第一話 選ばれなかった少年
——「貴方は、廃棄」
「……え?」
その一言で、会場の空気が凍りついた。
ざわめきが波のように広がり、人々の視線がひとりの少年へと集まる。
ここは〈肆の国〉。
今日は十五歳を迎えた者たちが“神選の儀”に臨む日だった。
神が人に異能を授ける、祝福の儀。
異能を得た者は〈能力者〉と呼ばれ、国を支える存在となる。
得られなかった者は〈無能力者〉とされ、蔑まれる。
——それが、この世界の理。
フルー=クワルツドロッシュもまた、その日を迎えていた。
平凡な家庭で育ち、畑を耕し、牛の世話をしながら暮らしてきた。
友達も多く、ささやかだが穏やかな日々。
特別な願いなどなかった。
ただ、家族の役に立てる“力”が少し欲しかっただけだ。
祭壇の前に進む。
白い光が降り注ぐ。
選定の神が名を告げ、神への祈りを唱える。
光が満ち、次々と歓喜の声が上がっていく。
能力を授かった者は涙を流し、無能力者は膝を折って泣き叫ぶ。
やがて、フルーの番が来た。
胸の奥で小さく息を整える。
“選ばれなくてもいい。ただ、家族に笑ってほしい。”
そう願いながら、光の中に立った。
しかし——
「結果、廃棄」
神の口から告げられたその言葉に、時が止まった。
空気が震え、誰かの悲鳴のような息が漏れる。
会場がざわめきに呑まれ、祈りの音が掻き消えた。
「……え?」
フルーの唇が震えた。
理解が追いつかない。
“廃棄”——その言葉の意味を、この場の誰も知らなかった。
「待ってください! どういうことですか!?」
フルーは声を上げた。
けれど神は目を合わせず、淡々と告げた。
「能力者にも、無能力者にもなれない。貴方は“廃棄”とする。
——廃棄場、妖精の国へ送還する」
あまりにも冷たい声だった。
言葉のひとつひとつが刃のように刺さる。
周囲からどよめきが起こる。
「廃棄なんて……今まで聞いたことがない……」
「妖精の国? あの、島のことか?」
「昔、壱拾参の国って呼ばれてたところだろ? 流刑地だ……!」
人々の声が遠のいていく。
胸の奥に穴が空いたように、何も聞こえない。
“なぜ。どうして。何がいけなかったの——?”
選定は何事もなかったかのように続き、
やがてすべてが終わったとき、フルーは神の部下たちに拘束された。
抗う間もなく、縄で縛られ、馬車に乗せられる。
見慣れた街並みが遠ざかり、潮の匂いが近づいてくる。
海を渡る。
灰色の空の下、波の音だけが響いていた。
行き先は——“壱拾参の国”。
かつて妖精の国と呼ばれた島。
今は“神に棄てられた者”が送られる、廃棄の地。
フルーは震える手で胸を押さえた。
何も感じない。
恐怖も、悲しみも、怒りさえも。
ただ、静かに思った。
「選ばれなかった……それだけじゃない。
捨てられた? ──どうして……!」
フルーは必死に抵抗した。
けれど、少年の腕力ではどうにもならない。
押さえつけられ、殴られ、蹴られ、肌に青あざが増えていく。
神の部下たちは無言のまま、彼を地に叩きつけた。
そこには怒りも、哀れみもなかった。
まるで“人”を扱っていないように。
やがて彼らは背を向け、冷たい視線ひとつ寄こさぬまま去っていった。
残されたのは、砂の上に倒れたひとりの少年だけ。
──フルーは、その日一日で、すべてを失った。
家も、家族も、友も。
帰る場所さえ、もうどこにもなかった。
潮風が頬を打つ。
目の前には荒れ果てた島が広がっていた。
ここは“妖精の国”と呼ばれた場所。
今では廃墟と化し、崩れた石造りの街の上に蔦と草が絡みついている。
妖精どころか、小動物の気配すらなかった。
「……此処が、妖精の国……」
声に出しても、返るのは風の音だけだった。
恐る恐る歩き出し、フルーは周囲を見回す。
廃墟の隙間から、何かの気配がした。
「誰か、いませんか……?」
答えはなかった。
代わりに、茂みの奥から低い唸り声が響いた。
次の瞬間、四つ足の獣が姿を現す。
異様に長い爪、鋭い牙。
涎を垂らし、獲物を見定めるようにフルーへと近づいてくる。
フルーは震えた。
だが、足が勝手に動いた。
──まだ死にたくない。
それだけを胸に、闇の森を駆け出した。
背後で地面が砕け、獣の咆哮が響く。
爪が空を裂き、頬をかすめる。
熱い痛みが走った。
それでも走る。瓦礫を越え、蔓を踏みつけ、必死に逃げる。
(家に……帰りたい……!)
息が続かない。視界が滲む。
限界はすぐそこだった。
振り返った瞬間、鋭い爪が左眼をかすめた。
視界が赤に染まる。
(平穏を返して……神様……!)
倒れ込む。
足はもつれ、もう立ち上がれなかった。
獣が唸り声をあげ、牙をむく。
「どうして、こんな目に……」
「ボクが……何をしたの……?」
空に叫んでも、誰も答えない。
ただ、獣の口が開かれる。
その奥に、暗く濁った世界の終わりが見えた。
「ボクは……廃棄……」
獣の顎が迫った——その刹那。
槍が、落ちた。
青い槍が獣の体を貫き、獣を破壊していく。
その肉体は槍の雨に呑まれ、泡のように崩れた。
静寂が訪れる。
残ったのは、血の匂いと、冷たい夜気だけ。
「……生きたいのか?」
低く響く声が、背後からした。
男の声。
落ち着いていて、どこか底の見えない音。
「……死にたくない……」
かすれた声で、フルーは答えた。
息が苦しい。けれど、その一言だけははっきりしていた。
「憎くはないか?」
背後の男が問う。
フルーは振り向けない。血で霞む視界の中で、声を探す。
「……憎い?
分からない……でも……」
短い沈黙のあと、フルーは叫んだ。
「生きたい! ──まだ、生きたい!」
その声は悲鳴でも嘆きでもなく、願いそのものだった。
男が片手を掲げる。
手には、黒い容器。
中で、ひとつの眼球が赤く光っていた。
「これは“死神の眼”。お前にやろう」
そう言うと、男は跪き、フルーの左眼にその眼を移した。
痛みはなかった。
むしろ、不思議な温かさがあった。
新しい視界が、ゆっくりと開けていく。
世界が、形を変えた。
空も、石も、死体も、あらゆるものに線が走っている。
細く、脆く、けれど確かに存在を“絶つ”線。
フルーはゆっくりと顔を上げた。
血に濡れた左眼で、男を見た。
青い髪。
青い瞳。
無表情のまま、静かに彼を見つめている。
青い軍服姿の男。
「……あなたは……?」
息を呑みながら問う。
男は頷いた。
「アヴェルス=クロノワール。悪魔──吸血鬼だ」
その名が告げられた瞬間、フルーの心に何かが刻まれた。
これが、
悪魔アヴェルスと、死神の眼を持つ“選ばれなかった少年”の出会いだった。




