第十六話 水に映る影
――記憶は、途中からしか存在しない。
アヴェルスには“幼少期”という概念が曖昧だった。
彼の記憶にあるのは、ただ無音の部屋と、白い壁。
そして――氷のように冷たい研究台。
『平和』という感情を、まだ知らなかった頃。
その頃のアヴェルスは、理性のない、暴力だけの存在だった。
破壊し、叫び、手足を縛られ、鎮静剤を打たれる毎日。
思考ではなく、本能だけで生きていた。
そんな彼を囲むように、白衣の人々がいた。
ガラス越しに観察し、数字を記録し、試験管を交換する。
その中心に――青い髪の女と、青黒い髪の男がいた。
研究員たちは、彼を“標本”と呼んでいた。
◇
無菌室の中で、幼いアヴェルスは無表情に座っていた。
金属の腕輪が両手首を固定し、床には無数の円形の紋様が刻まれている。
青黒い髪の男が、記録用端末を見ながら口を開いた。
「……やはり、“平和”の心を持たない」
隣にいた女が頷く。
どこか哀れむような目で、アヴェルスを見つめていた。
「でも、もし“平和”を得たら……どうなるのかしら」
「試してみるしかないね」
男は静かに笑い、銀色の器具を手に取った。
淡々とした動作で、アヴェルスの頭部を固定する。
麻酔はなかった。
それでも――アヴェルスは叫ばなかった。
開頭手術。
小さな頭蓋に触れ、“平和”を司る感情領域を人工的に学習させる。
脳波が変化し、数値が安定する。
「……成功だ」
女の声が震えた。
幼いアヴェルスは、静かに目を開けた。
瞳に、初めて“色”が宿る。
それは――理性だった。
◇
平和の心を得てから、アヴェルスは“考える”ようになった。
食事を拒まず、言葉を理解し、感情の意味を学んだ。
だが同時に――理解してしまった。
この施設が、どれだけの命を犠牲にして存在しているのかを。
毎日、誰かが実験室に運ばれてきて、そして戻ってこない。
焦げた匂い、血の色、笑い声。
“人間”が“人間”を壊していく光景を、ガラス越しに見ていた。
ある日、アヴェルスは青黒い髪の男に問いかけた。
「どうして……」
低い声だった。
けれど、その一言に、確かな“痛み”が込められていた。
「何故こんなことをするのか。同じ人間じゃないのか」
問いに対し、男は口角を上げた。
「平和を得てから、随分人らしくなったね」
その言葉とともに、男は氷のナイフを手の中に生成した。
冷気が漂い、刃が光を反射する。
男はゆっくりとアヴェルスの顎を掴み、その舌先に刃をなぞらせた。
血が滲む。
だが、アヴェルスの表情は変わらなかった。
痛みを、感じない。
男は興奮したように笑い出した。
「あははははは! なるほど! 平和を得た代わりに、痛覚をなくしたのか!」
笑い声が研究室に響く。
ガラス越しに見ていた研究員たちの顔には、冷たい好奇心が浮かんでいた。
アヴェルスには意味が分からなかった。
ただ、目の前の男に、言葉では言い表せない“嫌悪”を覚えた。
男はそのまま、アヴェルスの体を押さえつけた。
氷の刃を捨て、針と糸を手に取る。
「切れちゃったね。でも安心して。縫ってあげるよ? 麻酔はありませんけど」
男の瞳が異様な光を帯びる。
興奮と高揚、そして――狂気。
アヴェルスは抵抗した。
腕を振るい、拘束具を鳴らす。
だが、男の力は強く、彼の抵抗は届かない。
糸が肉を縫い、針が皮膚を通る音。
それでも痛みはなかった。
ただ、心の奥に“何か熱いもの”が生まれた。
――これがアヴェルスと水神ウルの古い記憶。
◇
――漆の国、上空。
風が、海の匂いを運んでいた。
黒い羽をはばたかせ、モドキが静かに空を翔ける。
その背に、アヴェルスとフルーの姿があった。
眼下には、芸術と幻想の国――漆の国の灯りが、遠ざかっていく。
港町の喧噪も、神々の気配も、もう届かない。
アヴェルスは風を切りながら、舌の裏を指先で押さえた。
縫われた感触が、まだそこにある。
ふと舌を動かし、古傷の縫い目を確かめるように口の中で転がした。
――ウル。
脳裏に、氷の笑みを浮かべた青黒い髪の男の姿がよぎる。
胸の奥で、かすかに熱が走った。
「このまま、この国を出る」
アヴェルスは短く告げた。
風を切る声は低く、しかし決意がこもっていた。
「肆の国、了解」
モドキが即座に応じる。
大きな羽が風を捉え、進行方向を東北へと変えた。
雲が裂け、遠くに雪を抱いた山々の影が見える。
「神殺しは……」
フルーが小さく呟いた。
問いは半ばで止まり、言葉が空に溶ける。
アヴェルスは何も答えなかった。
ただ前を見据え、無言のまま風を切り続ける。
その頬に流れるひとすじの汗が、明かりを反射した。
――その冷や汗。
それだけで、フルーにも緊張が伝わった。
沈黙を破ったのは、モドキだった。
「水神には金属が効かない。金属を、水に変えてしまうんだ」
軽い口調のはずなのに、声が僅かに震えていた。
「金属を……水に? 天敵じゃないか」
フルーは息を呑んだ。
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
アヴェルスの異能――金属生成。
空気中で元素を操り、鋼を創り、刃を編み、武器とする。
その根幹を、水神はたった一瞬で無効化する。
力を封じられたも同然。
つまり、水神ウルは――アヴェルスにとっての天敵。
風が凍るように冷たくなった。
モドキの翼がひときわ強く打たれ、彼らを夜空のさらに高みへと押し上げる。
「……だから、無策では戦えない」
アヴェルスの声は、低く押し殺されていた。
それでも、確かな覚悟が滲んでいる。
逃げているのではない。
“生き延びて、勝つため”の撤退だった。
フルーは隣でその背中を見つめた。
その横顔は、恐れよりも静かな決意に満ちている。
その姿に、少年は何も言えなくなった。
やがて、漆の国の景色が完全に遠ざかる。
代わりに現れたのは、雪に覆われた北方の大地――肆の国。
氷の風が吹き、白い地平線が夜の中に淡く光る。
「肆の国……」
フルーが呟いた。
懐かしさと、微かな恐れが混じった声。
――彼の故郷。
神と悪魔、そして人の争いが再び始まる。
その舞台へと、二人と一匹はゆっくりと降り立とうとしていた。




