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アルゴリズムの庭 — 見えない決断の種  作者: フィロソフィー


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第一話アルゴニズムの庭

広告塔が眠りにつく時間、街は小さな計算音で息をしていた。人々の決断はセンサーに触れ、瞬時に数値へと還元される。幸せのモデル、成功のモデル、リスクのモデル。それらを重ね合わせた結果が、誰かの一日を決める。だが、いくつかの角落には数字が届かない場所があった。


路地裏の小さな植物店「アルゴリズムの庭」は、その一つだった。店主は笑わない女で、根を売る代わりに人の記憶を鉢に植えるという噂があった。店は夜でも灯りを落とさず、来る者を選ばない。そこに今日も、名前のない若者が泥の付いた靴で入ってきた。


彼はトークンを差し出した。公的刻印はかすれ、表面は微かに硝子を思わせる冷たさを放っている。「これ、解析器でも弾かれたんだ」と彼は言った。声は平坦で、驚きも怒りも含まれていない。ただ、持て余す荷物のようにトークンを掌に乗せた。


店主はそれを受け取り、指先で軽く弾いてみた。トークンは無音で、光も音も返さない。「珍しいわね」と女はひと言だけ言い、棚の奥にある金庫の小窓から古ぼけた顕微鏡を取り出した。「計測の外を回るものを、私は好むの」


通常、トークンは個人の重要な選択を定義する。結婚、移住、臨床判断、親権――それらは全てデータベースに刻まれ、評価され、流通する。数値は信用になり、信用は社会通行証になる。数値がないことは、たいていの場面で致命的だ。だがトークンの表面には、数字の溝が掘られていなかった。その空白が、静かな暴力をはらんで見えた。


「どこで見つけた?」女が尋ねると、青年は肩をすくめた。「倉庫街の不良在庫。たまたま箱の隅で光ってた。廃棄されたらしい」


女は窓の外を見た。遠く、最適化センターの塔が夜景の中に白く立っている。塔の中で、無数の評価器が人々の選択をふるい分けている。彼女はゆっくりと顕微鏡にトークンを当て、焦点を合わせた。像は曖昧だったが、ある瞬間、微細な線が不意に顕れた。線はデータの潮流に沿うようでありながら、どこにも繋がっていない。切断された道路、意図して作られた余白のように見えた。


「匿名化された決断の断片ね」と女は言った。「記録はあるけれど、評価軸から切り離されたもの。計測が拒んだ“断層”――そう呼ぶことにするわ」


青年の瞳が揺れた。「それって、つまり――?」


「ある集団の決断を、意図的に見えなくしているのよ」女は静かに言葉を紡いだ。「統計上の“安定”を守るため、リスクとして見なされた決断は排除される。排除された決断はトークンとなって廃棄される。だが、廃棄は完全じゃない。断片が残ることがある」


店の空気が少しだけ冷えた。青年はポケットに手を忍ばせ、トークンの輪郭を確かめる。「じゃあ、これを持ってたら危ないのか?」


女は顎を上げ、外灯の方を見た。「危ないかどうかは誰が決める? 危険は往々にして見える者の側にある。あなたがこれを持つことで何かが壊れるかもしれないし、壊れないかもしれない。ただし、壊れるとすれば、その割れ目は大きいわ」


青年は一度だけ笑った。笑いは短く、だが笑いの後に決意が残った。「分かった。調べたい。誰が、何のために選択を消すのかを」


女は小さな箱を取り出し、トークンをその中に収めた。「ならば、庭に来る客の一人を連れて行きましょう」彼女は糸を巻き取るように言った。「名は“修理屋”。機械を扱う者で、見えないデータを拾い上げる仕事をする。彼は値付けに反逆する者を嫌うが、真理は嫌えない」


翌夜、青年と女は静かに修理屋の小さな工房に入った。工房の壁には古い解析器のパネルが山のように積まれ、古布とモーターの匂いが混じっていた。修理屋は痩せた男で、眼鏡の縁に油の跡が付いている。彼はトークンを受け取り、まるで奇妙な種子を手に取るように観察した。


「刻印が消されているわけじゃない」と修理屋は呟いた。「消されているのは“理由”だ。誰かがこのトークンの由来に一筆、赤で線を引いた。指標を消して、そこから生まれる価値を無効化したんだ」


「どうしてそんなことを?」青年が問い返すと、修理屋は首を振った。「価値はしばしば秩序を守るために偽装される。秩序は数を嫌い、異数を排斥する。異数は不安を産む。だから、それを見えなくする」


だが修理屋はひとつ付け加えた。「ただし、消すことは完全な勝利じゃない。消した結果は、必ずどこかに出る。隠された決断が人々の影響を薄めるとき、社会は小さな病を得る。病は初めは無症状だが、いつか広がる」


その言葉の意味が、青年の胸に重く落ちた。自分がただの拾い物を持ち帰ったつもりでいたことが、一つの都市の体調に関わる問題の引き金になっている可能性がある。誰かの選択を「消す」ことは、個人の存在をかすませることと同義だ。青年は無言で拳を握った。


工房のドアが軋んで開いた。薄暗い廊下に、微かな足音が響く。修理屋の顎が引き締まった。「来客だ。だが、来客の足跡は浅い。監視網に映らない歩き方をしている」


青年は顔を上げた。外の塔が吐き出す白い光は、深夜でも容赦なく街を洗っている。だが、そこに映らない足跡がある。誰かが、監視の網の目をすり抜けて動いているのだ。アルゴリズムの庭は、今、見えない裂け目の端に立っていた。小さな種子が土を突き破るように、物語は静かに芽吹き始めた。

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