第十四話 音と声の狭間
――漆の国・郊外。
かつて華やかな貴族の別荘だった屋敷は、今や声神の住処となっていた。
中庭では、無表情の人々が黙々と動き回っている。
ある者は掃除を、ある者は料理を、ある者は衣を縫っていた。
そのどの顔にも、生気というものが欠けていた。
彼らの瞳は虚ろで、光を失っている。
だが、その口元だけが、妙に穏やかに微笑んでいた。
――声神の支配。
その美しい声に命じられた者は、抵抗できない。
彼女の言葉は命令であり、呪いそのもの。
誰もがその声に従い、衣食住を捧げ、召使のように仕えていた。
「は~……私って罪な存在よねぇ」
広間の奥、巨大な鏡の前で、銀髪の女――声神〈エコリア〉は恍惚の笑みを浮かべた。
柔らかな髪が光を反射し、金の瞳が妖しく輝く。
「悪魔に恋しちゃう神なんて、ほんっと罪深い」
鏡の向こうに映るのは、自分自身。
その姿を見つめながら、エコリアは笑みを深めた。
その時、机の上に置かれた通信符が淡い光を放った。
金属の板のようなそれが、ひとりでに浮かび上がる。
そこから、軽い調子の声が響いた。
「エコリアさんさ~? アヴェルス君が相手だってわかったなら、早く教えてよね!」
甲高くも楽しげな声。
声の主は――水神だった。
「水神……あなたに教えたら、私が楽しめないじゃない?」
エコリアは頬杖をつき、唇の端を上げる。
その声音は甘く、とろけるように柔らかい。
「邪魔なんてしないよ? だってその方が面白いじゃないですか~」
水神の声が軽く響く。
遊び半分の口調の裏に、明確な悪意が感じられた。
エコリアは肩をすくめ、冷たく吐き捨てる。
「……悪趣味」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
水神は笑う。
その無邪気さが、かえって不気味だった。
「褒めてない!」
エコリアは通信符を睨みつけ、苛立ったように声を上げた。
その表情には苛立ちよりも、どこか焦りにも似た色が浮かんでいた。
「……アヴェルス」
その名を、彼女は甘く呟く。
その響きには恋慕と執着、そして憎悪のすべてが混ざっていた。
◇
――廃船場。
夜風が吹き抜け、海の匂いが漂う。
波が静かに船底を叩く音が、規則正しいリズムを刻んでいた。
アヴェルスは槍を一本、手の中で生成する。
金属の表面が光を反射し、鋭い音を立てる。
「次は――音を斬る」
低く、しかし明確な声だった。
アヴェルスの足元に、いくつもの金属板が生成されていく。
それらは地面の上に整然と並べられ、まるで楽器の鍵盤のようだった。
アヴェルスは手にした槍で、その板を軽く叩く。
――カァン。
澄んだ音が夜に響いた。
すぐに続く二音、三音。
鉄琴のように重なり合う金属の旋律が、空気を震わせる。
「音!?」
フルーは思わず耳をふさぎかけた。
音が身体に響き、力が抜けていく。
胸の奥がざわめき、立っているのも難しくなる。
その様子を見て、モドキが口を開いた。
「ご主人様のもう一つの能力、音。媒介は金属だよ」
地面の上で、ましゅまろの姿のモドキが説明を続ける。
その声には少し誇らしげな響きがあった。
「ご主人様は金属を生成し、操るだけじゃない。
その“音”も操れるんだ。音によって――バフとデバフを与える」
アヴェルスは無言のまま、再び槍で金属板を叩く。
金属が共鳴し、音が波となってフルーを包み込んだ。
音が、空気を支配する。
聞くだけで、身体が重くなる。
――それが、アヴェルスのもう一つの力。
「フルー君は今、音でデバフ状態~」
モドキが軽い口調で言った。
しかしその声を聞く余裕も、フルーにはほとんど残されていなかった。
全身が重い。
まるで見えない鎖で引きずられているように。
アヴェルスの叩く金属板の音が、空気を震わせ、身体の芯を蝕んでいく。
(……声神は声という音を出す。つまり……これを斬れなければ、勝てない)
フルーは歯を食いしばった。
音が波となり、彼の体を通り抜けるたびに、意識が遠のきそうになる。
それでも、前を見た。
赤い左眼が、夜の中でかすかに光る。
額を汗が流れ、胸の奥で心臓が早鐘を打つ。
(視野を広く……感じろ。音もまた、線だ)
世界が揺れ、空気が震え、無数の“線”が走る。
それは目には見えない――けれど確かに、存在していた。
音の軌跡。
波となって空間を切り裂き、形を作る“見えない刃”。
フルーは息を吸い、短剣を握りしめた。
(……今だ)
赤い左眼が閃く。
刃が走る。
――音が、消えた。
世界から音が抜け落ちたような静寂。
波も風も消え、ただ自分の鼓動だけが聞こえる。
「音が……消えた?」
フルーは呆然と呟いた。
その声さえも、まるで水の底に沈むように遠い。
目の前でアヴェルスが槍を下ろした。
静かに微笑み、満足げに頷く。
「ああ、それでいい。それが“音”を――“声”を斬るということだ」
アヴェルスの声が、ようやく戻った世界に響いた。
その言葉を聞いた瞬間、フルーの脳裏にひとつの記憶が閃く。
――エコリアの声を斬った、あの瞬間。
あのとき感じた“線の震え”が、再び手の中に蘇った。
音は形を持つ。
そして、その形は斬れる。
「フルー君なら出来るよ!」
モドキの励ましが飛んだ。
フルーは肩で息をしながら、それでも小さく笑った。
「ありがと」
短く、しかし確かな声でそう答えた。
◇
夜道。
潮の香りが風に混じる。
廃船場を後にした三人は、港町へと戻る道を歩いていた。
沈黙の中、アヴェルスがぽつりと口を開く。
「漆の国――シロホンの故郷だったな」
「シロホン?」
フルーは首を傾げた。
「シロホンは仲間だよ~」
アヴェルスの肩に乗ったモドキが、陽気に説明する。
神々にそれぞれ個性があるように、悪魔にも“系統”がある。
シロホンはその中でも、アヴェルスと深く関わる存在だった。
「ご主人様よりイケメン!」
モドキが無邪気に言うと、アヴェルスが眉をひそめる。
「オレの顔の系統でイケメンと言うのが間違ってる」
即座の返しに、モドキはぷっと吹き出した。
フルーもつられて笑う。
夜風が三人の間を抜けていった。
潮の音と笑い声が重なり、訓練の疲れが少しだけ遠のいていく。
――悪魔と、死神の眼を持つ少年。
その絆は確かに深まり始めていた。




