
「……これが、死神の眼……」
フルーは、崩れた建物の破片に残る鏡の破面を覗き込みながら呟いた。
瓦礫の街を覆う夕闇が、彼の髪を赤く照らす。
「なんでも、斬るための線が見えるとか……
死神には、斬れないものはないとされる」
アヴェルスは瓦礫の上に腰かけ、ゆるやかに言葉を紡ぐ。
その声には、どこか遠い記憶を語るような響きがあった。
「なんでも……斬れる?」
フルーは小首を傾げた。
新しい左眼はまだ馴染まず、痛みとも温かさともつかない違和感が残っている。
「物体から、人の縁のような見えないものまで、何でも」
アヴェルスは淡々と答えた。
彼は少し微笑んでいた。
闇の奥にあるものを見つめているような瞳だった。
「これから……どうするの?」
フルーが恐る恐る尋ねると、アヴェルスは短く答えた。
「今日はもう日が遅い。明日には、ここを発つ」
空は紅から紫へと変わり、沈みゆく太陽が瓦礫の影を長く引き伸ばしていた。
夜が来る。
冷たい風が吹き抜けるたびに、フルーの身体が小刻みに震える。
――また、あの化け物が来るかもしれない。
アヴェルスはそんな彼を見下ろしながら、静かに言った。
「死にたくないなら、争え」
その言葉は淡々としていて、優しさも冷たさもなかった。
ただ事実として突きつけられた現実のようだった。
沈黙が落ちた。
フルーは拳を握りしめたまま、動けない。
どうすればいいのかも、何を信じればいいのかも分からなかった。
その時だった。
アヴェルスの背後、崩れた建物の影から、低い唸り声が響いた。
黒い影が跳躍し、瓦礫を蹴り砕いて降り立つ。
魔物だった。
異形の獣が、フルーを見据えて牙を剥く。
唾液が地に落ち、白く蒸気を上げた。
「ひっ……!」
フルーの足がすくむ。
喉が乾き、声が出ない。
アヴェルスは目を閉じたまま、微動だにしなかった。
まるでこの状況すら、あらかじめ知っていたように。
「生きたいのなら、争え」
その一言だけが、闇の中に落ちた。
フルーは唇を噛みしめ、震える手で地面を掴んだ。
痛みも恐怖も、今はただ――“生きたい”という衝動だけがあった。
そしてフルーは走った。
息が焼けるほどに。
魔物の爪を避け、牙をかわし、瓦礫の影を縫うように駆け抜ける。
「争えって言ったって……!」
息を切らしながら、恐怖と混乱の中で叫んだ。
だが、魔物は容赦なく追ってくる。
重たい足音が背後で響き、喉を裂くような咆哮が夜を震わせた。
その瞬間だった。
視界に、何かが“線”となって浮かんだ。
――世界の隙間に走る、淡い光の糸。
それは、あらゆるものを絶つ境界線。
フルーは足元の枝を掴んだ。
無我夢中で、その“線”をなぞるように振り抜いた。
音はなかった。
ただ、風が裂けた感触だけがあった。
次の瞬間、魔物の身体が斜めに断ち割られた。
断面は滑らかで、血も流れず、ただ存在そのものが消えるように崩れていった。
「これが……死神の……眼……」
フルーは肩で息をしながら呟いた。
震える手で枝を見つめる。
(枝で、斬れた……本当に……斬れるんだ)
呆然としたまま、彼はふらふらとアヴェルスのもとへ戻った。
悪魔アヴェルスは、瓦礫の上で静かに彼を見ていた。
少し微笑みながら、少しだけ目を伏せて言う。
「上出来だな」
その声には、淡い感情が混じっていた。
ただ称賛でも、哀れみでもない。ただ事実を告げるような声。
「……死ぬかと思った」
フルーは怒る気力もなく、力の抜けた声で答えた。
崩れた石壁にもたれ、ゆっくりと座り込む。
胸の鼓動がまだ早い。
アヴェルスは夜風に髪をなびかせながら、ぽつりと呟いた。
「その力があれば、神にだって届く」
「……神に?」
フルーは顔を上げた。
思考が、徐々に憎悪の形を取り始める。
自分を捨てた神。
平穏な日々を奪った存在。
それが“神”というなら、もう祈る理由はない。
「ボク……逆らってもいいかな?」
フルーは夜空を見上げたまま言った。
群青の空に、わずかに赤い星が瞬いている。
「ああ」
アヴェルスは短く答えた。
その声には一切の迷いがなかった。
「日常を奪ったやつらを、許さない」
フルーは拳を握りしめた。
胸の奥に宿るのは怒りではなく、“決意”だった。
アヴェルスも同じ夜空を見上げる。
闇と光の境界線が、静かに交わる。
「お前は生まれ変わった。名は?」
「フルー……」
フルーは自分の名を口にし、微かに笑った。
それは、神に選ばれなかった少年が、初めて自分を選んだ瞬間だった。




