第十一話 神々の声
――白。
そこには、天も地も存在しなかった。
空も、大地も、時間の流れさえもない。
ただ、限りなく広がる“無垢の空間”。
そして、その中心にひとつの円卓が浮かんでいた。
円卓を囲むのは、人ではない。
形を持たぬ光と影。
声そのものが意思を宿し、空間を漂っている。
ひとつひとつの光の文字が、命の鼓動のように脈を打ち、淡く明滅した。
「……夢神が、倒された?」
低く重い声が、白の空間を震わせた。
「これで二人目だ」
「絵神の次は夢神……だが、どちらも強大な神だったはずだ」
「声神は何をしている!」
光が激しく明滅し、怒りにも似た波動が広がる。
そのとき――円卓の一角から、軽やかな声が響いた。
「ちゃんと向かっているわ~、安心して」
その声は妙に柔らかく、どこか愉しげだった。
他の神々が一瞬、沈黙する。
「……お前が言うと、不安になる」
「信じてよ。声神は“言葉”で世界を変えるの。
剣も槍もいらないわ、ね?」
その声が笑った。
ひとつの音に、数えきれぬ意味が宿る。
甘く、けれど底知れぬ。
円卓を囲む光の群れが、わずかに震える。
その笑いが、彼らの神性をも侵すように響いていた。
――声神。
言葉によって魂を縛り、命を操る者。
そして、その名が告げられた瞬間、
円卓の光が一度だけ強く揺らめき――
やがて、再び静寂が訪れた。
神々の会議は、沈黙のうちに終わりを告げる。
だが、その沈黙の裏で、世界の構造が微かに震えていた。
“神々”でさえも、地上の“悪魔”を恐れ始めていた。
◇
現実世界。
漆の国・港町の裏通り。
夢神の神殿を後にしたフルーとアヴェルス、そしてモドキは、
ゆっくりと朝靄の中を歩いていた。
通りの両脇には、無数の人影が転がっている。
かつて夢薬に溺れた者たち。
その目は虚ろで、手は空を掴もうとしていた。
息は浅く、肌は青ざめている。
だが、その表情は――奇妙なほど穏やかだった。
「……この人たち、助からないんだな」
フルーは足を止め、倒れている老人の頬に手を当てた。
冷たい。
けれど、その口元には微かな笑みが残っている。
夢の中で、まだ何かを見ているのだろう。
幸福の残滓を抱えたまま、静かに命を手放すような顔だった。
胸の奥が、重く締めつけられる。
夢神を倒した。
けれど、世界は何も変わっていない。
いや――変わったのだ。
これ以上、新たな犠牲は生まれない。
けれど今ここに倒れている者たちを救うことは、もうできない。
その事実が、フルーの心を鈍く痛ませた。
「……お前は未来を救ったんだ」
前を歩くアヴェルスが、振り向かずに言う。
その背中はいつも通りの静けさを保ちながら、確かな信念を宿していた。
「救ったよ」
肩に乗るモドキが、同じ言葉を繰り返す。
その声は軽い調子だったが、不思議と温かかった。
フルーは何も言わずに頷いた。
冷たい風が吹き抜け、灰色の空の下に光が一筋だけ射した。
それでも――彼の中にある“痛み”だけは、消えなかった。
フルーは目を伏せ、黙ってアヴェルスの後を歩いていた。
“未来を救った”――
だが、“今”を救うことはできない。
それは矛盾しているようでいて、確かな現実だった。
「……全部、救うことはできないのか」
小さく漏れた呟きは、風にかき消されるほど弱かった。
それでも、アヴェルスの耳には届いていた。
「すべてを救うなど――神にもできない」
静かな声。
どこか遠い響き。
まるで、何度もその言葉を繰り返してきた者のようだった。
フルーは顔を上げる。
灰色の朝の光に溶けるようなアヴェルスの背中。
その姿を見つめながら、彼は気づいた。
――この男もまた、何かを“救えなかった”のだ。
胸の奥が締めつけられる。
フルーは拳を握りしめた。
小さな手が、わずかに震えている。
足元では、夢薬に蝕まれた人々がまだ息をしていた。
浅い呼吸と途切れた呻きが、風と共に町の喧噪に混ざっていく。
フルーは歩きながら、自分の胸の奥を覗き込むように考えた。
――自分もまた、“選んだ”のだ。
神の選定を憎んでいたのに。
選ばれなかった者に怒りを覚えたのに。
いまの自分は、誰かを“裁く側”に立っている。
神を殺しながら、悪魔の庇護を受けて生きている。
その事実が、胸の奥に重く沈む。
ため息がこぼれた。
吐息のように、静かに空気が漏れる。
「……時間が必要なら、与えるが」
前を歩いていたアヴェルスが、振り返らずに言った。
その声には、ほんの僅かな優しさが混じっていた。
「休む? ごはん食べる?」
モドキが、肩の上で小首をかしげる。
それもまた、彼女なりの気遣いだった。
「いや、神殺しの度に悩んでたらキリがないよね」
フルーは少しだけ笑った。
笑ってみせることで、自分の弱さを隠すように。
青い右眼でアヴェルスを見上げる。
その瞳はまっすぐで、確かな光を宿していた。
「一人目の時に決心したはずだ。なら、曲げない」
声は震えていなかった。
その言葉の奥には、確かな意志があった。
十五歳の少年が、世界を背負う覚悟を決めた瞬間だった。
「大丈夫。……やれる」
それは自分自身への祈りのような言葉だった。
フルーの声は小さく、けれど揺るぎなかった。
アヴェルスはしばし沈黙し、ふと歩みを緩める。
「少し……散策でもしてこい。気分転換だ」
懐から小袋を取り出し、フルーに手渡した。
中には銀貨がいくつか入っている。
「時には休むことも必要だろう」
「何? ごはん食べても良い?」
モドキがすかさず言う。
「お前は食べることばっかりだな」
アヴェルスの呆れ声。
いつものやり取り。
その当たり前の空気が、フルーの心を少しだけ軽くした。
「……ありがとう」
銀貨を受け取りながら言うと、アヴェルスは頷きもせず宿の方へと歩いていった。
その背中は、相変わらず静かで、どこか孤独だった。
フルーは銀貨を握りしめ、モドキと共に街へと向かう。
表通りに出ると、いつもの喧騒が広がっていた。
香辛料の香りが風に乗り、絵師たちが筆を走らせる音が響く。
楽器の音、笑い声、そして――能力者と無能力者の何気ないやり取り。
表の世界は、何も変わっていないように見えた。
それでも確かに、変わっている。
夢神が消えた今、薬に苦しむ者はもう増えない。
見えないところで、未来は少しずつ動き始めていた。
フルーは足を止め、そっと空を見上げた。
雲の隙間から差す光が、眼帯の下の左眼を照らす。
「……神殺し。ちゃんと、背負う」
その声は風に溶け、朝の空へと消えた。
眼帯の下――赤く光る左眼が、確かに世界を見据えていた。
そこには、もう迷いはない。
悪魔と共に歩む、その道の先で。
少年は、“神に抗う者”として、静かに歩みを進めていった。




