第十三話 水と線の狭間
――白い空間。
そこには、天も地も存在しなかった。
上も下もなく、ただ永遠に広がる“白”。
音すらも吸い込むような静寂の中、中央に一つの円卓が浮かんでいた。
その円卓を囲むのは、人ではない。
姿かたちを持たぬ存在たち――光と影の文字。
それらは絶えず形を変え、波のように脈打ちながら浮遊している。
ひとつひとつの文字が、心臓の鼓動のように淡く明滅していた。
「声神は何をやっている」
低く重い声が空間を震わせた。
その一言に、周囲の光がざわめきを見せる。
「あ~、アヴェルス君ってことか。あはははは」
軽やかで、どこか狂気を孕んだ笑い声。
他の神々がその声に反応する。
「……水神?」
一つの声が問いかける。
白い光の中で、波紋のように現れる“水”の象徴――それが、水神だった。
「良いね。そう来なくちゃ、ね」
水神は笑いながら言った。
その声音は穏やかで、しかし底知れぬ冷たさを帯びている。
「水神、何が分かった?」
焦る声が響く。
混乱する神々の中でも、冷静に状況を分析する者、戦いに高揚する者――その反応はさまざまだった。
けれど、水神だけは笑みを絶やさなかった。
「すぐに分かりますよ」
そう言い残し、再び沈黙へと沈んだ。
波紋が広がるように、白い空間に静寂が戻る。
――神々の円卓は、再び冷たい呼吸だけを残して沈黙した。
◇
漆の国。
夜の帳が下り始め、街の灯が柔らかく瞬いていた。
宿の一室では、フルーが夕食の席についていた。
テーブルの上には、焼きたてのパンと肉の皿、温かなスープ。
向かいでは、モドキがパンを頬張りながら上機嫌に声を上げていた。
「うっま~!」
モドキは満足そうに頬を膨らませる。
フルーはパンをちぎりかけたまま、手を止めた。
「……どうする? 声神を探す?」
その問いに、アヴェルスはコーヒーのカップを静かに置いた。
腕を組み、しばし考えるように窓の外を見る。
月明かりが軍服の肩に反射し、青い瞳が淡く光を宿す。
「少し鍛える必要があるな」
短い言葉だった。
フルーは思わず目を丸くする。
すぐに神殺しへと向かうと思っていたからだ。
アヴェルスの判断は常に迅速だった。
けれど今回は、あえて“準備”を口にした。
その言葉の裏にある意味を、フルーはまだ知らなかった。
◇
夕食を終えた後、三人は夜の港へと出た。
潮風が吹き抜け、灯台の光がゆっくりと回転している。
辿り着いたのは、港外れの廃船場。
長く使われていない船がいくつも並び、海面に映る月明かりが波に揺れていた。
アヴェルスはその中央に立つ。
フルーと向かい合う位置。
風が吹き抜け、青い軍服がなびいた。
「すべて斬ってみせろ」
その一言と同時に、アヴェルスの足元に光が走った。
生成された金属が糸のように広がり、夜気の中で微かにきらめく。
その糸は極細で、肉眼ではほとんど見えない。
けれど、確かに空気を切り裂くような緊張を放っていた。
フルーはゆっくりと眼帯に手をかけた。
左眼を覆っていた布が外れ、赤い光が夜を染める。
短剣を構え、フルーは左眼に意識を集中させた。
視界の奥に、淡く光る“線”が浮かぶ。
空間を縫うように張り巡らされた金属の糸。
その一本一本が、世界の輪郭を切り裂く罠のように見えた。
――なぞる、見極める。
そう思い、手を伸ばした瞬間だった。
「っ!?」
横から黒い影が飛びかかってきた。
鋭い牙が夜気を裂く。
フルーは咄嗟に身を捻り、間一髪でそれをかわした。
影の正体は、四足の魔物だった。
ねじれた角を持ち、赤い眼が闇の中で光る。
「おれの能力、召喚喚起!」
地面から声が響く。
モドキだった。
ましゅまろのような姿のまま、得意げに胸を張っている。
「説明すんなよ今っ!」
フルーが叫ぶ。
しかしモドキは構わず続けた。
「おれは悪魔の中の“魔女”って呼ばれる存在なんだ!
自分の体を媒介に魔物を呼び寄せたり、空間から呼び出したりできるの!」
要するに――今の魔物は、モドキが“呼び寄せた”のだった。
「集中しろ」
アヴェルスの低い声。
その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「集中ったって……!」
焦ったフルーは体勢を崩し、頬が金属の糸に触れた。
瞬間、鋭い痛み。
血が一筋、頬を伝って落ちる。
「まずは魔物を倒して……」
「遅い!」
モドキの叫びが重なった。
背後から、再び魔物が突進してくる。
「くっ――!」
フルーは咄嗟に前へ飛び出した。
しかし避けた先にも金属の糸がある。
腕をかすめ、皮膚が裂け、赤い線が浮かんだ。
「モドキ……魔物しまって……!」
必死に頼むが、返ってきたのは軽い声だけ。
「集中集中!」
「……!」
冗談ではない――そう思ったが、モドキの言葉に込められた意図は分かった。
この状況こそ、アヴェルスの狙い。
「戦いにおいて、常に安全に見られるとは限らんぞ?」
アヴェルスの声が静かに響く。
その言葉に、フルーは小さく頷いた。
確かに、これが現実だ。
神を斬ったとはいえ、自分はまだ未熟。
ついこの間まで、戦いとは無縁の生活を送っていたのだ。
それが突然、廃棄され、死神の眼を宿し、神殺しの旅に出た。
――もう、逃げない。
フルーの心が決まる。
額の汗が夜風に冷やされる感覚だけが、やけに鮮明だった。
思考が走る。
魔物を先に倒すか、それとも糸を断ち切るか――。
その逡巡を断ち切るように、魔物が再び襲いかかった。
「速いっ!」
フルーは横へ跳ぶ。
そのとき、視界の端に光が走った。
――糸だ。
金属の糸が、月光を受けて微かに光っている。
それを見て、フルーの中で何かが弾けた。
(見ろ……感じろ……)
視野を広く。
世界を一枚の絵のように。
その瞬間、左眼の奥が熱く脈打った。
赤い瞳に映るのは、糸だけではない。
空気の流れ、魔物の軌跡、音の震え――すべてが線として視える。
フルーの体が自然に動いた。
魔物の突進をかわし、糸を躱しながら、空間の“線”をなぞるように短剣を振る。
金属が裂ける音。
魔物の動きが止まり、空気が弾けた。
「そうだ、見るだけじゃない。感じろ。
死神の眼は――応えてくれる」
アヴェルスの声が夜に響いた。
その言葉が、心臓に火をつける。
フルーは舞った。
月光の下で、糸を斬り、魔物を斬り、風を裂く。
左眼に走る赤い光が、夜を切り裂く軌跡となる。
そして――沈黙。
気づけば、すべての糸は断ち切られ、魔物は倒れていた。
空気が静まり返り、潮風の音だけが耳に残る。
「やったね! フルー君!」
モドキの歓喜が響く。
フルーは息を荒げ、地面に膝をついた。
胸の鼓動がまだ暴れている。
「今の感覚を忘れるな」
アヴェルスが歩み寄り、静かに言葉を落とす。
「声神の声が不意打ちだったとしても――お前なら斬れる」
その声には冷静さと、確かな称賛が混ざっていた。
フルーは拳を握りしめ、まっすぐにアヴェルスを見据えた。
夜風に揺れる青髪の奥、赤い左眼が確かに光を宿していた。
――神を斬るその眼に、もう迷いはなかった。




